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2010年6月

2010.06.30

京都・洛東 水無月 ~祇園・福栄堂~

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今日6月30日は夏越しの祓え、各地の神社ではお参りに来る人で賑わった事でしょう。そして、京都でこの日に食べるとされている和菓子が水無月です。ういろうの上にあずきをならべたもので、厄除けや暑気払いの意味があるとされています。

今回頂いたのは、祇園にある福栄堂の「一口水無月」。その名の通り一口サイズの水無月で、白と抹茶の二種類がセットになって売られています。写真では判りにくいですが、ちゃんと斜めに切ってあって、三角形になっているのですよ。

こういうのって、大抵の場合は舞妓さんのおちょぼ口でも食べやすい様にと考案されたものが多いのですが、これはどうなのでしょうね。甘さは控えめで、見かけ通りに上品な味でした。

さて、今年も半年が過ぎて明日から後半戦ですね。半年分の厄も祓ってもらったし、心機一転して頑張る事といたしますか。

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2010.06.29

京都・洛中 特別展「龍馬伝」 ~京都文化博物館~

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三条高倉にある京都文化博物館において、特別展「龍馬伝」が開催されています。これはその名の通り大河ドラマ「龍馬伝」の放映と連動した企画で、京都、高知、長崎などに伝わる龍馬縁の資料の展示を通して、その生涯を浮き彫りにするとあります。

開期は6月19日から始まっており、この後7月19日まで開催されます。展示されている資料は、手紙、刀、写真、縁の品々など200点以上に及び、龍馬の誕生から薩長同盟、そして暗殺にいたるまで、各時期に応じてまとめられています。

龍馬展はこれまでにも何度も開催されており、既に見た事がある資料も複数ありましたが、今回初めて見る興味深いものも多数ありました。

まず、「平井収二郎爪書 辞世」は、切腹の直前に爪で和紙に書き付けたものだそうですが、壮絶な迫力がありましたね。志半ばで倒れた無念が伝わって来る様でした。

次に、「武市半平太筆笑泣録」は獄中の姿を自ら描いたものですが、牢の様子はドラマにあるとおりだと判り、興味深いものがありました。ただ、牢の周囲にはもっと人が居て煮炊きをしていたり、また牢の中にも道具類があったりと、生活臭が感じられます。それに、絵そものものも今のイラスト風で、とても達者なものですよ。悲痛な境遇に在りながら、自らを客観視出来るとは、半平太の人間力を感じますね。

岡田以蔵関係では、彼が所有していたという拳銃が展示されていました。攘夷派の人斬りとして名を馳せた彼が、忌み嫌っていたはずの異人の武器を持っていたというのは意外な気がしますね。異人は嫌いでも、その武器の優秀さは認めていたという事なのでしょうか。

河田小龍では、彼がデザインしたという土佐藩札が面白かったです。鯨と鰹が描かれているのですが、やはり偽造を防ぐ為でしょうね、とても細かくかつリアルに描かれているのが印象的でした。

圧巻はやはり数々の龍馬の書簡でしょう。有名なエヘンの手紙や、日本をせんたくいたし候の手紙など多数が展示されており、龍馬の息づかいが聞こえてくる様な気がしました。大抵の資料は暗号みたいなもので、何が書いてあるのか解説抜きでは判らないのですが、龍馬の書簡は比較的読みやすいものが多く、また内容もおおまかには知っているので、頑張れば半分くらいは読み下せるのですね。ですので、つい見入ってしまい、思わぬ時間を喰う羽目になりました。でも、至福の時間でもありましたね。

手紙では、あと寺田屋の登勢がお龍に宛てた書簡が興味深かったです。お龍の母は自分が見ているから心配するなという内容ですが、その中に寺田屋も仮り屋を建てたという一節があり、寺田屋再建説を裏付ける資料の一つとなっている手紙なのですね。

そのお龍の関係では、前々回だったかな、ドラマにも登場した月琴が展示されていました。長崎の小曽根家に伝わるもので、お龍自身が使ったものかどうかは判らないけれど、この家に滞在して稽古していたのは確かです。龍馬の為に弾く事を夢見て、毎日つま弾いていたのかも知れないですね。

展示には前期と後期があり、期間によって一部内容が変わります。有名なところでは、龍馬暗殺の場にあった血染めの屏風は後期に展示されますね。

そして残念なのは、先行して行われた東京会場でしか見られなかった資料がある事です。例えば、山内容堂が龍馬の脱藩を許すという証拠に描いた逆さ瓢箪の絵がそうで、これば是非見たかったなあ。それに、龍馬が最後に板倉槐堂から貰った梅椿図も展示されません。これって、地元の京都国立博物館蔵なんだけど、なぜだろう。

やはり人気のある龍馬だけあって、会場は結構な混雑になっていました。大人しく行列に並んでいたら、いつ見終えるか判らないといった状態だったので、混んでいるところでは人垣の後ろから覗き込む様に見て回り、空いている場所ではじっくりと見させて貰うという具合にしたのですが、それでも3時間は掛かりました。

そんな中でお薦めなのは音声ガイドで、岩崎弥太郎役の香川照之さんの声で展示品の解説を聞く事が出来ます。これは人垣の後ろから見る時に特に有効で、説明書を見る事が出来なくても展示の内容が判るので、とても助かりましたよ。それに、弥太郎のコーナーに来るとちゃんと弥太郎のテーマが流れたりするので、ドラマの雰囲気も味わう事が出来ました。500円とちょっと高い気もしましたが、それだけの値打ちはありましたね。

とても充実した展示であり、龍馬ファンは必見だと思います。入場料は1200円で月曜日は休館(7月19日は開館)になっています。祇園祭とセットで訪れるのも、素敵かも知れないですね。


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2010.06.28

京都・洛中 頑張れ日本! ワールドカップ必勝祈願~白峯神宮~

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予選リーグを突破したSAMURI BLUE、素晴らしい活躍ですね。明日はベストエイト入りを賭けたパラグアイ戦、相手は南米の強豪ですが、目標達成に向けて頑張って欲しいものです。

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日本中がサッカーで盛り上がる中にあって、京都にも熱いスポットがあります。それが蹴鞠の神を祀る白峯神宮、今はサッカーの神として知られていますね。

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正確には、この神社の祭神は崇徳天皇と淳仁天皇であり、どちらも非業の死を遂げた帝です。その御霊をお慰めするべく明治初年に建てられたのがこの神社でした。そして、この地が蹴鞠の宗家であった飛鳥井家の故地にあたる事から、同家が代々お祀りしてきた精大明神を、鞠の守護神として受け継いだのでした。

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本来はスポーツ全般の神なのですが、今はもっぱらサッカーの神として注目を集めていますね。神前には必勝祈願のボールが奉納され、舞殿の前にはこれも必勝を願う巨大な絵馬が置かれています。時節柄、修学旅行生の格好の訪問ポイントになっており、次から次へとタクシーに乗った学生達がやって来ては、この絵馬に応援メッセージを書き込んでいました。

さて、パラグアイ戦のキックオフは、29日の午後11時。寝不足が心配だけど、午前3時30分開始だったデンマーク戦に比べればまだましですね。私もSAMURI BLUEの勝利を願って、テレビの前で応援する事にします。

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2010.06.27

龍馬伝26 ~西郷吉之助~

「閉鎖の決まった神戸海軍繰練所。麟太郎から西郷吉之助に会ってみないかと言われた龍馬。」

後に麟太郎が著した氷川清話に依ると、先に吉之助と会った麟太郎からその評判を聞いた龍馬が自分も会いたいと麟太郎にせがみ、その紹介状を持って薩摩にまで赴いた様に書かれています。しかし、実際には順番が反対で、先に吉之助と会ったのが龍馬で、麟太郎は有名なその印象を聞かされていた様です。

「京都・薩摩藩邸。藩邸内で盛んに調練を行っている薩摩藩の兵士達。その中で一人吉之助を待つ龍馬。やがて現れた吉之助は、足を引きずっています。先の蛤御門の戦いで、長州藩の狙撃を受けて怪我をしたのでした。」

「何の話をしに来たのかと問いかける吉之助に、太った女が好きなのかと問いかける龍馬。無礼とも言える問いかけに、如何にもとにこやかに答える吉之助。彼の馴染みの女はコロコロと太っており、豚姫と呼んでいると屈託もなく語ります。坂本さあはと聞かれ、母と似た船宿の女将と、無愛想な気の強い女が気になっていると答える龍馬。」

吉之助が豚姫と呼ばれた仲居と仲が良かった事は、これも氷川清話に書かれています。豚姫は祇園の茶屋の仲居だった人で、文字通り豚のように太った女性でした。

吉之助と麟太郎が会ったのは、元治元年9月11日の事で、吉之助から会いたいと申し出たのでした。彼は長州征伐について幕府の腰が定まらない事に苛立っており、海軍奉行である麟太郎の意見を聞きに来たのです。ところが、麟太郎は幕府内部が腐敗しきっている事を伝え、日本の事を考えるのなら薩摩を初めとする雄藩が方針を決めていくより無い、そしてそこには長州も加えるべきだと語ったのでした。これを聞いた吉之助は驚き、長州征伐に消極的になり、さらには幕府を見限る方向へと転じていく事になったのです。

「本題に入り、長州攻めを止めて貰いたい、そんな事をしていては外国に付け込まれるだけだと詰め寄る龍馬。長州藩ではなく日本人の味方だという龍馬に、自分にとっては薩摩が全てであり、日本人という麟太郎は甘い、あれでは海軍奉行を辞めさせられても仕方がないと吐き捨てます。」

龍馬と吉之助が会ったと推定されているのは、8月後半頃とされています。8月23日の麟太郎の日記に、龍馬が京都から帰り、薩摩藩の長州征伐の方針について聞いたと記されており、おそらくはこの時に二人が会ったものと推測されています。

ですので、二人の話題が長州征伐であった事は想像出来るのですが、このドラマのように単純かつ率直なものであったとは思えません。龍馬が語った吉之助の印象として、

「西郷という奴はわからぬ奴だ、少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口とすれば大きな利口だろう。」

という言葉が残っています。これもまた氷川清話に記されている事ですが、ここから想像されるのは相当な腹の探り合いがあっただろうという事ですね。

「その一方で、後ろ盾を失った龍馬に向かって、薩摩は船乗りが欲しい、麟太郎からも龍馬達を預かって欲しいと頼まれている、全ては龍馬次第だと投げかけるのでした。」

麟太郎が龍馬達を預かって欲しいと吉之助に頼んでいたのは事実です。神戸海軍繰練所が閉鎖されるよりも以前の事ですが、その一方で龍馬は自分たちが乗り込むべき船を見つけるべく江戸に出ていた様です。龍馬は、初めは幕府の黒龍丸を借りようとし、それが駄目なら外国船を借りようとした様でした。結果としてその話が駄目となり、土佐藩の仲間は薩摩の世話になる事になった様です。史実の龍馬の方が、書生然としたドラマよりもはるかに活躍していたのですね。

「土佐、坂本家。上方帰りの商人から、海軍繰練所が閉鎖になったと聞き、龍馬の身の上を案じる家族達。」

「神戸海軍繰練所。閉所式が行われています。掲げられていた日の丸を下ろし、丁寧に畳んで箱に収める龍馬。閉所の宣言をする麟太郎。口々に、麟太郎に付いていきたいと願う訓練生達。そんな彼等に、自分は若い人材を育てる事に尽力してきた、自分はもう年だが御前達は違う、これからの日本を背負って欲しいと頼む麟太郎。意気に感じて、応える龍馬達。」

麟太郎が訓練生達に感動的な訓辞をしたかどうか。記録がないので何とも言えませんが、多分何も無かった事でしょう。でも、話としては金八先生みたいで面白かったです。

「神戸海軍繰練所。旅姿の元訓練生達が集まっています。やがて彼等は三々五々と故郷目指して去っていきます。後に残された龍馬達、土佐の脱藩浪士達。そして、もう一人残った陽之助。どこに行くという当てもない彼等ですが、まずは飯を食いに行こうと励ます龍馬。そして、陽之助にも一緒に来いと声を掛けてやります。」

「二条城。薩摩が長州には攻め入らずに、家老の首だけで始末したいと言い出したと知り、怒りに燃える慶喜。その慶喜に、幕府の財政が逼迫しており、戦は避けるべきだと進言する小栗上野介。」

「薩摩藩邸。兵も連れずに長州に乗り込んで大丈夫かと吉之助を気遣う小松帯刀。薩摩の為なら命も惜しくないと笑う吉之助。」

第一次長州征伐において、西郷の判断によって実際の戦いには至らず、長州藩の三家老の切腹をもって事を納めたのは事実です。ただし、兵を連れて行かなかったというのはあり得ず、実際には諸藩の兵を集めて15万もの兵力を送り込んでいました。吉之助は交渉のために長州藩の支藩である岩国藩に乗り込んでいますが、これも単身という訳ではなく、15万の兵力を擁した使者としてでした。

吉之助が長州藩を攻め潰す事をしなかったのは、麟太郎の話を聞いて考えが変わった事もありますが、そもそも征長に加わった諸藩が財政的に疲弊しており戦意が無かった事、蛤御門の変に勝った幕府が俄に高飛車になり、参勤交代を復活させようとするなど強権的な側面を見せ始めた事、そして長州の次は自分たちが潰されるのではないかと諸藩が疑心暗鬼を抱いていた事などの理由がありました。そして、これらは薩摩藩が抱く疑念でもあったのです。そこで、幕府を助ける様な征長をするよりも、軽い処置で納めておく方が得策と踏んだのでした。

この吉之助が執った処置は当然慶喜を怒らせましたが、すぐにはどうする事も出来ませんでした。しかし、この不満が後の第二次征長を興す元となって行きます。

「江戸。フランスに援助を申し出る上野介。二つ返事で、技術と資金の提供を引き受けるフランス公使。」

「土佐、弥太郎の家。よく眠る春路を見て、幸せそうな家族達。その中で一人ふさぎ込んでいる弥太郎。饅頭があるのを見つけて食べようとする弥次郎から、あわてて取り上げる弥太郎。訝る家族に、半平太から以蔵に渡して欲しいと頼まれた毒饅頭だと白状する弥太郎。人殺しはいけないという喜勢、半平太の気持ちを汲んで以蔵に渡してやれと言う弥次郎。」

「以蔵の牢を訪れた弥太郎。歩けない程に衰弱した以蔵。震えながら、半平太からの差し入れだと言って饅頭を差し出す弥太郎。その様子のただならぬ事に気付きながら、笑って受け取る以蔵。その以蔵から無理矢理饅頭を奪い返し、自分には出来ないと半泣きになりながら出ていく弥太郎。自分には舌をかみ切る力も残っていない、饅頭を渡してくれとつぶやく以蔵。」

「半平太の牢。和助に首尾を聞き、以蔵が生きていると聞いて落胆する半平太。」

この下りが全て創作である事は前回に書いた通りです。でも、ドラマとして見ればそれぞれの苦悩が描かれていて、見応えはありましたね。

「奉行所で半平太を取り調べる象二郎。彼もまた、頑として否認する半平太にいささか疲れた様子です。容堂候に会わせろと檄高する半平太と、うんざりした様子の象二郎。」

「高知城。曼荼羅図の前に蝋燭を灯しています。その部屋からよろめくようにして出てきた、なにやら憔悴した様子の容堂候。」

相変わらず訳の判らない容堂候ですが、ホームページに書かれている事から推測すると、容堂候は先が見えすぎる事から、日本の行く末が判ってしまい、それでいてどうする事も出来ない為に憔悴しきっているという設定の様です。でも、ドラマだけを見ていては、そこまで理解するのは無理ですよね。どう見ても、訳の判らぬ愚かな君主が、酒の飲み過ぎでおかしくなったという程度にしか見えません。

「神戸村近くの海岸。途方に暮れたように海を見つめる龍馬達の一行。吉之助からの申し出を思い出している龍馬。その思いを振り切るように、皆を励まし出立を促す龍馬。」

彼等はこれから大阪に向かう様ですね。実際にも彼等は一度大阪に行き、そこから薩摩へと向かった様です。もっとも、その中で龍馬は上方に残り、大阪、京都、江戸の間を行き来していた様ですね。

次回は龍馬が土佐に帰ったという設定になる様です。確かにこの頃の龍馬の足取りには不明な所が多いのですが、いくら何でも土佐に帰っていたというのは無いでしょう。何だかなあという気はしますが、ドラマの展開を待つ事としますか。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「「武市半平太伝」 松岡 司 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉
「氷川清話」勝海舟

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2010.06.26

京都・洛東 梅雨の風景 ~祇園甲部~

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梅雨の雨に濡れる祇園甲部です。

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緑に恵まれた祇園白川と違い、四条通から南側は料亭やお茶屋が軒を並べる一帯で、花を見つけるのは難しいですね。それでも探せばあるもので、ここでも紫陽花が咲いていました。

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場所は八坂女紅場学園の入り口近くで、2年前には半夏生が咲いていた場所です。実は今年も当てにして見に行ったのですが、残念ながら咲いてなかったですね。

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代わりに咲いていたのが桔梗で、この1輪だけが花開いていました。どうやら桔梗もまた、今年の開花時期が遅れている花の一つの様ですね。

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その背後は赤い壁になっているのですが、わざとでしょうね、蔦を這わせてありました。あまりに鮮やかな色の組み合わせだったので、撮らせて貰ってきました。

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最近は祇園もすっかり観光地となり、花見小路周辺はいつも人で溢れています。でも、一歩脇に逸れると急に人が少なくなり、特にこんな雨の日は誰も通らない瞬間が出来たりします。

濡れた石畳が風情を増す、梅雨の日の祇園です。

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2010.06.25

京都・洛東 梅雨の風景 ~祇園白川~

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6月の祇園白川を彩る紫陽花です。

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紫陽花は、文芸芸妓として知られた磯田多佳が愛した花でした。その縁もあってでしょう、白川沿いには沢山の紫陽花が植えられています。

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紫陽花は明るい太陽の下よりも、曇りや雨の日のぼんやりとした光の方が風情を感じますね。特に夕方の灯ともし頃がよく似合う気がします。

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そして、灯りが入り始めた祇園切り通しです。梅雨時分は日が長いですけどね、この辺りは日陰になるので、看板が灯り出すのが周囲より少し早いのです。

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夜の町祇園が目覚め出す時間帯、この頃が一番風情がある様な気がします。静かな中にどこか艶めいた気配を感じる、石畳の小道です。

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2010.06.24

京都・洛東 半夏生の庭2010 ~建仁寺塔頭・両足院~

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建仁寺の塔頭・両足院にて、半夏生の庭が公開されています。毎年半夏生の花が咲く時期に合わせて実施されているもので、今年は7月11日(日)まで行われます。

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「半夏生の庭」と呼ばれるのは書院前庭。江戸時代半ばに藪内流5代の竹心紹智によって作庭された、池泉回遊式の庭園です。

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以前は作庭本来の趣旨に添って池の周囲を一周出来たのですが、今回は書院前のエリアには入れなくなっています。どうやら、苔を踏み荒らされる事を防ぐために通行止めにした様ですね。まあ、眺めとしては書院から見られるので良いのですが、やはり歩いて見るべき庭ですからね、ちょっと残念です。

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今回もお茶券を購入すれば、茶室でお茶を飲む事が出来ます。両足院の為にあつらえたお茶菓子が頂けるので楽しみにしていたのですが、残念な事に訪れたのが遅かった為に終わっていました。念のために聞いてみると、お茶席があるのは午後4時までなのだそうです。今後行かれる方はご注意下さいね。

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主役の半夏生はほぼ花盛りでした。蒸し暑い時期に、この涼しげな花を見るのはとても風情のあるものですね。花期の長い花ですから、まだまだ楽しめると思いますよ。

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方丈前の庭園では、苔が見事な色になっていました。ここの苔は手入れが行き届いており、いつ来ても綺麗なのですけどね、梅雨の時期は一段と映えるような気がします。

雨の日にどこに出掛けようかと迷っている方には、この半夏生の庭はお薦めですよ。梅雨の時期ならではの風情が楽しめる場所だと思います。

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2010.06.23

京都・洛東 梅雨の風景 ~真如堂~

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6月の真如堂の花と言えば、菩提樹ですね。花そのものは小さくて地味なのですが、木全体を覆うようにして咲き、かつ芳香が素晴らしい事から人気があります。

今年は、つぼみが付くのは早かったのですが、開花までには随分と時間が掛かりました。例年よりも一週間ほど遅い開花だった様ですね。この花も今年の異常気象によって、ペースを狂わされた一つだった様です。

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待ちに待った開花だったのですが、とにかくミツバチの数が半端ではなく、この下に居ると顔にぶつかって来る程でした。刺されはしないと判っていても、さすがに気持ちの良いものではなかったですね。

この写真を撮ったのが6月19日でしたから、その後の雨でかなり散ってしまったものと思われます。まだ残ってはいるでしょうけど、盛りは既に過ぎてしまったんじゃないかな。

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そして、もう一つの6月の花が夏椿、通称「沙羅の花」ですね。こちらはほぼ例年通りの開花で、菩提樹と両方を楽しめたのは嬉しい誤算と言うべきなのかも知れません。

この花は咲き出したばかりであり、蕾もまだまだ沢山有りましたので、これから盛りを迎えるものと思われます。

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真如堂では、紫陽花にも力を入れている様ですね。境内のそこかしこで咲いていますが、特に多いのが鐘楼の周囲です。年々充実して来ており、今年はかなり見応えがある様になってきました。ただ、奥まった場所になるので、その存在を知らない人も多いのではないかな。

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塔頭の東陽院では、柏葉紫陽花が咲いています。ただ、今年は少し花が小さいような気がしますね。その向こうでほんのり赤く見えるのはシモツケです。ただ、残念ながら既に盛りは過ぎていたので、色だけを頂いて来ました。

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柏葉紫陽花の向かい側では、ビョウヤナギが鮮やかな花を咲かせていました。この繊細なおしべの線描が素晴らしいですね。

雨のイメージからは遠いけれど、その美しさで憂鬱な気分を忘れさせてくれる貴重な梅雨の花です。

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2010.06.22

京都・洛北 梅雨の風景 ~上賀茂神社~

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下鴨神社から上賀茂神社にやって来ました。この二つの神社は共に賀茂一族の氏神を祀る神社であり、下鴨が親の神、上賀茂が子の神にあたるとされています。

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風そよぐ ならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける   藤原家隆

6月と言えば夏越の祓いですね。上賀茂神社では、既に二の鳥居の内側に茅の輪がしつらえられており、参拝者にお祓いを促していました。この輪を

「みな月の なごしの祓へするひとは ちとせのいのち のぶといふなり」

と心の中で唱えながら、左、右、左の順に3回潜り抜けるのが作法です。

本番は6月30日で、この日は午前10寺から夏越祓の神事、午後8時から人形流しが行われます。

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上賀茂神社に来た目的の一つは、花菖蒲を見る事でした。ところが、橋殿の側にある花菖蒲は、思った程咲いてはいなかったのです。盛りを過ぎたと言うより、二番花が咲く前の端境期だった様ですね。ちょっと残念でしたが、風情だけでもと撮ってきました。

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その橋殿から東側に、ちょっとした山道のような細い道が続いています。あまりここを歩く人は居ないのですが、神さびた風情があって、結構好きな場所になっています。

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その道沿いに流れているのが御手洗川。別名を瀬見の小川とも言い、上賀茂神社の祭神である別雷神を産んだ玉依比売(タマヨリヒメ)が、懐妊の元となった丹塗りの矢を拾った場所だとされています。

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瀬見の小川の南にあるのが「渉渓園」で、4月の第二日曜日に賀茂曲水宴が開かれる場所です。普段は非公開なのですが、花菖蒲の期間限定で一般公開がされていました。私も入ってみたのですが、残念ながらここでも花菖蒲はあまり咲いていなかったのですね。盛りだったら、それなりに風情があったのだけどな。

「渉渓園」の公開は6月30日までで、志納金として300円が必要です。

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上賀茂神社の境内には、檜木が多いですね。針葉樹の新緑というのはあまり話題になりませんが、こうしてみると悪くはないですね。むしろ梅雨時には、この深い緑の方がより映える様な気がします。神域には特にふさわしいのかも知れないですね。

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2010.06.21

京都・洛北 梅雨の風景 ~下鴨神社~

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今年の梅雨も本格化して、鬱陶しい日々が続きます。でも、こういう湿潤的な時にしか出会えない景色がある事も確かで、梅雨こそ日本的な情緒を味わえる季節とも言えそうです。今週はそんな梅雨ならではの景色をお届けしようと思います。

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雨によって、最も生気を得るのは森の草木でしょうね。ここ糺の森では木々が鬱蒼と生い茂り、かつての山城原野を彷彿とさせる光景となっていました。とても住宅街に隣接した場所とは思えない風景ですね。

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下鴨神社の境内に入っても、やはり緑が濃いと感じますね。境内を流れる御手洗川の水源は井戸水で、かつては行事のある時以外は止められて涸れ川になっていました。でも最近は糺の森の涵養のためでしょうか、最小限の水は汲み上げられているらしく、ずっと澪筋が出来ています。僅かな水量でも、この方が情緒があって良いですね。

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その御手洗川のほとりにある光琳梅では、沢山の実が成っていました。梅の実が実る頃に降る長雨だから梅雨と言うそうですが、なるほど今の季節にふさわしい光景ではありますね。

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そして、梅雨と言えば紫陽花ですね。下鴨神社でも烏の縄手から境内へと入った所に、一群の紫陽花が咲いていました。今年は花期がいつもと違う花が多い中で、紫陽花は例年通りのサイクルを守っている様です。雨が似合う、まさに梅雨の花ですね。

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2010.06.20

龍馬伝25 ~寺田屋の母~

「伏見・寺田屋浜。母にうり二つの登勢を見て驚く龍馬。思わず近づき話し掛けますが、思いを伝えられないまま、寺田屋に泊まる事になります。」

「船頭達で賑わう寺田屋。一人で夕食を食べる龍馬の下に、登勢があいさつに来ました。初めて遭う登勢に、以前土佐に居た事はないか、年の離れた姉は居ないかと矢継ぎ早に聞く龍馬。要領を得ず、曖昧に笑って席を離れる登勢。」

「部屋に引き上げた龍馬。母の記憶が蘇り、眠れぬ様子です。」

「寺田屋浜。川面を見ながら煙管を吸い、小唄を歌っている登勢。そこに龍馬がやって来ました。彼は登勢が母に似ていると告げ、母と呼ばせて欲しいと頼みます。快く願いを聞き入れ、龍馬と呼んでやる登勢。その声を聞き、やはり母とは違うと納得し、吹っ切れた様子の龍馬。」

前回にも書きましたが、寺田屋の登勢と龍馬の母が似ているというのは、配役の流れから来た全くの創作です。ただ、妙に納得の行く設定であり、これを信じてしまう人が沢山出て来るのではないかと気掛かりですね。何とも罪作りな設定ではないかしらん。

なお、登勢の出身地は近江国の大津です。

「神戸海軍繰練所。仲間と訓練に励む龍馬。」

「京都郊外に着いた長州軍。一人、小五郎だけが御所に向かって攻め込む事の無謀さを説いていますが、聞く者は誰一人居ません。」

長州軍が2千の兵力で京都の郊外に着陣したのは、元治元年6月25日の事でした。長州軍は伏見、山崎、天龍寺の3箇所に別れて布陣し、3方から京都に進撃する構えを見せました。対して幕府軍は会津藩と薩摩藩を主力とし、在京各藩にも出陣を命じて御所の周囲を固め、5万の兵力で迎撃の体制を固めました。

しかし、戦いはすぐには始まらず、長州の無実を訴えるための朝廷への陳情が繰り返し行われます。そもそも、この出兵は朝廷への陳情を行う事を名目としており、これは当然の動きでもありました。桂はこの時京都にあって、この陳情が上手く行くように在京各藩の間を周旋して回っていた様です。しかし、会津藩と薩摩藩に押さえられた朝廷の意向を覆すまでには至らず、かえって長州追討令が出され兼ねない状況になってきました。

一方、長州軍の中にあって自重論を説いたのは久坂玄瑞でした。彼は少数で京都に攻め込む愚を悟り、一度大阪に引いて時期を待とうと考えたのです。その一つの根拠として、毛利家の世子が2千の軍勢を率いて上洛の途にあり、この到着を待つべしと主張したのです。

しかし、これに真っ向から反対したのが来島又兵衛でした。彼は2千の兵力が増えたとしても焼け石に水であり、幕府軍の体勢が整い切らないうちに討って出るべきだと主張したのです。そして、遂には単独ででも討って出ると言い張り、石清水八幡宮で行われていた軍議の席を立って天龍寺の陣へ引き上げてしまいます。この動きに引きずられる形で、蛤御門の変は始まってしまったのでした。

「ついに都に攻め入った長州軍。蛤御門で会津藩と衝突し戦いになります。」

「二条城。長州軍が御所に向かって発砲したと聞き、喜色を浮かべながら出陣する慶喜。」

戦いが始まったのは7月19日の事でした。最初に伏見方面で戦いがあり、これはあっさりと長州軍の敗北で終わっています。この戦いの間隙を縫うようにして蛤御門に迫ったのが、来島又兵衛の居る天龍寺の軍でした。ドラマでは、長州軍から発砲した様になっていましたが、実際には幕府軍側から発砲しています。つまり、長州軍にしても御所に向かって銃を撃つ事の非は知っており、相手から撃たれたのでやむを得ず応射したという形を作ったのですね。結果としてこれは何の意味も持たなかったのですが、朝敵にされるという事を何よりも恐れた当時の人達の心情を良く物語っていると思われます。

「神戸海軍繰練所。訓練に励む龍馬達の下に、京都で長州藩が戦を始め、都は炎に包まれているという知らせが入ります。」

「御所で奮戦する来島又兵衛。戦いは長州軍に有利でしたが、薩摩藩の参戦によって形勢が逆転してしまいました。蛤御門の近くで討ち死にする又兵衛。」

「堺町御門。炎の中で自刃した久坂玄瑞。」

来島又兵衛の軍は幕府軍の虚を突く形となり、蛤御門を突破する事に成功しました。そして、幕府軍を押しまくり、御所の南西角にあった清水谷家近くまで攻め込んだのです。そこで、形勢を逆転させたのが薩摩軍でした。彼等は天龍寺の軍を迎撃すべく西に向かっていたのですが、長州軍とはすれ違う形になってしまい、御所への突入を許してしまったのですね。そして、慌てて御所へと引き返し、長州軍へと襲い掛かったのでした。

この軍を率いていたのが西郷隆盛でした。薩摩軍と言えどもいきなり優勢になった訳ではなく、指揮を執っていた西郷が狙撃を受けて落馬するなど、長州軍の勢いは容易に衰えませんでした。しかし、先頭に立って荒れ狂っていた来島又兵衛が狙撃されて倒れると、形勢が一気に逆転しました。彼等は多くの兵を失いながら御所を出て、長州を目指して落ちていったのでした。

一方、山崎から出た軍は、来島又兵衛の軍が崩れ去った後に堺町御門に到着しました。つまり、幕府軍の勢いが最高調に達した所に飛び込んだ訳で、最初から苦戦を強いられます。彼等は御門に隣接した鷹司邸に入り込んで抵抗を試みますが、多勢に無勢であり、遂には壊滅してしまいます。この軍に居た久坂玄瑞は、前太政大臣鷹司政通に嘆願し御所へ参内する供に加えて貰えるよう訴えますが、これを拒否されてしまいました。玄瑞は絶望のあまり、寺島忠三郎と刺し違える形で自害して果てたのでした。

「京都にやって来た龍馬。彼は焼け野原になった都を見て呆然となります。その焼け跡に中に小五郎が居ました。龍馬に長州藩の再起を近い、都を後にする小五郎。」

桂小五郎は、この戦争の直前まで周旋を続けており、戦いが始まった後は藩邸に残っていた兵力を率いて戦場をうろついていた様ですが、最後まで戦いには参加しなかった様です。戦後も暫くの間は京都に潜伏しており、乞食の群に入ったり、幾松に匿われていたりしたのですが、探索の目が厳しくなった為に京都を離れ、但馬へと逃れて行ったのでした。ここから約2年間の潜伏を続け、後に逃げの小五郎という異名で呼ばれる様になります。

「お龍の家の近く。炊き出しの周囲に人が集まっています。その中にお龍達の姿がありました。彼女たちの無事を知り、安堵する龍馬。」

「お龍の家。扇岩が焼け、先の見通しが立たなくなったというお龍。焼け出された人達は何をするか判らない、ここも危ないと危惧するお龍に、寺田屋に行こうと提案する龍馬。」

「寺田屋。お龍達姉弟を連れてきた龍馬。いきなり彼女達を世話しろと言われて、難色を示す登勢。しかし、龍馬の懸命の頼みに折れ、面倒を見ると約束します。こうして寺田屋で働く事になったお龍。」

この戦いの時には、龍馬は江戸に居た様です。そして、戦いが済んだ後に京都に帰って来て、8月1日(この日付には異論もあります)にお龍と祝言を挙げました。そして、この直後に西郷隆盛と会ったらしく、西郷から薩摩藩の定宿である寺田屋を紹介された様ですね。(寺田屋を紹介されたのは、もっと後の事だとする説もあります。)

お龍は確かに寺田屋で働く様になりますが、それは何の伝手もなく転がり込んだのではなく、龍馬に薩摩藩との繋がりがあり、かつ龍馬の妻という立場があったからでした。登勢の人柄はドラマに描かれていたとおりだった様ですけどね。なお、弟妹達はそれぞれ別の場所に預けられており、家族で寺田屋に世話になったという事はありません。

「土佐、高知城。象二郎が容堂候に、半平太を直接責めたい、彼を下士に落として欲しいと願っています。しかし、下賤の者に一々取り合っていられないと相手にしない容堂候。」

「以蔵を責め立てる象二郎。頑として口を割らない以蔵。そこに立ち会わされている弥太郎。あまりの凄惨さに、彼も相当に辛そうです。」

「酒に溺れ、曼荼羅図に耽溺する容堂候。」

この下りは、容堂候が酒浸りだったという以外は全て創作です。半平太を下士に落とそうとした事実はなく、以蔵が殊勝に口を割らなかったということもなく、容堂候が意味不明の行動を取るといった事実もありませんでした。そもそも容堂候はあんな老人ではなく、半平太より2歳上だけでしたしね。どうにも、このドラマの演出には首をかしげたくなるばかりです。

「京都御所。孝明天皇から長州征伐を命じられる慶喜と容保。」

「二条城。幕臣達を前に、長州征伐を宣言する慶喜。唯一人、長州征伐の非を唱えた麟太郎。しかし、その諫言は慶喜の逆鱗に触れてしまいます。神戸海軍繰練所に過激の徒が居る事、中でも池田屋で死んだ亀弥太が居た事を咎められ、軍艦奉行の罷免を命じられてしまいます。」

麟太郎か長州征伐に批判的だったのは確かですが、直接慶喜に向かって諫言したという事実はありません。麟太郎が軍艦奉行を罷免されたのは、長州をも含めた雄藩連合の構想を西郷に語り、自らも幕閣に働きかけたのですが、それが危険思想と判断されたからでした。軍艦奉行は罷免させられたものの、その思想は西郷に影響を与え、後の薩長同盟の布石ともなって行く事になります。

「神戸海軍繰練所。訓練生を前に、軍艦奉行を罷免になり、江戸で蟄居閉門を命じられたと告げる麟太郎。この繰練所はどうなると聞く龍馬に、ここも閉鎖と決まったと答える麟太郎。驚くと共に、口々に麟太郎を責める訓練生達。悔しさを胸に秘めながら、土下座して謝る麟太郎。」

麟太郎の罷免は個人的なものであり、彼の私塾である海軍塾の閉鎖はまだしも、神戸海軍繰練所は幕府の組織である事から、直接には連動しないはずでした。しかし、結果として少し時期は遅れますが、繰練所は閉鎖に追い込まれてしまいます。

「半平太の牢。弥太郎がやって来ました。彼は半平太に、このままでは以蔵が死んでしまう、早く白状したらどうだと迫ります。端で見ている自分も辛いと言う弥太郎に、それなら頼みがあると言って、饅頭の包みを取り出す半平太。それは天祥丸という毒薬を仕込んだ毒饅頭でした。彼は以蔵にこれを渡し、楽にしてやってくれと弥太郎に頼みます。」

半平太は確かに以蔵の死を願っていました。それは以蔵が苦しまない様にという慈悲からではなく、以蔵の自白から同志が次々と投獄されて行く事を恐れての事でした。この天祥丸というのは、ドラマにあったようにアヘンを使った毒薬で、当時は薬問屋に行けば簡単に手に入ったそうですね。

これを最初に使ったのは、半平太の実弟である田内衛吉に対してでした。この毒薬を使う事については同志の間でも賛否があったのですが、拷問にくじけそうになった衛吉は、差し入れたらたこの毒を仰いで自ら命を絶ったそうです。

また、新たに投獄される同志の中には、あらかじめこの天祥丸を手に入れておき、着物に縫い込むなどして牢に持ち込んだ者もあった様ですね。

以蔵の暗殺計画は何度も浮上しては実行されずに居たのですが、何度目かの自白が始まった時、遂に決行される事になりました。衛吉の時のように直接手渡すのではなく、その食事に混ぜようとしたのですね。しかし、その機会を待つ内に以蔵の処刑が実施され、暗殺する必要も無くなってしまったのでした。

「伏見、寺田屋。懸命にはたらくお龍。その彼女に、愛想良くして欲しいと頼む登勢ですが、それは苦手だと逃げるお龍。」

「寺田屋にやって来た龍馬。彼はお龍が仕事に励んでいる所を見て、満足します。」

「寺田屋の二階。お龍に「うみ」と言って見ろと何度も言う龍馬。訳の判らぬまま、懸命に繰り返すお龍。知らずに笑顔になったお龍を見て、それで良いと満足そうな龍馬。彼はお龍の笑顔は誰よりも美しいと言って、寺田屋を去ります。」

密かに笑ったお龍は綺麗でしたね。確かに笑顔の似合う女性です。

「神戸。誰も居なくなった繰練所にやって来た龍馬。行き先を見失い、海に向かって叫ぶ龍馬。」

この頃の龍馬は、海軍の構想と蝦夷地開拓の構想の二つを持っていたのですが、麟太郎の失脚によって両方とも失う事になってしまいました。実際、この後の龍馬の足取りが判らなくなってしまうのですが、どうやら薩摩藩に匿われていた様です。そこには西郷が介在していなければならないのですが、その出会いは来週に描かれる様ですね。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「「武市半平太伝」 松岡 司 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉

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2010.06.19

京都・洛北 皐月2010 ~圓光寺 6.12~

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平成22年6月12日の圓光寺です。なんだ6月7日のエントリーと同じ絵柄じゃないかと叱られそうだけど、もみじの根元のさつきが咲いているという所に注目して下さい。

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もう少し判りやすい写真がこちらです。同じ木を別角度から撮ったのですが、確かに咲いているでしょう?まあ、期待していた程の咲きっぷりでは無かったのですが。

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実は、庭園の入り口より手前にあるこの木は結構咲いていたのです。この花を見て、これは良い時に来たと喜んだのですが、中にはいると当てが外れてしまいました。

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ご覧のようにちょっと寂しい状態で、あれっと言う感じでしたね。ただ、正直言ってこの庭のさつきが咲いているところを見るのは初めてでして、これが盛りを過ぎた状態なのか、まだこれから咲くところだったのか、正確な判断が出来ません。

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たぶんですが、既に終わった木とこれからの木が混在していて、私が行った時は丁度端境期だった様な気がしています。ただし、これは何の根拠も無く、保証の限りではありません。

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これまで気が付かなかったのですが、こんな可愛らしい仏様が居られたのですね。上手い具合に背後でさつきが咲いていたので、一緒に撮らせて頂きました。

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6月も半ばになると、竹の秋も過ぎて竹林の緑が鮮やかになって来ます。竹は今が新緑の季節なのですね。

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そして、すっかり緑が濃くなったもみじです。それでも透過光で見ると、まだまだ新鮮味がありますね。さつきは今ひとつだったけれど、青もみじの鮮烈さに癒される思いがした圓光寺でした。


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2010.06.18

京都・洛北 皐月2010 ~詩仙堂 6.12~

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平成22年6月12日の詩仙堂です。この日は少し盛りを過ぎてはいたものの、綺麗に咲いたさつきが出迎えてくれました。

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いつも賑わう詩仙堂ですが、この日は比較的拝観者が少なく、この写真を撮る事が出来ました。まあタイミングの問題で、人が居なくなった瞬間を狙ってパパッと撮っているのですけどね。

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さつきは、全体としての盛りは過ぎていたのかな。でも、まだ見頃の木もあって、この庭らしい景観を楽しむ事が出来ました。

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このあたりのさつきは、まだこれから咲くのかな。座敷正面は無理でも、部分的にはまだ見頃は続いているのかも知れません。

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もう一つの楽しみであった京鹿子は、見頃の株がまだ残っていました。霞が掛かったような不思議な花ですが、京という名にふさわしい上品な美しさを持っています。ただ、この花が最後と言って良く、全体としては盛りを過ぎてしまっていました。もう一週間早く来れば良かったのかな。

見頃の花に出会うのは、なかなか難しいものですね。

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2010.06.17

京都・洛北 バラ園2010 ~京都府立植物園 6.12~

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平成22年6月12日の京都府立植物園「バラ園」です。この日は沢山のバラが咲き誇り、素晴らしい景観を見せてくれていました。

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このバラ園にあるのは300品種2000株と言われ、見渡す限りバラの花で埋まっていると言っても過言ではありません。それほど見応えのある場所ですよ。

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数ある花の中で、毎年気になるのがアンネのバラです。アンネ・フランクに由来し、時間と共に黄色から濃いオレンジに変化して行くという美しい花ですね。

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そのアンネのバラが咲き誇る様を撮ってみました。背景になっているのは無数のバラで、まさに花園と呼ぶにふさわしい光景です。

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そんなバラ園にあって、比較的静かなのがバーゴラにつるバラが咲くこのエリアですね。ここにはベンチがあって、花を見ながら一休みするにはもってこいの場所です。ただ、隣の大学から色々な音が聞こえてくるのが難点と言えば難点かな。

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バラ園の西のはずれでは、ポピーが咲いていました。風にそよいで咲く様は、バラとはまた違った風情と美しさがあります。

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そして、その周辺ではアリウム・ギガンティウムが咲いていました。毎年植えられる場所が変わるようですが、その特異な花姿は健在です。惑星系が出現したようなその景色は、この季節に植物園を訪れる楽しみの一つでもありますね。

6月の植物園は、見所が一杯の、とても楽しい場所ですよ。

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2010.06.16

京都・洛北 花菖蒲2010 ~京都府立植物園 6.12~

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平成22年6月12日の京都府立植物園です。この日は大芝生地の東隣にある「はなしょうぶ園」で、花菖蒲が見頃を迎えていました。

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ここには250品種、3000株あると言いますから、平安神宮よりも多いのですね。でも、植栽のレイアウトの関係か、こちらの方がちょっと少ないのかなと感じてしまいます。

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この日咲いていたのは一番花で、花殻が無いためにすっきりして見えます。これが3番花まで行くと、終わった花が美観を損ねる事になってしまうのが難点となりますね。

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花菖蒲の隣には、巨大なヌマスギが植えられています。これって、植物園ならではの光景ですよね。もし、咲いている場所が判らなければ、この木を目当てにして探すと判りやすいですよ。

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ところで、園長さんが交代した事でどうなるかと思っていた「きまぐれ園だより」ですが、ちゃんと引き継がれていました。書いているのが新しい園長さんなのかどうかは不明ですが、丁寧な絵柄に変わって見やすくなりましたね。まあ、見方によっては個性が無くなったとも言えますが。

でも、これはとても便利なアイテムなので、是非今後も続けて欲しいです。

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私にとって花菖蒲が難しい被写体である事は変わりないのですが、平安神宮よりはここの方が撮りやすいと感じます。たぶん池の中に八つ橋があるので、ポジションを選びやすいからかも知れませんね。あと、橋をアクセントに使えるからかな。

もっと腕を上げなきゃという事は確かなのですけどね。

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2010.06.15

京都・洛東 花菖蒲2010 ~平安神宮 6.12~

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平成22年6月12日の平安神宮です。この日は西神苑の白虎池で、花菖蒲が見頃を迎えていました。

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平安神宮では神苑ごとに季節の花があって、南神苑と東神苑では八重紅枝垂れ桜、中神苑では杜若と睡蓮がそれぞれメインになります。西神苑は花菖蒲と睡蓮で、この池としては一年で最も華やかな季節を迎えたと言えますね。

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ここにある花菖蒲は200種2000株なのだとか。とても種類は見分けられないけれど、見るからに豪華な景色ではありますね。

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それにしても、いつも思う事ですが、花菖蒲の写真は難しい。特にこの平安神宮では、まともに撮れたと思う事がほとんど無いです。あまりの美しさに幻惑されてしまうのかしらん?

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この日は一番花が咲き揃ったところで、これから二番花、三番花が咲いて行きます。ですので、今週末は引き続いて見頃が続いている事でしょう。

天気が悪そうなのが気になる所ですが、雨の日の花菖蒲もそう悪くはないものですよ。ただ、足下だけは滑らない様にお気を付け下さい。

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2010.06.14

京都・洛北 蛍火の茶会2010 ~下鴨神社~

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6月も半ばとなり、蛍が飛び交う季節となりましたね。その蛍が主役となる行事、蛍火の茶会が今年も下鴨神社で6月12日に開催されました。

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この行事は糺の森に蛍が復活した事を記念して行われる様になったもので、今年で20回目の開催となります。その名の通り細殿と橋殿に設けられた茶席で抹茶が振る舞われるという行事で、裏千家が世話方になっているのですね。

このお茶会に参加するには糺の森保存会の会員になる事が必要であり、その保存会からの招待状を受け取った人が茶席に座る事が出来ます。

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放たれる蛍はおよそ600匹で、あらかじめ糺の森で捕獲されたものなのだそうです。蛍は境内に置かれた大きな篭に入れられており、明るい内ならその姿を見る事が出来ます。

夜は光しか見えないけれど、身体全体を見ると案外大きいという気がします。尾部の白くなったところが光るのですね。

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当日の行事は午後1時30分からの雅楽の奉納から始まり、神事である報告祭、箏曲の奉納、雅楽舞の奉納などが行われます。茶席は午後5時から9時まで開催されている様ですね。

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この行事のもう一つの楽しみが、京都の老舗に依る出店ですね。ざっと店の名を挙げると、老松、尾張屋、賀茂みたらし茶屋、下鴨茶寮、西尾八ツ橋、西利、花折、豆政など、名の知れたところばかりが揃っています。この店先を覗いていくだけでも、結構楽しいですよ。

ちなみに地元のふたばも出店していましたが、凄い人気ぶりで、夕方の内に売り切れてしまったらしく、早々に店じまいをしていました。

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蛍の放流は周囲が暗くなるのを待ち、午後8時前に行われました。例年と違って燭台を柵を撤去した上で、篭ごと池の中に放り込んでしまいました。この方が蛍が飛び立ちやすいという事なのでしょうか。確かに去年よりも、蛍は良く飛んでいたような気もします。

もっとも私的には、あらかじめ合わせておいた焦点距離が微妙にずれたり、光源が無くなったので動画に何が写っているのか判らなくるといったハプニングに繋がったのですが。その動画を次にアップします。

こうしてみると、周囲の様子が判らない代わりに蛍の光だけが見えるので、かえって良かったのかなという気もしますね。

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懸念されたフラッシュ攻撃ですが、今年は比較的少なくて済みました。去年があまりに酷かったからでしょうか、神社の方がフラッシュが光る都度に注意を促していたからで、子供がそれに唱和していたのも効いていたのかな。子供に注意される様ではあまりに情けないですからね。それでも完全には無くならなかったけれど、例年になく落ち着いて蛍を見る事が出来たのは嬉しかったです。

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最後に行われる行事が十二単衣の着付と王朝舞です。地味な下着から豪華な十二単衣に変身して行く様子は、見ていてなかなか面白いですよ。

帰りがけには、今年も高野川で蛍が光っていました。沢山の車が行き交う道のすぐ側で仄かな光が見えるというのは、不思議な気さえしますね。でもそれが当たり前と思える様になれば良いですね。いつかそんな日が来るのかな。

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2010.06.13

龍馬伝24 ~愛の蛍~

「池田屋で亀弥太を襲ったのは新選組と聞き、駆けだした龍馬。彼は屯所に引き上げる近藤達を見つけ、飛び出していこうとしますが、背後から桂小五郎に止められます。」

「扇岩。池田屋の噂で持ちきりのところに、小五郎と龍馬が戻ってきました。亀弥太が龍馬の幼なじみと聞き、自分も会合に参加するはずで、危ういところだったと小五郎。彼は亀弥太の志を引き継ぐ為にも、長州は闘うと誓います。」

池田屋事件の時に龍馬が京都に居なかった事は、前回に書いたとおりです。また、小五郎が池田屋の会合に出るはずだったところを危うく助かったのは良く知られるところですが、事件直後の彼は長州藩邸にあって陣頭指揮を執っていたはずで、一人で出歩くなど有り得ない事です。そして、この小五郎はやけに好戦的なのですが、実際には長州藩だけで闘う事の非を誰よりも知っており、暴発しようとする国元を必死で押さえていたのが彼でした。創作なのは良いとして、ここまでリアリティーに欠けると、ちょっと白けた気分になってしまいますね。

「龍馬がここにいては危ういと、お龍の家に隠れる事を進める扇岩の主人達。」

この頃にはお龍の家というのは無く、お龍は扇岩に住み込んでいました。母は妹の起美と共に大仏裏の隠れ家に居たのですが、池田屋事件の当日に新選組によって娘と一緒に引き立てられています。もう一人の妹である光枝は、公家の家に預けられていた様ですね。一方の弟については、上の太一郎は粟田口にあった金藏寺に預けられていました。もう一人の弟である建吉については、残念ながら判りません。

これが文久二年頃にお龍が住んでいた家という設定なら、場所は四条から三条の間の木屋町という事になりますね。最後の方で龍馬が高瀬川を下っていたところを見ると、このドラマでの設定は木屋町の寓居を想定しているのかも知れません。

「土佐。拷問を受ける以蔵。しかし、彼は必死に堪えています。」

ドラマでは健気な姿勢を見せている以蔵ですが、実際には拷問に遭うや一溜まりもなく自白しています。これは、こらえ性が無かったと言うより理屈に弱く、巧みな誘導尋問をされるとすくに引っかかてしまったという面があった様です。その答弁の綻びを拷問によって突かれると、答え様が無くて自白してしまうという状況でした。

彼がまず自白したのは井上佐一郎殺し、そして本間精一郎殺しでした。その自白に基づき、関係した者が次々に捕らえられて行く事になります。

「坂本家。富が乙女を訪ねてきました。しかし、乙女は留守で、伊輿が応対します。富を励まし、すいかを土産に持たす伊輿。」

「道端で、喜勢の作った弁当を、いちいち美味いと言いながら食べている弥太郎。そこに富が通りかかり、家を直してくれた礼を言います。春路の事を自慢してから、富には子が無い事に気付き、謝る弥太郎。そんな弥太郎に、半平太が戻ったら遊びに来てくれと言い残して去る富。」

「扇岩。お龍が弁当を作っている所に、新選組が御用改めにやって来ました。闖入してきた近藤を睨むお龍。そんなお龍に不審を抱く近藤。誰も居ないと判り、引き上げて行く新選組。」

新選組が扇岩を手入れしたという記録は無い様です。一方、新選組とお龍の関わりについては、一つの後日談が残っています。

伏見に居た頃の話として、夏の夜に二人で散歩に出掛けたところ、5、6人の新選組隊士と出会いました。彼等は龍馬とは気付かなかったのですか、浪人者と見て突っかかってきました。龍馬は相手をせずにさっさと身を隠したのですが、お龍は彼等の中に置き去りにされてしまいます。内心困ったお龍でしたが、度胸を決めて「あんた達、大声を出して何ですねぇ。」と懐手をして澄まして居ると、隊士達はお龍を置いて龍馬を捜しに行ってしまったそうです。お龍は後で龍馬に文句を言ったのですが、あれくらいの事は普段から心得ているだろうと言って、相手にされなかったとの事でした。ドラマとは少し違いますが、新選組相手でも怯まなかったお龍の度胸の良さは本物だった様ですね。

「お龍の家。お龍の母と弟妹達を相手に、月琴を弾きながら土佐の小唄を謡っている龍馬。そこに帰って来て、複雑な表情で龍馬を見つめるお龍。龍馬は扇岩からの差し入れのにぎり飯を渡されますが、これは受け取れないと言い、お龍の家族と分け合って食べます。」

お龍と言えば月琴が有名ですが、長崎で稽古をしたのは確かではあるものの、京都に居た時分から嗜んでいたかどうかは判りません。彼女が月琴を習ったのは龍馬が聞きたいと言ったからで、長崎に住んだのもその稽古のためだったと言われます。後日談でお龍は、もう少し小さい頃から稽古して上手になっておけば良かったと思ったと語っており、これを素直に聞けば長崎で稽古を始めた様に思えますが、心得ぐらいは子供の頃から有った様に受け取れなくもなく、判断に苦しむところですね。

「二条城。板倉勝静から、海軍繰練所に脱藩浪士が居るのではないかと問い詰められる麟太郎。良い訳をして逃れようとする麟太郎ですが、池田屋に亀弥太が居たという事実を突きつけられ、返答に詰まります。」

「土佐。象二郎の屋敷。弥太郎が呼び出され、新たな役目を言いつけられます。」

「高知城。魅せられた様に曼荼羅図を撫でる容堂候。そこに深山宗林が訪ねてきたと知らせが入ります。」

深山宗林という人物は茶の師匠の様ですが、実在したのかどうかは判りません。もっと判らないのがこの容堂候の描写で、いったい何が言いたいのでしょうね。半平太達を弾圧し始めた事に対する苦悩が表れているのかしらん?それとも、余程訳の判らぬ人物なのだとでも言いたいのでしょうか?ちょっとした謎です。

「半平太の牢。象二郎から命令を受けた弥太郎が乗り込んできました。彼は東洋殺しの犯人が判るまでは、商売をしてはいけないと言われたのでした。正直に話したら許す、以蔵が死んでも良いのか、富を苦しませておくのか、自分が味方になると矢継ぎ早にまくし立てる弥太郎。しかし半平太は、容堂候が自分を憎んでいる、容堂の為に働いてきた自分にとっては、これ以上ない屈辱である。富にしても、自分の夫が武士でなかったとそしられる事があってはならないと意地を見せる半平太。」

弥太郎の行動は例によって創作ですが、半平太の見せた意地は本物だったでしょう。彼は最後まで武士としての矜持を持ち続けただけでなく、獄中にあっても土佐勤皇党を守ろうと、様々な手を使って戦い続けたのです。

「宗林のいれた茶を飲み、感激の様子の容堂候。」

「お龍の家。すっかり龍馬と親しくなったお龍の家族ですが、彼女だけは心を開きません。龍馬はお龍の父の事を聞き、攘夷派の志士を助けたばかりに、安政の大獄で死んだと知ります。家族を捨てて好き勝手にやっている人は大嫌いと聞き、嫌われていた理由がようやく判りました。」

お龍の父は楢崎将作という医師でした。ドラマにもあった様に安政の大獄に連座して亡くなったとされますが、正確には獄中で身体を壊し、出獄した1年後に死亡したのでした。

一方の母は貞と言い、良家育ちのためか、あまり生活力はなかった様です。それでも、なんとか一家を切り盛りして行こうと頑張り、大仏裏の隠れ家では、志士達の世話役として住み込みで働いていたのでした。龍馬とはこの家で知り合い、その将来性を見込んでお龍の婿にと選んだ様です。

貞が胸を患っていたという記録は無く、これはドラマの創作でしょう。池田屋事件の後は、京都の北部にある杉坂という在所の尼寺に身を寄せていました。さらにその後は宇治の木幡に移ったらしく、寺田屋のお登勢が面倒を見ていた様です。

「龍馬は父と母を亡くした事を語り、お龍の母に自分の母が重なったと告げます。神戸村へ帰る龍馬に、志を貫いた亀弥太を、よくやったと褒めてやるべきだと諭すお龍。」

「土佐。弥太郎の家。子守歌を唄って春路を寝かしつける喜勢と、その側で微笑んでいる弥太郎。」

「月明かりの中を飛ぶ蛍を見つめている富。そこに、牢番の和助が半平太の言伝を持ってやってきました。半平太は辛い思いをさせてすまんと伝えてきたのでした。」

「坂本家。千鶴が帰って来て、半平太の噂をしています。富に子がない事に話題が移ります。ある時、半平太の跡継ぎを作るべく、知り合いが別の女を世話した、しかし、半平太は一切手を付けず、戻ってきた富に詰まらぬ事をするではないとたしなめたのでした。」

このエピソードは手持ちの資料にはありませんが、司馬遼太郎氏の「龍馬が行く」には描かれていますね。その出典は判らないけれど、そういう話が伝わっているのかも知れませんね。

「半平太の牢。和助が富の差し入れを持ってきました。それは家の庭で飛んでいた蛍でした。牢の中を光りながら舞う蛍。」

半平太の牢に蛍が差し入れられたというのは史実の様です。ただし、それは風流な話ではなく、鼠除けという切実な目的があったからでした。半平太の牢は不衛生極まりないもので、特に鼠が多くて、夜寝ている間に顔の上を鼠が走るという有様でした。その対策として蛍を牢内に放ったと言うのですが、蛍の明かり程度で鼠に効き目があると思われていたのでしょうか。

この蛍を集めたのは半平太の支持者達で、富子もまた蛍を差し入れたそうです。ドラマはこの即物的なエピソードを元に、綺麗な物語に変えていましたね。

この後日談としては、やはり蛍では鼠を防ぐ事は出来なかった様で、代わりに猫が差し入れられたそうです。これは確かな効果があり、鼠の害はぴたりと止んだ様ですね。そして、この猫が半平太のまたとないペットとなったそうです。

「半平太の家。月明かりの中で飛ぶ蛍を見つめる富。」

「月明かりの下、春路を抱き、喜勢の唄う子守歌を聴いている弥太郎。」

「月明かりの中、眠る弟達の為に団扇をあおぐお龍。」

「満月の下、蛍が舞う高瀬川を船で下る龍馬。亀弥太に、その命を無駄にはしないと誓う龍馬。」

このドラマは、同じ月明かりの下で登場人物達が物思いに耽るという演出が良く出てきますね。前回は山本琢磨と時計のエピソードがあった回で、獄中で商売に目覚める弥太郎、土佐から江戸に居る龍馬を思いやる加尾、琢磨の処遇に思い悩む龍馬が描かれていました。この演出の仕方は結構好きだな。

「伏見に着いた龍馬。そこで彼は威勢の良い女将の声を聞きます。その顔を見て、母そっくりである事に驚く龍馬。」

ようやく寺田屋が出てきましたね。お登勢が龍馬の母に似ていたというエピソードは無く、配役の関係で草刈民代さんが二役になったところから考えられた創作なのでしょう。しかしながら、私的には余計な演出という気がします。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「「武市半平太伝」 松岡 司 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉

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2010.06.12

京都・洛東 建仁寺塔頭 大統院

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建仁寺の東南に細い参道があります。霊洞院という僧堂に通じる参道で、観光客がここを通る事はまずありません。その参道をさらに東に行き当たったところに大統院があります。鎌倉時代から南北朝時代にかけて生きた禅僧・青山慈永(せいざんじえい)によって、観応年中(1350年−52年)に創建されたと伝えられる塔頭です。

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その後、天文21年(1552年)に類焼したのですが、寛永14年(1637年)に至り再建されました。丁度その頃、江戸幕府で重きをなした儒者・林羅山が大統院に寓居していたと伝えられます。また、大統院は天文年間に焼けた光沢庵を合し、明治には如是院を合しています(共に建仁寺の塔頭)。

しかし、再び大統院を火の手が襲います。大正13年(1924年)秋に出火し、表門・唐門の二つを残して焼失してしまったのです。そして昭和5年(1930年)に本堂のみが再建復興され、昭和30年(1955年)頃から本格的な復興が始まり、平成21年(2009年)3月に本堂前庭が完成して寺観が整いました。

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この間はずっと非公開だったのですが、庭の完成を期してでしょう、今年の4月から5月にかけて特別公開が行われ、拝観する事が出来ました。ただ、初公開と銘打たれていたのですが、実際には昨年にも公開されている様ですね。このあたりはいわゆる宣伝文句なのかしらん?

それはともかく、今は表門から本堂までの間も綺麗に整備されていますね。

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大統院と言えば、実のところ駐車場というイメージだったのです。八坂通を東に向けて上っていくと左手に駐車場があって、入り口に大統院と記された門灯があるのですよ。経済的理由からお寺の境内が駐車場化している例は数多くあり、ここもその一つだったのですね。特に大正時代に焼失してしまったという事実が、大きな痛手としてのしかかっていたのでしょう。そして、今ようやく寺院としての体裁が整うまでに至ったという事なのですね。

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昨年完成した本堂前の庭は北山安夫氏の手によって整備されたもので、小堀管長によって「耕雲庭」と命名されました。御影石と苔による市松模様が基調となっており、その奥にさつきやつつじが植え込まれて、小さいながらも遠近感を持った造りとなっています。今頃は、さつきが咲き出している頃かな。

まだ如何にも出来たてという雰囲気であまり風情は感じませんが、時間の経過と共に落ち着きが出て、良い庭となって行く事でしょう。ただ、背後の駐車場が透けて見えてしまうのが難点かな。これも、庭木が生長するにつれて、隠してくれるかしらん?

特別拝観では、円山応挙作の幽霊図や鈴木松年の「髑髏図」などの掛け軸、奥田頴川作の「赤絵十二支四神鏡文皿」(重要美術品)などが展示されていました。さすがに由緒のある寺院だけあって、様々な寺宝を持っているものですね。私的には、作者不詳の墨梅図が良かったかな。

昨年はお盆の時期に公開されていた様ですが、今年はどうなるのかな。機会があれば、一度は訪れておきたい場所だと思います。

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2010.06.11

京都・洛西 嵯峨豆腐 ~森嘉~

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京都は美味しい豆腐が沢山ある豆腐処としても知られます。その数ある豆腐の中でも、嵯峨野を中心とする地域で作られているのが嵯峨豆腐。とりわけ、森嘉という店が最も良く知られています。

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嵯峨豆腐と言っても、全ての店に共通する特徴は無い様ですね。要は嵯峨野で作られた豆腐というくらいの意味で、あえて言うなら嵯峨野の気候風土で作られた豆腐という括りになるのでしょうか。突き詰めて言えば、水が違うという事になるのかも知れません。

その嵯峨豆腐の名を世に知らしめたのが森嘉、清涼寺の東隣に位置する豆腐屋さんです。

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森嘉は元はと言えば材木商で、その歴史は安政年間までは遡れる様です。豆腐は店の傍らで売っていたそうですが、いつしかそれが本業となっていたのだそうです。

森嘉の名が知られるようになったのは第二次世界大戦後の事で、4代目が中国から硫酸カルシウムを凝固剤として使う技法を持ち帰った事がきっかけとなりました。普通のにがりを使った豆腐に比べて腰がある割に柔らかく作れる事が特徴で、その独特の風味が評判となった様です。

そして、川端康成の「古都」で取り上げられ、さらにその映画にも登場した事で一躍有名になりました。

今でも石臼で大豆をすり下ろし、薪を使って豆乳を炊いているのだそうですね。その方が美味しい豆腐が出来るかららしいのですが、その一方で国産大豆100%使用という事では無い様です。国産大豆が60%なのに対し、カナダ産(又はアメリカ産)大豆を40%程度使っているのだとか。これは国内産だけだと質、量共に安定しないためらしいのですが、意外と言えば意外ですね。

写真のパックが白とうふで、1パック400円とちょっと割高ですね。ただし、分量としては2丁分入っているので、スーパーで買うよりは少し高い程度でしょうか。もし入れ物を持参した場合は、1丁だけでも買う事が出来ます。まあ、これは近所の人向けなのでしょうけど。

実際に食べてみると、確かに柔らかかったです。そして、ほのかな甘味のある美味しい豆腐でした。評判になるたけの事はありますね。

豆腐の性質上、遠くにまで持って帰るというのは大変でしょうけど、嵯峨に行った時には寄ってみられてはどうでしょうか。お土産にするなら、これも評判の良いひろうすの方が持ち運びに便利で良いかもしれませんね。

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2010.06.10

京都・洛北 新緑2010 ~京都府立植物園~

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京都府立植物園で見つけた新緑です。

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植物園はもみじだけではなく沢山の樹種があり、色とりどりの新緑を見る事が出来るのが魅力ですね。手前の大きな木が榎木、その奥の黄色っぽい色が楠木です。

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京都府立植物園は、最近園長さんが交代されたのですね。松谷前園長は、次々に新しいイベントを打ち出し、植物園をとても楽しい場所にしてくれました。また、動画配信にも熱心で、沢山の知識をさずけて下さったのも嬉しかったですね。さらには、きまぐれ園だよりも重宝したなあ。定年を迎えての退職だそうで、お疲れ様でしたと伝えたいですね。

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新しい園長さんがどういう色を出されるのかはまだ不明ですが、個性は違うはずですから同じようにして下さいとは望みません。ただ、誰でも気楽に楽しめるというコンセプトだけは守って欲しいです。何と言っても、ここほどのんびりとくつろげる場所はそう多くはありませんすらね。

写真はハナイカダ。葉の中程から花が咲くという面白い植物ですね。その生態もそうだけど、このネーミングもまた洒落てますね。

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そして、お約束の青空と新緑です。この木は、2枚目の写真と同じ榎木だったかな。もみじとはまた違った色合ですね。そして、葉の形も違えば枝振りも異なっています。頭上高く振り仰がなければならないというのが難点だけど、高木の新緑もまた素敵なものですよ。

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2010.06.09

京都・洛東 青もみじ2010 ~養源院~

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京都・東山七条、血天井がある事で知られる養源院で見つけた青もみじです。

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ここの境内はそれほど広くはないのですが、参道沿いに沢山のもみじが植えられており、隠れた紅葉の名所として知られます。

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そして初夏になると、鮮やかな緑が訪れる人を出迎えてくれます。この清涼感溢れる感じが素敵ですね。

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参道の北側には勅使門とそれに続くもう一つの参道があるのですが、あまり手入れがされていないので、ちょっと入りにくいですね。でも、そこでも新緑は輝いているので、少し思い切って寄り道されてみてはどうですか。

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そして、最後は5月の青空と新緑です。朝の光だから何となく優しく感じるのかな。やっぱりこの色の組み合わせは素晴らしい。初夏ならではの色彩ですね。

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2010.06.08

京都・洛東 青もみじ2010 ~智積院~

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智積院で見つけた青もみじです。

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智積院の境内は数年前に整備されており、この大きなもみじも移植されて来ました。多少の枝枯れはあるものの、なかなかの樹勢であり、秋の紅葉が楽しみになりますね。

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その一方で、同時期に移植されたこの木は、何だか枝枯れが多くて弱っている様に見えます。金堂前にあって姿が良く、紅葉の時にはとても絵になるのですが、それだけにちょっと気掛かりですね。

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今度は、金堂を取り巻く五色の幡ともみじの新緑を合わせてみました。どうです、智積院らしさは出ていますか。

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もみじに関して言えば、講堂西側の通路のこの景色も見逃す手は無いです。奥に見えている煙抜きの付いた屋根は隣の妙法院のものなので、いわば借景ですが、昔ながらの景色を楽しむ事が出来ますよ。

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この写真を撮ったのも5月の初め頃で、今頃はもう少し緑が濃くなっているかな。これから梅雨に入ればこんな空は見られなくなるし、新緑の時期ならではの貴重な色彩です。

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2010.06.07

京都・洛北 青もみじ2010 ~圓光寺~

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先週末は残念ながら出掛ける事が出来なかったので、今週はストックからのアップとなります。ですので、季節が微妙にずれる事をお許し下さい。

今日は5月2日に撮ってきた圓光寺の青もみじです。

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さすがに5月の初めだけあって、緑が初々しいですね。まだ新緑という言葉の方がぴったりと来るかな。

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圓光寺の庭はもみじが大半を占めています。ですから、冬と春とでは極端に表情が変わりますね。でも、冬の雪景色も見てみたいなあ。

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この庭は本堂から眺めているのも味わい深いですが、歩きながら見るのも景色が変わってまた良いものです。特に、頭上を蔽うようなもみじの下を歩く風情は格別ですよ。

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そして、この緑の光を浴びての散策が素晴らしいですね。全てのものが青く染まってしまいそうです。

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今頃はそろそろサツキが咲いている頃なのかな。今週末にでも、出来れば行ってみたいところですね。

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この時分には、参道の牡丹が綺麗に咲いていました。この花もまた、この寺のちょっとした見所の一つですよ。

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これから暫くは、この寺を訪れる人も少ない事でしょう。でもそれは訪れるチャンスとも言える訳で、水琴窟の響く庭を独り占めして、心行くまで青もみじを堪能する事が出来ますよ、きっと。

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2010.06.06

龍馬伝23 ~池田屋に走れ~

「大阪、大和屋。長次郞と徳の祝言が行われています。一座が盛り上がる中、京都から麟太郎が駆けつけました。長次郞に祝いを言う一方で、神戸海軍繰練所の完成を告げる麟太郎。新婚早々、花嫁と離れて暮らさなければならないと知り、驚く長次郞。」

長次郞が大和屋のお徳と結婚したのは文久3年9月の事で仲人は海軍塾塾頭の佐藤与之助でした。長次郞はドラマではあまり活躍していませんが、麟太郎の使いとして春嶽公に面会したりと、龍馬と同等の働きをしています。それだけ優秀であり、麟太郎の信頼も篤かったのでしょうね。

ドラマでは、神戸海軍繰練所が完成したとありましたが、長次郞が結婚して間もなくの事ならば、それは海軍塾の事だったはずです。神戸海軍塾が出来たのが文久3年10月の事であり、海軍繰練所の完成はその翌年の5月まで待たなければなりません。

「新築なった繰練所。真新しい施設と共に、沖合には練習艦が停泊していました。その練習生の中に陸奥陽之助が居ました。」

「長州。主役の座を奪われ、巻き返しを焦る久坂玄瑞達。玄瑞は、京都で桂が挽回を図っていると望みを掛けます。」

「京都、扇岩。桂小五郎を座長として、善後策が練られています。しかし、万策尽きて、思い切った手を打つしかないと切り出す小五郎。薩摩から力づくで帝を奪い返すのだと言った時、お龍が酒を持って来ました。今の話を聞いたかという問いに、何も聞いていないと無愛想に答える龍。小五郎はその様子にむっとし、ここは攘夷派を贔屓にする宿ではないかと言われますが、私は志士が嫌いだと答えるお龍。」

ドラマでは、小五郎が過激な案を言い出したとされていましたが、実際には逆でした。彼は地道に勤皇派の藩を説いて廻り、少しでも長州藩の立場を良くしようとしていたのでした。当時はようやくその実が揚がり始めた時であり、過激な動きは邪魔以外の何ものでもなかったのです。彼は何とか、過激派の動きを牽制しようと必死だったのです。

また、扇岩が志士達の会合の場だったという話は聞かないですね。たぶん創作ではないかと思われます。

「土佐、半平太の牢。今日は拷問に苦しむ衛吉の声が聞こえてきません。食事を運んできた牢番に聞くと、拷問は取りやめになったとの事でした。ほっとして、座り込む半平太。その牢番和助は、自分も下士の出である、半平太の志は知っており、何なりと力になると申し出ます。その和助が牢番から以蔵が捕まり、土佐に送られて来たと聞く半平太。」

実際にも拷問は、始終行われていたものでは無かった様です。一定期間集中して行われ、その後は半年ほど間が置かれた様です。その理由は判りませんが、やはり殺してしまっては何にもならないという事なのでしょうか。

「象二郎の尋問を受ける以蔵。しかし、頑として口を割りません。彼は半平太に会わせてくれと叫びます。」

以蔵に関して言えば、京都で幕吏に捕まった際に土井鉄三という変名を使っていました。幕府ではこの名で土佐藩に紹介を掛けたのですが、土佐側はその正体が以蔵と知りながら、当藩の者では無いと答えました。そこで、幕府側は彼を無宿人として扱い、入れ墨をした上で京都から所払いをするとして紙屋川で召し放ちました。そして、そこには幕府と打ち合わせの出来ていた土佐藩の役人が待ち受けていて、以蔵を再度捕らえたのです。以蔵は無宿鉄三として捕らえられ、元の足軽身分すら認められない事になりました。言わば人外の者となりはてた訳で、土佐に送り返された彼には容赦のない責め苦が加えられる事になったのです。

「高知城。象二郎からの取り調べを強化したいという申し出を退ける容堂候。彼は一橋慶喜から送られた極楽図を前に、酒を飲んでいるのでした。」

「弥太郎の家。長女春路が生まれて、幸福感に包まれている一家。」

「神戸。測量の難しさを話す亀弥太達に、自分は一日で出来たと挑発的な言葉を吐く陸奥陽之助。むっとして突っかかる亀弥太を止める長次郞ですが、亀弥太はかえって長次郞に、せっかく武士にしてもらったのに町人の娘を嫁にしたのかと絡みます。見かねて止めに入る龍馬。その龍馬に、一緒に闘ってきた半平太達が捕まっているというにのに、何もしないでいて良いのかと食ってかかる亀弥太。その様子を見て、これは大変だと他人事の様な陽之助。彼は紀州藩の家老の家柄でした。良くここに来る事を許して貰えたなという問いかけに、許して貰えるはずがない、脱藩して来たのだと言い捨てて去る陽之助。」

陽之助が海軍繰練所に居たのは確かです。しかし、その経緯については諸説がある様ですね。つまり、先に京都に出て勤皇活動をしていた時に龍馬に会い、その引きで麟太郎の門下生となって繰練所に入ったとする説と、紀州藩から他の若者と共に派遣されて来たのだとする説が有るようですね。

彼が才子ぶりを発揮して、他の練習生から孤立していたのはドラマにあったとおりの様です。そんな陽之助を龍馬が庇い、土佐藩のグループに引き入れてやった事が、後の海援隊へと繋がったとも言われています。

「海辺に一人座る亀弥太。そこに龍馬がやって来ます。消沈する亀弥太に、時が経てば時代も変わる、今は海軍を作るべき時であり、後戻りは出来ないと諭す龍馬。」

ドラマでは海軍一辺倒の龍馬ですが、実際には8.18の政変で身の置き所を失った過激志士達の行く末を憂いて、一計を案じていました。つまり彼等を集めて蝦夷に行き、その地を開拓し、合わせて北の守りを固めようと考えていたのです。この構想はかなり具体化していたらしく、麟太郎の日記には龍馬の言葉として、過激人数十名(あるいは200人)ばかりを集め、神戸から黒龍丸に乗って蝦夷地に向かう。この事については老中の水野和泉守にも了解を得ており、またそのための費用として三千ないし四千両は既に同志から集めていると記されています。北添佶馬はこの計画に賛同し、実際に蝦夷地にまで行って現地調査を行った事がある様ですね。

ドラマではあたかも書生のごとく麟太郎の庇護の下に居る龍馬ですが、実際には自分の足で歩き、その構想の実現に向けて奔走していたのです。彼は海軍塾でひたすら勉強していたのではなく、麟太郎と連携しつつ何度も江戸と大坂の間を行き来しており、船便も使っていた様ですね。どうしてこのドラマの龍馬はいつまでも半人前のままなのかなあ。いい加減に自立させてやってもらいたいものです。

「横浜。さらなる利益を求めて、長州を攻撃しようと謀る列強各国。」

この4カ国の攻撃は無理難題をふっかけるというものではなく、依然として攘夷の姿勢を改めない長州によって封鎖されている関門海峡を開放させるためのものでした。結果として、幕府は莫大な賠償金を支払う羽目に陥るのですが、その非は理由もなく一方的に外国艦隊を攻撃している長州側にあると言うべきでしょうね。

この動きに対して、麟太郎は4カ国の攻撃を中止させる様にと幕府から命令を受け、長崎に出張しています。そして、そこには龍馬も同行していました。麟太郎が命令を受けたのは文久4年2月5日の事で、14日に神戸を発って九州に向かっています。この途中、龍馬は麟太郎と別れて、熊本に帰っていた横井小楠に会いに行きました。この会見の時、小楠は麟太郎に宛てて、海軍の将来像を描いた海軍問答書を送りました。それは現実を見据えた卓越した論理で、麟太郎が小楠に一目置く事になった理由の一つなのかも知れません。

長崎において麟太郎はオランダ総領事と交渉し、下関の封鎖を幕府が解いてくれるのなら、二ヶ月は攻撃を待とうという回答を得ました。ところが朝廷に押された幕府は態度を一変し、関門海峡を開放するどころか、横浜を鎖港するという方針に転換してしまいます。何の事はない、列強の無理押しと言うより、日本側の自滅と言った方が正しかった様ですね。

「半平太の家。乙女が様子を見に来ています。そこに、弥太郎がやって来ました。彼は家の悪いところはないか、只で修繕してやると言って、家の中を見て回ります。弥太郎にも人らしい心があったのかと見直す乙女。あまりに良い事が続き、ここで損をしておかないと幸運が逃げるからだと嘯く弥太郎。」

「そこに、牢番が半平太の手紙を持ってきました。牢の中にありながら、妻の健康を気遣う半平太。涙ぐむ富をいたわる乙女と弥太郎。」

牢番が半平太に心服して、何かと便宜を図ってくれたというのは前回に書いたとおりです。手紙のやりとりは自由で、富は毎日半平太の食事を差し入れていたと言われます。

「半平太の牢に以蔵を連れてきた象二郎。以蔵の無事を喜ぶ半平太と、半平太すら牢に入れられているのかと驚く以蔵。二人だけになった時、半平太は決して東洋殺しの真相を語ってはならないと以蔵に言い聞かせます。それを立ち聞きして象二郎は怒りに震え、以蔵を引き立てていきます。」

あまり書きたくはないけれど、以蔵が捕まったと知った時、半平太は愕然となった様です。彼は以蔵がこらえ性の無い事を知っており、ひとたまりもなく全てを白状してしまうだろうと見抜いていたからでした。実のところ、彼は以蔵の死すら願っていたのです。人斬りの運命は、どこまでも悲惨極まりないものでした。でも、ドラマでは以蔵を最小限にしろ救ってやりましたね。

「神戸。練習生が訓練に励む中、亀弥太が居なくなったという知らせが入ります。同室の高松太郎に事情を聞く龍馬。亀弥太は京都で長州藩士達が事をなすと聞き、夜中に出て行ったと答える太郎。」

「今から亀弥太を連れて帰るという龍馬に、亀弥太も覚悟の上のはずだと反対する練習生達。そんな彼等に、軍艦を動かす為には200人の仲間が必要だ、誰一人欠けてもいけないと叫び、飛び出して行く龍馬。」

亀弥太については、いつ海軍塾を離れて攘夷運動に身を投じたのかは判っていません。確からしいのは、池田屋事件の前には、北添佶馬らと共に大仏裏の隠れ家に潜伏し、長州藩士らと連絡を取り合っていたらしいという程度です。そして、龍馬もまたこの隠れ家に出入りしており、そこでお龍と出会ったのは以前に書いたとおりです。

「京都、扇岩。以蔵を訪ねて龍馬がやって来ました。客の事は話せないと渋っていたお龍ですが、龍馬の真剣な様子に折れて、池田屋に行ったらしいと伝えます。」

池田屋事件の前、龍馬は確かに扇岩に顔を出しています。しかし、それは事件の4日前、元治元年6月1日の事で、勝先生に会うために江戸に行くとお龍に告げる為でした。お龍は龍馬と別れの杯を交わしたのですが、その席には亀弥太も同席していたものと思われます。ドラマでは亀弥太と初対面の様だったお龍ですが、実は良く知った間柄でした。真偽は不明ですが、龍馬とお龍それに亀弥太の三人で、一力で豪遊したという話も残っています。

龍馬は翌2日に大仏の隠れ家を後にして江戸に向かっており、それを長次郞と亀弥太が伏見まで見送ったと言います。つまりは、龍馬は池田屋事件が起こった時には、江戸行きの旅の途中だったのですね。事件の発生を知ったのはずっと後、おそらくは6月の下旬頃、江戸においてではないかと推測されます。ですので、龍馬が池田屋事件に係わったかのようなドラマの設定は、全て創作という事になりますね。

「祇園祭の宵々山の雑踏の中、池田屋に急ぐ龍馬。」

「池田屋。宮部禎蔵を座長に10数人が集まり、京都に火を放ち、さらには御所にも火を放って、帝を長州に連れ出すという策が謀られています。その話に熱心に聞き入る亀弥太。その時、部屋の外で物音がしました。桂さんが来たとい言って出て行く北添佶磨。ほっとした空気が流れる中、響く切り合いの音。色めき立つ志士達。」

以前にも書いた事がありますが、池田屋で話し合われていたのは、この日の朝に捕らわれた古高俊太郎をどう奪還するかだった様です。京都を火の海にして天皇を長州に動座するという動きがあった事は当時から流布されていますが、実際にそこまで計画していたという証拠は無い様ですね。古高の自白と押収された文書から明らかになったのは、8.18の政変の主役であった中川宮(青蓮院宮)を襲撃するという事だけでした。あくまで噂が先行してあり、そこに古高の自白と店から押収された武器類とが重なって、事実と認定されてしまった様です。

「池田屋近くまで来た龍馬。そこで彼はうずくまっている亀弥太を見つけます。傷ついた彼は、腹に刀を突き刺していました。驚いて介護しようとする龍馬。虫の息の中、龍馬の言う通り後戻りなどしなければ良かったと後悔する亀弥太。懸命に励ます龍馬の腕の中で、あんなやつらにやられる位ならと自分で腹を切ったと言い、息を引き取る亀弥太。」

亀弥太の遺体を見たのは、実はお龍でした。彼女は事件の当日か翌朝かは判らないのですが、捕らえられた母の事が気掛かりで町に飛び出したのでした。そして、道端でむしろを掛けられている亀弥太を目撃したと後日談で語っています。

亀弥太が死んでいたのは角倉家の屋敷の前でした。彼は池田屋から脱出して長州藩邸まで逃れて来たものの、事態の拡大を恐れた桂小五郎によって入邸を拒まれ、絶望のあまり隣の屋敷の前で切腹して果てたと言われます。

「池田屋にやって来た龍馬。凄惨な現場と化した池田屋。」

ドラマでは新選組が問答無用に志士達を斬り殺したように見えましたが、実際には「御用改めである、手向かいすれば容赦なく切り捨てる」と宣言しており、決して一方的に斬り掛かった訳ではありません。彼等の目的はあくまで捕縛にあり、多人数の相手に斬り掛かられた事から切り捨て御免の特権を行使して闘ったに過ぎません。最初に踏み込んだのはわずかに4人だったのですからね、10数人相手では捕まえるのは無理な状況でした。後に土方隊と井上隊が到着して人数が増えてからは、切り捨てを止めて捕縛に方針を転換しています。

「沖田が詩を吟じる中、悠々と引き上げる新選組。」

「騒然とした雰囲気の中、新選組という名を聞く龍馬。彼等は壬生に居ると聞き、駆け出して行きます。」

どうでも良いけど、血を吐いたはずの沖田が随分と元気ですね。このドラマでは、池田屋ではまだ結核の症状は現れておらず、あまりの環境の悪さに体調を崩しただけという説を採っているのかしらん?それにしても、詩を吟じる沖田というのは、初めて見ました。

池田屋事件について龍馬がどう思ったかについては、直接の資料は残っていません。一方、麟太郎については、「壬生浪士輩、興之余無辜を殺し土州藩士又我が学僕望月生なとこの災に遭う」とその日記に記しており、新選組が無実の者達を殺したと憤っています。後に陸軍総裁として新選組を死地に追いやるのは、こうした感情も伏線としてあったのかも知れません。

一方の新選組としては京都の町の治安を守るべく任務を遂行した訳で、殺された志士達が如何に国を思っての行動を取っていたとしても、麟太郎の言うように「無辜」とまで言い切るのにはちょっと無理がある様です。京都を火の海にするという容疑は行き過ぎとしても、少なくとも中川宮の襲撃は計画していたのですからね。

龍馬達の無念は判りますが、新選組の立場も重んじたい私としては複雑な気持ちです。歴史の多面性と言って逃げておきましょうか。

ただ、このドラマの描き方はちょっと雑に過ぎるなあ。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「「武市半平太伝」 松岡 司 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉

伊東成郎「閃光の新選組」、松浦玲「新選組」、子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組と沖田総司」

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2010.06.05

京都・洛北 蛍火の茶会~下鴨神社~今年は6月12日です

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6月も5日を過ぎ、そろそろ蛍の情報が気になる頃になってきました。今年は訳の判らぬ天候が続いていますが、蛍の発生状況はどうなのでしょうね。ちょっと気になるところですが、その蛍が主役となる行事「蛍火の茶会」が今年も下鴨神社で行われます。

今年の日程がなかなか発表にならなかったのですが、ようやくホームページに告知があり6月12日午後5時からに決まりました。つまり、今日から丁度一週間後ですね。もしかしたら、蛍の発生が遅いのでもう一週間延ばすのかなんて思っていたのですが、去年と同じ第2土曜日になりました。

とても風情のある行事なのですが、毎年沢山のフラッシュが焚かれ、せっかくの蛍の光が見えなくなるというトラブルが発生しています。蛍の光はとても淡いので、フラッシュの光に負けて消えてしまうのですね。また、とても繊細な昆虫ですから、一度フラッシュが光ると暫くは光らなくなるという弊害もあります。

蛍の光を撮るには、フラッシュは発光禁止の設定とし、長時間露光をするよりありません。機種にも依りますが、夜景撮影のモードが良いのかな。一眼レフならシャッター速度優先モードにして、5秒から10秒の露光です。本当はもっと長い時間が良いのだけれど、ここは周囲が明るいので、それ以上は無理です。ですので、手持ちでの撮影は無理で、三脚又は一脚の使用が必須となります。さらに言えば、携帯電話での撮影もまず不可能です。

なんて、ここで書いても無駄なのでしょうけどね、去年の記事の動画を見て貰えばどんな状況かは判って貰えるはず。言わずには居られないのですよね。今年は少しはましになると良いのだけれどな。

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2010.06.04

京都・洛東 青もみじ2010 ~東福寺境内~

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東福寺の青もみじは、通天橋付近だけではありません。境内も綺麗な緑で溢れています。

この木は、六波羅門の近くにあるトウカエデ。初々しさを感じさせる色ですね。

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こちらは、日下門を入ったところから見た景色です。正面に見えているのが法堂。青空に新緑が良く映えています。

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同じ場所で右側を向くと、禅堂の火頭窓を飾るようにもみじの枝が垂れていました。窓にはめられた波形の格子も面白いですね。

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臥雲橋の南側にあるもみじです。少し西に傾いた陽を受けて、うっすらと赤みを帯びた緑の葉が美しい。

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私のお気に入りの一つが、明暗寺門前のこのもみじです。秋には素晴らしく紅葉するのですが、やはり青もみじも綺麗ですね。

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紅葉の時にも思う事だけど、東福寺は臥雲橋に至るまでの通路もまた、もみじが美しいですね。秋には人が溢れていて紅葉どころではありませんが、今の季節なら道端に立ち止まって、ゆっくりと楽しむ事が出来ますよ。

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2010.06.03

京都・洛東 青もみじ2010 ~東福寺・通天橋付近~

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洛東の名刹、東福寺の青もみじです。

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東福寺の青もみじの主力は、やはり通天橋を中心とした一帯でしょう。洗玉澗と呼ばれる渓谷の左右に、沢山のもみじや楓が植わっています。

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この日は東福寺も結構空いていて、通天橋に誰も居ない瞬間もありました。紅葉の時には考えられない光景ですね。

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開山堂前の庭園では、さつきが少し咲いていました。まだまだ物足りないですが、今年はどこも開花が遅れ気味である事を考えると、結構早い方なのかも知れません。

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この日は青空が綺麗でした。如何にも初夏らしいさわやかな青ですが、今年はこういう空が少ないものなあ。

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洗玉澗の南側は、もみじの林になります。この緑陰が涼しげでなかなか良いでしょう?

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通路の側にある園芸品種の赤いもみじです。木漏れ日を浴びて、燃えるような朱に染まっていました。

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そして、陽光を受けて輝く青もみじです。この季節ならではの真骨頂かな。

今さらですが、青もみじを楽しむには、東福寺が一押しですね。今なら人も少ないし、初夏の風情を静かに堪能出来ますよ。

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2010.06.02

京都・洛東 青もみじ2010 ~東福寺塔頭・光明院~

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東福寺の塔頭、光明院で見つけた青もみじです。

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重森三玲氏作の庭がある事で知られるこの寺は、今の季節は新緑で溢れています。

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その名を波心庭と言い、大小75個の庭石のほとんどを縦に使って御仏の世界を表すという、独特の手法が用いられた名園です。

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庭師が特に力を入れたのが、さつきの大刈り込みです。大きな渦巻きで雲を表し、完成までに24年の歳月を費やしたとか。

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そのさつきが花盛りを迎えているかという期待はあったのですが、残念ながらまだ少し早かった様です(5月29日現在)。

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扉や窓を通して庭を見るとまた違った風情を感じるものですが、丸窓というのは特に趣がありますね。まるでそっと覗き見をしているような、不思議な気分です。

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ここを訪れたのは午後遅く、先に居た人達はすぐに帰ってしまい、この素敵な空間をずっと独り占めしていました。紅葉は有名だけど、青もみじの素晴らしさはまだ知れ渡っていないのかも知れません。

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間もなくさつきが花盛りとなり、その後には桔梗が続きます。これからの季節、光明院はお薦めですよ。

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2010.06.01

京都・洛東 新緑2010 ~黒谷~

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今日から6月ですね。6月と言えば梅雨の季節、そのオープニングに相応しい雨の景色をお届けします。

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この場所は、黒谷の西住院と瑞泉院に挟まれた路地になります。とても素敵な場所なのですけどね、訪れる人はほとんど居ないという穴場中の穴場です。

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こちらは、その続きにあたる長安院と永運院の間の路地です。石畳の道には、やはり雨が似合いますね。

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この写真を撮ったのは少し前なので、まだツツジが咲いていました。もみじの新緑とのコラボが美しいですね。

こうしてみると、やはり雨の日も悪くないと思えます。梅雨の季節もまた、写真日和ですよ。

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