龍馬伝 ~寺田屋事件~
龍馬が伏見寺田屋で幕吏の襲撃を受けたのは、慶応2年1月23日深夜の事でした。前日(または2日前)に薩長同盟の仲立ちをするという大仕事をなし終えた龍馬でしたが、目立つ事を恐れたのか帰り道は一人でした。
この時、宿で待っていたのが長府藩士(長州藩の支藩)の三吉慎蔵です。三吉は藩から京都の情勢を探る様命じられ、龍馬と共に上洛して来たのでした。三吉はまた槍の名手として知られた人で、実質的に龍馬の護衛でもありました。
龍馬と寺田屋の縁は、元治元年8月に始まるとも、慶応元年8月の頃からだとも言われます。寺田屋と縁の深い薩摩藩からの紹介があった事は確かで、以後龍馬の京都における根城となります。女将のお登勢は侠気のある女性で、乙女やおりょうと通じるところのあるタイプだったらしく、龍馬とも意気投合した様ですね。彼女を見込んだ龍馬は、妻であるおりょうの身柄もここに預けています。
おりょうはお登勢の養女だったと言われる事がありますが、おりょうの懐古談によればそうではなく、娘分とも女中ともつかない立場だったとの事です。つまりは、娘の様に可愛がられながら、宿の手伝いもしていたという事なのでしょう。
あまりに個性が強すぎるのか、ともすれば孤立しがちなおりょうでしたが、お登勢とは相性が良かったのでしょう、懐古談で懐かしがっている数少ない人物の一人です。(龍馬の知り合いの中で「腹の底から親切だったのは、勝海舟と西郷隆盛、それにお登勢の3人だけだった。」「反魂香」より)
ちなみに、龍馬の姉である乙女とは仲が悪かったという説もありますが、懐古談では親切にして貰ったと言っており、むしろ気が合う相手だった様です。後に坂本家を出てしまったのは、義兄との相性が最悪だった事に依る様ですね。坂本家を去る時、見送ってくれたのは他ならぬ乙女でした。(「千里の駒後日譚」)
話が逸れてしまいましたが、京都に来て以来、龍馬はずっと風邪気味で体調が悪かった様です。薩摩屋敷に居る間も身体が熱っぽく、本調子ではなかった様ですね。それでも緊張感があったからでしょう、大仕事を無事に終えているのはさすがと言えましょうか。
寺田屋に帰ってからも興奮が醒めていない様子で、三吉相手に深夜まで祝杯を上げていました。寺田屋ではこの日は別の客の宴会もあって、そちらも深夜まで騒いでいたと言いますから、江戸時代というのはわりと宵っ張りだった様に思えますね。おりょう達従業員は徹夜だったそうで、仕事を終えたおりょうが風呂に入ったのは午前4時頃の事でした。
そのおりょうが外の様子の異変に気付きます。いくつかある懐古談によって描写が異なるのですが、窓の外を見て捕り方に気付いたとも、風呂場の中で槍を突きつけられたとも言いますが、ここからおりょうの機転の効いた行動が始まります。
風呂を飛び出したおりょうは、濡れ肌に合わせを一枚羽織っただけの姿で龍馬の下に向かおうとします。しかし、浴室を出たところで役人に捕まり、二階に居るのは誰だと聞かれます。おりょうはとっさに薩摩の西郷小次郎と答え、二階に上がるなら表に回るのがよいと嘘を教えてやります。そして、役人が表に行った隙に、かくし階段を伝って龍馬達の居る部屋に飛び込み、異変を知らせたのでした。
この時の描写も懐古談によって異なり、ここに掲げたのは「千里の駒後日譚」に拠るものですが、裸のまま風呂場から飛び出し、龍馬達の部屋に駆け込んだという説(「坂本龍馬の未亡人」安岡重雄)もあります。この場合は役人とのやりとりは無かった事になっているのですが、おりょうの話がその時々によって変わるのか、それとも筆者に依る脚色が入るのかは判りませんが、こうした事例が散見されるためにおりょうの懐古談の信憑性が疑われる原因となっています。
それはともかく、この時のおりょうの行動が龍馬を救った事は確かであり、龍馬達は捕り方に踏み込まれる前に迎え撃つ体勢を整えられたのでした。龍馬は後の手紙の中で、この時おりょうが居たからこそ命が助かったと述懐しています。
以下、長くなったので次回に続きます。
なお、往時の寺田屋は鳥羽伏見の戦いの時に焼失しており、現在の建物は明治期に再建されたものですが、当時の雰囲気は伝えていると思われますので、参考として写真を使用しています。
参考文献
「坂本龍馬の妻お龍」鈴木かほる・「龍馬の手紙」宮地佐一郎・「龍馬 最後の真実」菊池明・「龍馬が行く」司馬遼太郎
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