龍馬伝 ~おりょう独身時代寓居跡 木屋町通~
おりょうの実家は富小路六角南にあったと推定されていますが、父である楢崎将作が病死した後、残された一家は木屋町に引っ越しています。「反魂香」では四条の裏通の借家、「続反魂香」では木屋町と記されており、四条通に近い木屋町のどこかに住んでいたものと思われます。
この頃のおりょうの一家の様子は、おりょうの懐古談をまとめた反魂香や続反魂香、それに龍馬の手紙で知る事が出来ます。
3代続いた医者の家はかなり裕福で、父の存命中はおりょうも華道や茶道、さらには香道といった教養を身に付けた良家の子女でした。しかし父が死んでから後は、元々が長州から流れてきた家系ですから京都には頼るべき縁戚はなく、わずかに居た親戚もごたごたに乗じて家財道具を掠め取って行くという酷い連中でした。
残された家族は母と5人の子供でしたが、医者の家には跡目相続という制度はなく、収入の道を絶たれた一家の暮らしは次第に窮迫して行きます。まずは富小路の家を売り払い、木屋町の借家に移った様です。そして、手元に残された家財や着物を売ってその日の糧を得ていた様ですが、遂には財産も底を尽き、働ける子供達はそれぞれ奉公に出る様になりました。
ところが、母の貞が人に騙され、二人の妹が次々と売られてしまうという事件が起こります。貞もまた良家の育ちであり、悪意ある人の下心が見抜けなかったのですね。
16歳の光枝は大阪の大家に小間使いとして欲しいと言われたのですが、実は遊女として売られてしまいます。これを知ったおりょうは、まず騙した相手の家に乗り込んで妹の行き先を聞き出し、それが大阪と判ると自分の着物を売って金を作り、刃物を懐に忍ばせた上で単身相手のところに乗り込んで行きました。そして妹を見つけるとやくざ者を相手に談判を始め、相手が脅しに掛かるとかえって相手のむなぐらを掴んで殴り飛ばしたと言います。そして、怒った相手が殺すぞと凄むと、おりょうは殺せるものなら殺してみろと開き直ってみせ、とうとう無事に妹を連れ帰ったのでした。
もう一人の妹である公江(起美)については、続反魂香と龍馬の手紙とでは記述が異なります。続反魂香では、またしても貞が騙されて公江が舞妓に売られそうになるのですが、寸前のところでおりょうが取り戻し、大仏の加藤という家に預けたとあります。
一方龍馬の書簡に依れば、13歳の公江は島原に舞妓として売られたのですが、まだ年少である事から暫く置いておいても大事ないだろうと捨て置いたとあります。この龍馬の手紙にはまだ続きがあって、13歳の妹は自分が引き取って人に預けてあると記されており、さらに別の手紙では神戸海軍塾の勝海舟に預けたとあります。
このあたり正確な経緯が判らないのですが、公江は島原から救い出された後は龍馬の庇護の下にあった事は確かな様ですね。
こうした独身時代のおりょうのエピソードを見るに付け、当時の女性としては相当型破りであった事が窺えます。龍馬の姉乙女もまた男勝りな女丈夫であったと伝えられますが、龍馬の好みにはぴったりと来る性格だったのかも知れませんね。
なお、おりょう達が暮らした家の位置は全く手掛かりが無く、特定は出来ていません。この石碑は単に独身時代の彼女がこの界隈で暮らしていたという事を示しているだけであり、ここが借家跡という訳では無いですね。その事は後ろの説明板に書かれており、石碑の為に土地を提供してくれたのが、たまたまこのビルのオーナだったという事の様です。
ただ、「この付近 寓居跡」というのはいかにも紛らわしく、もう少し表現を改めた方が良いのではないでしょうか。「独身時代のおりょうが暮らした木屋町通」とか、もっとぼかした表現の方が適当だと思います。でないと、石碑を見た人が勘違いをしてしまうと思うのですが、余計なおせっかいかな。
参考資料:「坂本龍馬の妻 お龍」鈴木かおる 「龍馬の手紙」宮地佐一郎
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