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2010.05.16

龍馬伝20 ~収二郎、無念~

「大阪の勝塾を訪ねてきた権平。その頃、塾で学んでいた龍馬。」

「収二郎が投獄された事を心配する土佐の面々。彼等を励ます龍馬。」

「教室に通された権平。しかし、ほんのわずかな違いで龍馬は京に向かった後でした。」

この時期、権平と龍馬は実際にも会った事がある様です。ただし場所は京都で、権平は藩に命じられて上洛し、龍馬とはたまたま出会ったという事らしいですね。

「収二郎の助命を願い出た半平太。応対したのは、復権した象二郎でした。彼は収二郎には東洋殺しの容疑が掛かっている、自分の事を心配した方が良いと半平太を皮肉ります。」

吉田東洋の死後、失脚した象二郎は江戸に出ていた様ですね。そして航海術や蘭学を学んでいたと言われます。彼が土佐政界に復帰するのはドラマよりももう少し後、京都で8.18の政変があってからの事の様ですね。

「土佐、拷問を受ける収二郎。東洋殺しの犯人を聞かれますが、彼は頑として口を割りません。」

実際の収二郎は上士でしたから、拷問に晒されるという事はなかったはずです。また、東洋殺しの嫌疑で取り調べられたという事実も無い様です。

「坂本家。材木を買って欲しいと頼みに来た弥太郎。材木を仕入れる金を貸したのはうちだと相手にしないと家の女性達。どうしても売れないと嘆く弥太郎ですが、話にならないと突き放す坂本家の面々。」

この下りは、例によって全くの創作ですね。それにしても、材木を仕入れる金を借りた相手に、その材木を買い取ってくれと頼みに来る弥太郎の図太さは凄い。それくらいでなければ、この時代の商人としては成功しないという事なのかしらん?

「龍馬に会えずに、手持ち無沙汰に過ごす権平。彼が龍馬を連れ戻しに来たのではないかと心配する長次郞達。彼等は権平に、龍馬を待つ間、自分たちと一緒に海軍り勉強をしてみないかと誘いかけます。」

「訓練生に混じった権平。慣れない号令に、どうしてもタイミングが掴めません。罰として砂袋の上げ下ろしを命じられます。」

この下りも全くの創作ですね。ただ、権平が国事に奔走する龍馬の生き方に理解を示したのは確かであり、その理由をこのドラマなりに求めたという事なのでしょう。

「京、麟太郎の宿舎。外国に攻められた長州について、このまま滅べばよいと思っている連中が居ると嘆く麟太郎と龍馬。しかし、そういう国だからこそ、異国に占領されないで済んでいるとも言える、物事には両面があって、見る方向によって見え方が変わるものだと麟太郎。」

「収二郎が投獄された事を嘆く龍馬。東洋を殺したのは勤皇党ではないのかと問いかける麟太郎。半平太は土佐の事を思ってしたのだと反論する龍馬。それなら、東洋が悪者だったのかと問い返す麟太郎。それも違うと混乱する龍馬。それも見方の両面だと諭す麟太郎。」

明治維新が起こり、勤皇派こそが正義とされる様になった事から、土佐勤皇党が正義、吉田東洋は悪という図式が出来上がりましたが、公平に見れば必ずしもそうとは言い切れません。実際、東洋が門閥に囚われずに人材を発掘したのは確かであり、反対に半平太や収二郎が天誅に手を染めてしまったのも事実です。一面だけを見て、誰が正義で誰が悪かという様な単純な判断は出来ないでしょうね。

「話題を変え、勝塾が危ないと切り出す麟太郎。幕府から、私塾には金は出せないと断られたのでした。千両が必要だから、越前の春嶽公に頼んでこいと命じられた龍馬。」

龍馬が勝塾の資金援助の為に福井へ旅発ったのは、文久3年5月16日の事とされます。この勝塾は麟太郎の私塾でしたが、ドラマにある様に神戸海軍繰練所開設に先立つ士官養成学校という側面だけでなく、もっと大きな構想のための布石とないう側面を持っていた様です。麟太郎は幕府による海軍だけでなく、朝廷からも命じられた大海軍を作ろうとしており、幕府に縛られない私塾はその受け皿として必要だったのですね。龍馬の福井行きには、その事も任務に含まれていた様です。

「平井家。留守を預かる加尾に、収二郎は無実だ、自分が助けると請け合う半平太。京では、以蔵に沢山の人を斬らせたではないかと責める加尾。日本を異国に売ろうとする輩には天誅が下るのだと非を認めない半平太。」

半平太は収二郎助命の為に嘆願書を提出しており、容堂候はそれを聞き入れる様な返事を寄越した様ですね。それを受けて半平太は、収二郎は助かるという旨の手紙を加尾に出した様です。このあたり、京都政界の大勢は依然として攘夷派が主導権を握っており、容堂候としても攘夷派の中で重きをなす半平太を軽く扱う事は出来なかった様です。そこで様々な駆け引きが、容堂候と半平太の間で繰り広げられる事になるのです。

「岩崎家。材木が売れないと癇癪を起こしている弥太郎。そんな彼を慰める喜勢。喜勢になぜ自分と一緒になってくれたのかと問いかける弥太郎。それは占いのせいだと明かす喜勢。彼女は材木におまけをつけてはどうかと提案します。」

喜勢が半平太を見初めた理由が明かされましたね。なるほど、占いのせいだったのか。そんな占いがあるのかと思ってしまいますが、後に岩崎財閥の正夫人となった訳ですから、素晴らしく良く当たる占い師だったのでしょう。無論、創作である事は言うまでもありません。

「勝塾。龍馬が千両を借りるために越前に向かったと知らせが入ります。塾生に勝塾が危ないと事情を話す長次郞。龍馬なら大丈夫と盛り上がる塾生達。様々なお国言葉が飛び交う勝塾。」

「越前。春嶽公に拝謁する龍馬。彼は勝塾の窮乏を訴え、千両を貸してくれる様頼みます。彼は千両を生き金にしてみせる、何倍にもして返してみせると請け合います。その際、収次郎が投獄された事を嘆いてしまい、その非礼を詫びる龍馬。千両を貸す事に同意する春嶽公。」

「春嶽公の側に居たのは、肥後藩士の横井小楠でした。彼は龍馬に、デモクラチーを知っているかと問いかけます。大統領を民が選ぶ事もデモクラチーに入るのかと答える龍馬。知っていたのかと、龍馬を認めた様子の小楠と春嶽公。」

「小楠は、そこまで判っていて、なぜ収二郎の投獄を嘆くのかと問いかけます。いぶかる龍馬に、時の流れの前には一人の人間など芥子粒の様なもの、時代が変われば価値観も変わってしまうのだと説きます。」

龍馬は実際に福井において小楠と会っています。そして千両の借用の件は無論話していますが、もっと政治的な事を議論した様ですね。龍馬は先に触れた麟太郎の大海軍構想を持ち出したと思われますし、小楠はさらに大きな構想を描いていました。徳川将軍家が攘夷実行の約束を果たせないまま関東に帰った場合は、政権を放棄して関東の一勢力に戻ったものとみなし、京都に新しい政権を樹立すべく、春嶽公を率兵上洛させようと考えていたのです。

麟太郎はその生涯の中で見た恐ろしい人物として、西郷隆盛と横井小楠の二人の名を挙げています。もし、小楠の意見を取り入れて実行に移す人が居たとしたら大変な事になっていたと語っていますが、この構想もその一つだったのかも知れません。

結局は春嶽の腰が折れて実現せずに終わってしまうのですが、幕末のこの時期に、これだけの事を考えて実行に移そうとしたのは、小楠を措いて他にはありません。この小楠の影響を、龍馬は確かに受けた様です。

「拷問が続く収二郎。虫の息になりながらも、依然として口を割らない収二郎。」

「容堂候に収二郎の尋問がはかばかしくないと報告する象二郎。そこに、容堂候に直に会いたいと半平太が願い出てきます。」

どうでも良い事なのですが、容堂候が持っていたクワガタは対馬周辺に分布するツシマヒラタの様ですが、どんなものでしょう?本筋には関係ないのですが、ちょっと気になったものですから...。ちなみに、容堂候を演じている近藤さんは、収録中に耳を噛まれてしまった様ですね。見ていて何となく危ないと思ったのですが、案の定でした。

「容堂候に拝謁する半平太。彼は収二郎のした事はあくまで忠義の為であり、許してやって欲しいと願い出ます。容堂候は、象二郎に向かって、収二郎を責めるのはもう止めにしろ、藩命違反の件だけで裁く様にと命じます。」

半平太は切腹の直前にも嘆願を行い、その時も容堂候は収二郎を許す様なそぶりを見せた様です。しかし、結局は容堂候出席の下で行われた奉行職列席の会議において切腹と定められたのでした。

「牢の中で気を失っている収二郎。そこに現れた半平太。彼は良く黙っていてくれたと感謝しますが、収二郎は本当に知らない、だから何も堪えてはいないと答えます。半平太は、東洋殺しの容疑は消えた、しかし、藩命違反の罪で切腹を命じられたと告げます。切腹は武士の誉れだと微笑む収二郎。」

「勝塾。すっかり訓練生として馴染んでいる権平。信号旗の掲揚を命じられ、見事にやってのけます。長次郞を始め、塾生に祝福される権平。そこに龍馬が帰ってきました。」

「権平の用事とは、龍馬を土佐に連れて帰る事でした。しかし権平は龍馬達が一生懸命だという事が判り、連れて帰るのは諦めたと言い、必ずいつかは帰って来いと龍馬に告げます。後10年時間が欲しい、10年経ったら必ず帰ると誓う龍馬。」

後10年時間が欲しいと言うのは、文久3年3月20日に書かれた龍馬の手紙に、40歳ころまでは家には帰らないと兄に許しを得たとある事を踏まえているのでしょう。この手紙を書いた時の龍馬は29歳ですから、ほぼ計算が合う事になります。この手紙には、兄はご機嫌が良かったとあり、ドラマで頼まれた様に兄の意向に逆らったとは記されていません。

「勝塾。加尾の手紙で収二郎の切腹を知った龍馬。収二郎は立派に切腹して果てた、しかし、間違った事をしていないなら、なぜ死ななければならなかったのかと問いかける加尾。収二郎の死を嘆く龍馬。」

収二郎に切腹命令が出たのは文久3年5月23日、そして切腹して果てたのが6月8日の事でした。「嗚呼悲哉兮綱常不張」で始まる辞世の漢詩を、爪で書き残したと言われます。平井家では、一度はその詩を墓碑に刻んだのですが、藩庁に知られると禍が遺族にまで及ぶと心配して、墓碑を倒して文字を消しました。そして、維新後に加尾の手によって復元されたのだそうです。

一方、龍馬は6月29日付けの乙女宛の手紙で収二郎の死に触れています。彼は収二郎の切腹を「誠にむごい、むごい。」と嘆き、妹の「加尾の嘆き様は如何ばかりか」と気にしています。そして、「せめてもの慰めとして今の自分の消息なりとも語って聞かせたい」と言い、「まだ少しは気遣いもする」と続きます。

この頃龍馬は加尾との関係は終わっていた様ですが、収二郎がこうなってみるとやはり気になる存在だったという事なのでしょう。別れた相手に自分の消息を聞かせたところでどうなるものとは思えないのですが、穿った見方をすれば、収二郎の志は自分が引き受ける、嘘では無い証拠にそれだけの力を付けていると言いたかったのかも知れません。直接には会う事はなかったにせよ、乙女を通して龍馬の心遣いは加尾に届いていたのかも知れませんね。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「「武市半平太伝」 松岡 司 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉

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