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2010.05.23

龍馬伝21 ~故郷の友よ~

「加尾からの収二郎の切腹を伝える手紙を読み、悲憤に暮れる龍馬。その一方で、揺れる気持ちを押し隠して勝塾で訓練に励みます。」

「文久3年7月。麟太郎の下を訪れている龍馬。彼は攘夷派が勢いを失っている情勢について、説明を求めています。それは御所に居る天皇次第だと答える麟太郎。長州が異国に敗れて勢いを失い、それに代わって戦争を嫌う薩摩が食い込んでいるのだという事でした。」

「さらに、半平太はどうなると問い重ねる龍馬ですが、今はそれどころではないはずと麟太郎にたしなめられます。」

文久3年7月の政治情勢は、ドラマにあったものとはかなり異なっています。

まずは薩摩藩ですが、文久3年5月20日に起こった猿が辻の変(攘夷派の有力公卿の一人であった姉小路公知が暗殺された事件)について、薩摩藩の田中新兵衛が犯人ではないかと疑われました。この為に薩摩藩は御所の警護役を解かれ、朝廷への出入りを禁止されてしまいます。ですので、薩摩藩が朝廷に食い込んで来たが為に攘夷派が退潮したという事実はありません。また、薩摩藩が攘夷の旗を下ろしたのは7月2日から4日に掛けて行われた薩英戦争の結果であり、この時期に戦争はしないと言って朝廷に食い込んだという事実は無いはずです。

まだこの頃は長州藩を代表とする攘夷派が実権を握っており、天皇自らが大和へ赴いて祖先の霊に攘夷親征を誓うという大和行幸が実現寸前にまて行っていました。そして、それに呼応して大和で吉村寅太郎らが率いる天誅組が挙兵し、一気に倒幕に向かうというシナリオすら書かれている様な情勢でした。

これに対する薩摩藩の巻き返しは、全て水面下で行われていたようです。彼等は本来の敵であったはずの会津藩と結ぶ事で長州藩を追い落とし、朝廷での実権を奪い返すという画策をしていたのでした。今から見れば攘夷派の退潮は始まっていたと判るのですが、それはまだ表面には現れておらず、またその帰趨もどうなるかは判らないというのが文久3年7月という時期でした。

「土佐、坂本家。富が訪ねて来ています。半平太の様子を心配する坂本家の女達。そこに弥太郎がやって来ました。彼は富が半平太の妻と知ると、いっそ武士を止め、自分と一緒に材木を売れと伝えてくれと言い出します。何も言わずに帰る富と、弥太郎にあきれかえる坂本家の面々。」

弥太郎の事は書くまでも無く、全て創作ですね。ただし、半平太の心情を語る上では欠かせない設定だった様です。

「半平太の家。雀の絵を描いている半平太。彼は京にいるはずの以蔵に思いを馳せます。」

「京都。なつの店。以蔵を探して龍馬が訪れました。しかし、以蔵はここにも現れていません。」

「京の町を逃げ回る以蔵。」

この頃の以蔵はどうしていたのでしょうね。恐らくは居場所を失い、それこそドラマの様に逃げ回っていたものと思われます。人斬りとして名を馳せた後に待っていたのは、悲惨な運命だったのですね。ちなみに、この頃の彼は土井鉄三と名を変えています。後に悲劇として記憶される事になる名前ですね。

「天皇の御前会議。攘夷派の公家達に戦争は望まないという天皇の意思が伝えられ、彼等は失脚しました。」

「文久3年8月18日、境町御門を守る薩摩藩兵と対峙する長州藩兵。あわや発砲という時、必死に止めに入る桂小五郎。雨の中、長州に落ちていく七卿。」

8.18の政変は、三条実美ら七卿の面前で行われたのではなく、もっと秘密裏に行われました。絵を描いたのは薩摩藩、朝廷を動かしたのは会津藩でした。彼等は七卿ら攘夷派の公家に気付かれない様に公武合体派の公家を集め、8月18日の深夜に御前会議を開き、大和行幸の延期と七卿達の禁足を決めたのです。これに先立ち、薩摩藩、会津藩らが御所の諸門の守備を固めており、堺町御門の守備を命じられていた長州藩については、この任務を解くという決定が下されています。そして、全ての準備が整った時に、合図の号砲が轟いたのでした。

驚いた七卿は、情報を探ろうと鷹司卿の屋敷に集まったのですが、これが禁足を命じた勅命に違反した事になり、彼等は解職の上追放の身となったのです。そして、長州藩は急ぎ堺町御門へと向かったのですが、既に彼等の任務は解かれており、変わって御門を守っていたのは薩摩藩と会津藩でした。

長州藩と薩摩、会津藩との一触即発のにらみ合いが夕方まで続いたのですが、七卿が鷹司卿邸を出る事を決めた事をきっかけに妙法院にまで撤退し、翌日長州に向けて都落ちをして行ったのでした。ちなみに、バックに流れていたのは久坂玄瑞が即興で作ったという詩ですね。

また、天皇が戦いを望まないと言ったのは先に触れた攘夷親征の事で、自らが先頭に立って闘う事はしたくないという意味のはずです。天皇はあくまで攘夷主義者であり、戦争を望まない平和主義者ではありませんでした。

「土佐、攘夷派の失脚を喜ぶ容堂候。彼は藩外に居る土佐勤皇党員に対して帰国命令を出します。半平太の下にもその知らせが入りました。」

容堂候が帰国命令を出したのは確かなのですが、それが何時なのかは明確にはなっていない様です。龍馬について言えば、11月ごろではなかったかと推測されていますが、はっきりした記録は無い様です。

「江戸城。御殿の廊下ですれ違い様、板倉候から、勝塾には攘夷派が多数居たはず、早く追い出した方が身のためだと言われた麟太郎。」

「土佐、半平太の道場。土佐に帰って来た同志と国元に残っていた同志を引き合わせ、更なる攘夷を誓う半平太。」

半平太に関して言えば、土佐勤皇党員を率いての集団脱走という方向もあったはずです。あるいは、藩内に蟠踞しての抵抗などという選択肢もあったはずですが、結局は何もしないままに終わります。この党が容堂候への忠誠を誓うという根本理念は、半端なものでは無かったという事なのでしょうか。それにしても、なんと悲しい片思いだった事でしょうね。

「大阪、勝塾。麟太郎が塾生を集め、帰国命令が出ても聞く必要はない、今は日本のために海軍を作る事が何よりも大事だと言い聞かせます。」

龍馬達に帰国命令が出た時、麟太郎は容堂候に帰国猶予の嘆願書を出しています。この嘆願書を藩に届け出たのは、他ならぬ龍馬自身だった様ですね。これは江戸藩邸での事であり、12月10日の事として記録されています。この時、龍馬は江戸に居たのですね。しかし、この嘆願書が聞き入れられる事はなく、龍馬は自動的に二度目の脱藩をする事になってしまいます。

「かつての仲間が帰国した聞き、動揺する土佐の面々。」

「迷いを断ち切るがの如く、刀を振るう龍馬。そこに長次郞が現れます。半平太を襲おうとする理不尽に憤る龍馬に、日本のために仕事がしたい、土佐には帰らないと伝える長次郞。理屈は判ってもどうしても割り切れない龍馬。」

「土佐。材木を売り歩いている弥太郎。自分で彫った仏様をおまけに付けて売り込もうとしますが、相手にされません。もう駄目だと思った時、ふとひらめきます。修繕は自分がする、材木代だけを貰えば良いと再度売り込む弥太郎。」

「高知城を見ながら歩く半平太。そこにやって来た弥太郎。彼は半平太に、自分は刀よりもそろばんを信じている、商売で出世すると宣言します。御前の様なやつも居て良いと認める半平太。やっと材木が売れた、おまけとは人の気持ちだと気が付いたと弥太郎。さらに、収二郎を切腹させたのは大殿様ではないか、理不尽とは思わないのか、正直に生きてみれば良いのではないかと説きます。しかし、自分は正直に生きている、殿様に忠義を尽くすのは武士の道だと聞く耳を持たない半平太。勝手にしろと毒づく弥太郎。」

弥太郎が半平太に会ったという事実は無いでしょう。ましてや、一緒に商売人になろうと言うはずもありません。しかし、見ている側としては、弥太郎の言い分は正しく、そのとおりに半平太が動いてくれたらと思わずにはいられませんでした。半平太は、あくまで忠義を貫こうとする相手から命を狙われるのですからね、この上なく哀れではないですか。

「京都。麟太郎に向かって、以蔵を探すために暇が欲しいと頼む龍馬。もうすぐ、京の町は修羅場になる、以蔵を助けるなど無理だと諭す麟太郎。それなら、土佐に帰して欲しいと食い下がる龍馬。半平太が危機に瀕している時に、自分だけがと言い募りますが、土佐に帰っても何も出来ない、大阪に残れと厳命する麟太郎。可愛い弟子を殺されてたまるかと叫ぶ麟太郎に泣き崩れる龍馬。」

どうもこのドラマの龍馬は軟弱で困ります。等身大の若者として龍馬を描くというコンセプトがあるからなのでしょうけど、いい加減に自立してくれないかしらん。

この頃の龍馬の心情を伝えるものとして、8.18の政変の直後に書いた手紙があります。そこには、坂本家の将来の為に兄から養子になれと求められているが、将来は海外に修行に出たいと考えている事、そして今は江戸で攘夷戦争が始まるかも知れず、勝先生からすぐに来いと呼ばれており、養子になどとてもなっていられないと記されています。そこには明確なビジョンの下に動いている龍馬の姿があり、また戦争も厭わないという強い意思も見て取れます。かつての仲間を思わなかったとは言いませんが、ドラマの龍馬はちょっと情けないですね。

ちなみに江戸での攘夷戦争とは、朝廷からの催促に困り果てた幕府が横浜鎖港の談判を諸外国との間で始めようとし、この行方によっては戦争になりかねないという情勢にあった事を指します。実際にはそこまでには至りませんでしたが、龍馬が単なる平和主義者では無い事がここからも窺えます。

「土佐、半平太の家。富と二人で朝餉の膳を囲む半平太。龍馬に思いを馳せる半平太。何もかもが変わってしまったと判ってはいても、自分を信じて付いてきた仲間には泣き言は言えない、これが半平太の本音でした。富から、自分には本当の半平太を見せて欲しいと言われ、これからは富と二人で暮らしていこうと誓います。そこに、藩吏が現れました。容堂候の命で半平太を捕らえに来たのでした。従容として従う半平太。」

半平太が捕らえられたのは9月21日の事で、その使者となったのは武術の達人ばかりの6名でした。剣の達人として知られた半平太の腕を恐れての事でしょうね。彼等が訪れたのが午前9時頃で、それまで半平太は書類の整理に追われていたと言います。彼は自分が捕縛されるとあらかじめ知っており、大事な書類の散逸を防ごうとしていた様ですね。

捕縛の様子はずっと穏やかなもので、使者達は揃って座敷の中に入り、半平太と共に雑談に興じていたと言います。時には笑い声さえ聞こえてきたそうですね。しかし、妻の富は半平太に会わせて貰えず、不安に駆られていた様です。

使者が帰ったのは昼過ぎの事で、半平太も駕籠に乗せられて行きました。富子は遂に半平太に会う事は叶わず、わずかに使者の一人が屏風の端を開けておいてくれたおかけで、夫の見送りが出来たと伝わります。

半平太の罪状は、京都にあった頃の行動に不審な点が数々あるというもので、表面上は捕縛ではなく、お預りでした。ただし、その日の内に牢に移された様ですが。

「次々と捕えられる勤皇党員。」

「京。以蔵を探す龍馬。」

「土佐、材木が全部売れたと喜ぶ弥太郎と岩崎家の人々。」

「京都。裏道を逃げまどう以蔵。龍馬に気付き、駆け寄ろうとした時、新選組の隊士が現れました。龍馬の名を叫びながら、沖田に体当たりを食らわし、逃走する以蔵。後を追う沖田。以蔵の声に気付き、その姿を探す龍馬。」

なんと、新選組が登場して来ましたね。ホームページの人物相関図には無かったので、出てこないのかと思ってましたよ。新選組が以蔵を追いかけたという史実は無いと思いますが、あってもおかしくはないという気はしますね。

ただ、気になるのはその描かれ方で、ただの時代遅れの剣術使い、あるいは恐るべき殺人集団という捉え方にならないかしらん?慶喜公の描かれ方を見ていると、そんな気がしてきますね。私は新選組ファンでもあるので、なんだか嫌な予感がします。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「「武市半平太伝」 松岡 司 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉

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