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2010.04.04

龍馬伝14 ~お尋ね者龍馬~

「明治15年、横浜。料亭で華やかな宴会が開かれています。主席に居るのは岩崎弥太郎。その近くには後藤象二郎の側近でしょうか、後藤と板垣退助の洋行の費用を出して欲しいと言い募る男が居ます。芸者の舞が終わり、激賞する弥太郎。その弥太郎に土下座して金を出してくれと頼む男。洋行と言っても半分は遊興費だ、無駄金は出せないと、にべもなく断る弥太郎。憤然として出て行く男。」

「宴を再開する弥太郎。彼は部屋の隅に居た坂崎紫瀾を呼びます。坂崎はまだ龍馬の事を取材している最中だったのですね。問われるままに、東洋暗殺から以後の事を語り始める弥太郎。」

オープニングの導入部が変わりましたね。第二部の開始という事でリニューアルしたのでしょう。でも、一部分だけとはいえ年の途中でオープニングを変えるというのは始めてではないのかな。このドラマに掛けるNHKの意気込みを感じた気がします。

「半平太一派が実権を握った土佐。彼の次の狙いは、土佐藩主を卒兵上洛させる事でした。その名目は御所警衛、本当の狙いは武力を背景に朝廷から幕府に攘夷決行を働きかけさせるためでした。」

半平太が土佐藩主上洛を画策していたのは、史実にあるとおりです。同志を京に送り込み、公卿、諸藩の間を周旋させて、藩主が参勤交代の為に江戸に上る途中、伏見を通過する際に上洛せよという朝廷の命を引き出したのでした。

「伏見・寺田屋で同士討ちをした薩摩藩。上洛の準備を進める長州藩。」

薩摩藩の同志討ちとは、寺田屋事件の事を指します。清河八郎が、薩摩藩の島津久光が卒兵上洛するという事実を脚色し、あたかも京都で攘夷実行のための挙兵が行われるかのごとく喧伝したのが京都挙兵計画でした。この計画には各地の志士達が賛同し、これに参加すべく京都へ向かったのですが、その中に薩摩藩士達も数多く含まれていました。

ところが、当の久光には挙兵の意思などかけらもなく、全ては清河の描いた空中楼閣だったのです。それでも、暴発してしまえば久光も立ち上がらざるを得ないと高を括っていたのですが、久光はそれほど甘い人物ではありませんでした。先手を打って志士達が集まっていた寺田屋に使者を出し、薩摩藩士に限って説得をさせたのです。そして、藩士達が説得に応じないと知るや、上意討ちであるとして彼等を切って捨てたのでした。

残った志士達は薩摩に挙兵の意思は無いと知り、計画の実行を見送りました。そして、多くの者は元の藩に送り返され、土佐の吉村寅太郎もまた囚われの身となって土佐に帰されたのでした。

「幕府。朝廷からの幕府改革案を巡って議論を交わす幕閣達。容易に答えの出ない幹部達に、海軍創設を建言する勝臨太郎。」

勝海舟がやっと出てきましたね。これから龍馬とおおいに関わり、その進路を示す事になる人物です。ドラマでは、文久二年の時点で海軍創設を建言した事になっていましたが、実際にはこの8年前に提出した海防意見書の中で触れている事であり、翌年の長崎海軍伝習所の開設となってその効果が現れています。

「半平太と入れ替わりに、実権を失った象二郎。傷心の彼の頼みの綱は、江戸に居る容堂でした。その容堂の意向であるとして、東洋暗殺の犯人捜しを弥太郎と井上佐一郎に命じる象二郎。彼は東洋の暗殺直前に脱藩した龍馬こそが犯人だと決めつけます。」

龍馬が一時期東洋暗殺の犯人と疑われた事は事実だった様ですね。なにしろ脱藩したのが東洋暗殺の直前でしたから、疑いを持たれたのも無理はないところです。

一方の弥太郎が東洋暗殺犯の探索を命じられていたかどうかは、意見が分かれる様ですね。表向きには、弥太郎は藩主の参勤交代の供に加えられていたのですが、実は東洋暗殺犯が大阪に潜んでおり、その者を探し出して仇を討つようにと命じられていたとも言います。

「岩崎家。気が進まないながらも、象二郎の命で龍馬を探しに行くと家族に告げる弥太郎。象二郎は終わった人だ、その命など聞かなくても良いと言い切る喜勢。その喜勢に驚きながらも、容堂公の命でもあると土佐を後にする弥太郎。」

「大阪。溝渕広之丞と沢村惣之丞が会っています。二人はどうやら初対面の様子ですが、龍馬の知り合いという事で意気投合した様ですね。広之丞は土佐藩の住吉陣屋に勤めていると言い、惣之丞に遊びに来るように薦めます。しかし、惣之丞が脱藩している事を知ると態度を一変し、とばっちりを喰うと突き放しに掛かりました。その惣之丞から龍馬もまた脱藩したと聞き、信じられない面持ちの広之丞。」

「住吉陣屋。上洛の途に就いた藩主一行が到着し、受け入れ役の広之丞は大忙しです。ここまでは半平太の策が頭に当たったかに見えたのですが、思わぬ躓きが待っていました。藩主がはしかに罹ってしまったのです。焦る半平太と勤皇党の面々ですが、藩主が病気とあっては如何とも出来ません。」

土佐藩主が大阪まで来た時、はしかに罹って寝込んでしまったのは史実にあるとおりです。この時はしはかが大流行しており、藩主のみならず、30歳以下の藩士の多くがはしかに罹ってしまったのでした。平井収二郎の日記に拠れば、この流行ではしかに罹った人の数は京都周辺で二千人以上であり、多くの死者も出ていた様です。

「勤皇党の幹部達が善後策を練っている所に、以蔵が顔を出しました。彼の用事とは、何時になったら風呂に入れるかというものでした。あまりに間の抜けた問いかけに、邪険に以蔵を追い払う幹部達。なぜ自分だけが除け者にされるのかと嘆く以蔵。」

以蔵は身分の低い足軽の出であり、また教養も無かった事から仲間から重んじられる事は無く、差別意識を抱いていたと言われます。その一方で、体力は並外れて優れ、剣技にも秀でていました。師匠である半平太を慕っていた事も事実で、ドラマの様に半平太に良いように利用されたとも言われます。つまりは、ドラマは概ね史実に沿って描かれているという事ですね。

「大阪に出てきた佐一郎と弥太郎。龍馬は半平太が匿っているに違いないと見込みを付ける佐一郎に、それでは捕まえるのは無理だと乗り気でない様子の弥太郎。佐一郎が厠に立った時、なんと龍馬が現れました。弥太郎に声を掛けられ、思わず喜ぶ龍馬。」

東洋の暗殺犯については、実は文久2年5月の時点で、那須真吾ら三人の仕業である事が判明していました。重松緑太郎という郷士が逮捕され、調べが進むにつれて那須達の書簡を持っている事が判り、さらに追求されるとこの三人が下手人である事を白状していたのです。一時は土佐勤皇党をゆるがす一大事となったのですが、実権を握っていた半平太が上手く事を運び、沙汰止みにしてしまったのでした。

この事により龍馬に対する嫌疑は晴れたのですが、一方で弥太郎に命じられていたのは下手人の探索ではなく敵討ちだったという説にも繋がりますね。

「龍馬は西洋化を進めているという薩摩藩の様子を知りたくて九州に行っていたのでした。しかし、薩摩藩は鎖国政策を取っており、龍馬は領内に入る事が出来ずに引き上げてきたのでした。」

脱藩後の龍馬の足取りについては、実はあまり良く判っていません。薩摩に行っていたとするのは「汗血千里の駒」と土佐勤皇史であり、勤皇史では鹿児島行きの理由を、かつて河田小龍から聞いた薩摩藩の近代化の話を思い出し、是非この目で見たいと思ったためとしています。つまりドラマでの龍馬の台詞ですね。

ただ、これを裏付けるだけの同時代の資料はなく、また鹿児島行きの理由としては薄弱に過ぎる事から、疑う向きもありますね。

龍馬がこの時期に大阪に居た事は確からしく、藩主に従って大阪に居た樋口愼吉という藩士の日記に、7月23日に龍馬に会い1円(1両)贈ったとあるそうです。ドラマでは溝渕に会ったことになっていましたが、実際にも似たような事をしていたのかも知れないですね。ただし、半平太に会ったという記録は残っていません。

「弥太郎はなぜ脱藩したのかと龍馬を問い詰めると、龍馬は自分は攘夷派ではあるが、他の仲間とは考えが違うらしいと気づき、土佐を飛び出したのだと答えます。それだけかと重ねて問いかける弥太郎に、東洋を斬ったのは自分ではないと先手を打つ龍馬。彼は弥太郎に、御前にはこんな役目は無理だ、今すぐ土佐に帰れと忠告します。」

「そこに佐一郎が帰ってきました。彼は弥太郎と居るのが龍馬だと知ると、龍馬はお尋ね者である、捕まえるのに協力した者には一両出すと叫びました。その声に応じて刀を抜く二人の浪人。龍馬は脇差しで応戦し、軽く二人を手玉に取ってしまいます。龍馬の腕を目の当たりにして、逃げ出す佐一郎。とまどう弥太郎に、御前は親兄弟だけの事を考えて暮らせと再び忠告を与える龍馬。」

「龍馬の忠告どおりに、土佐に逃げ帰った弥太郎。訳が判らないなりに、安堵して迎える喜勢達。」

弥太郎が土佐に帰った表向きの理由は、規律違反があったために大阪から帰国させられた事になっています。その一方で、東洋の仇を討つように命じられていたという説に立てば、身の危険を感じた弥太郎が、自ら罪を得て土佐に逃げ帰ったとも言います。どちらが正しいのかは判りませんが、少林塾生であり、東洋の息の掛かった弥太郎が大阪に残っていたとしたら、佐一郎と同じ運命をたどっていた可能性は確かにあった事でしょう。

「住吉陣屋を訪れた龍馬。彼は広之丞に頼んで半平太と会います。土佐は今や勤皇党の天下になった、自分が正しく龍馬は間違っていたと言う半平太に、あえて反論しない龍馬。彼は東洋を斬ったのは誰かと問いかけますが、半平太は東洋を恨んでいた者は多いとはぐらかします。これ以上立場を異にする者を斬るのは止めろと忠告する龍馬に、その為にわざわざ来たのかと聞く耳を持たない半平太。彼は龍馬脱藩後の坂本家について、権平が才谷屋の借財帳を巧みに使って上士を押さえ込んだ、それでも言う事を聞かない上士は自分が押さえ込んだと告げ、龍馬に帰るように促します。」

「酒で除け者にされている辛さを晴らそうとする以蔵。そこに半平太が現れます。彼は以蔵に、無役にしたのは自分が素で付き合える友達が欲しかったからであり、以蔵こそが唯一の友であると語り掛けます。感激する以蔵に、困った様な顔を見せる半平太。いぶかる以蔵に、土佐から追手が来ている、このままでは東洋暗殺の下手人が見つかってしまうと打ち明けます。半平太の苦悩を知り、自分に任せてくれと志願する以蔵。」

「街中で待ち伏せをする以蔵。そこに佐一郎が現れました。彼の独り言を聞き、追手であると確信した以蔵は、刀を抜いて斬り掛かりました。もつれ合いながらも、最後は佐一郎の首を絞めて仕留めた以蔵。」

「翌朝、住吉陣屋。藩主の体調が回復し、京に向けての出立の準備に忙殺される半平太達。そこに以蔵の姿もありました。彼は目顔で半平太に語りかけ、半平太は委細を承知していると言わんばかりに笑みを返します。」

「佐一郎の遺骸を調べる町方達。その様子を人垣に混じって見ている龍馬。彼は佐一郎を殺させたのは半平太であると確信していました。」

井上佐一郎を以蔵が殺したのは史実にあるとおりであり、人斬り以蔵の始まりとなった事件でした。ただし、犯行に加わったのは以蔵一人ではなく、複数の人物が係わっています。佐一郎は元は下横目だったのですが、この時は職を解かれて、ただの足軽として藩主上洛の供に加わっていたのでした。しかし、彼は東洋暗殺の探索は続けており、危険を感じた勤皇党の同志達が暗殺を決めたのでした。

その首謀者は、半平太ではなく平井収二郎だったとされています。彼は直接の犯行には加わらなかったのですが、検分役としてすぐ近くに居た様ですね。そして、斬殺ではなく絞殺にしろと命じたのも収二郎でした。

文久2年8月2日、刺客達は佐一郎を道頓堀の大与という料理屋に誘い出し、したたかに酔わせました。そして、九右衛門町の川端まで来ると、以蔵が持っていた手ぬぐいを首に巻き付け、絞め殺したのです。そして、本当に死んだのかを確かめるために一太刀脇腹を刺し、溺死に見せかけるべく死体を川に放り込んだのでした。

佐一郎の死体が上がったのは一週間後の事で、後に以蔵達は佐一郎殺しについて厳しい詮議を受ける事になります。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「「武市半平太伝」 松岡 司 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉


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