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2009年10月

2009.10.20

龍馬伝 ~寺田屋事件 龍馬逃走経路その2~

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(伏見薩摩藩邸跡 現松山酒造)

二人が小屋に隠れていた頃、一足先におりょうが薩摩藩邸に駆け込んでいました。おりょうの懐古談に依れば、寺田屋では捕り方と闘う龍馬達の側に居て、二人が欄干を飛び越えて脱出したのを見届けてから、自らも寺田屋を抜け出したとあります。ただ、これもいくつかある懐古談によって描写が異なるため、実際がどうであったかは判りません。

まず「反魂香」では、一度は捕り方に捕まった様なのですが、隙を見て裏の木戸から横町へ飛び出して薩摩屋敷に駆け込んだとあります。

これが「続反魂香」になると、少し描写が具体的になります。

龍馬が逃げた後、捕り方があの女を捕まえろといきり立つのを見て、おりょうはかくし階段から階下へと逃れます。その時、垣根の側に大男が居ておりょうは捕まりそうになるのですが、反対に武者ぶり着いて耳に噛みついたところ相手が怯み、その隙に逃げ出して薩摩屋敷に駆け込んだとあります。

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(伏見薩摩藩邸跡である事を示す石碑)

そして、「千里の駒後日譚」になると、さらに足取りが詳しくなります。

まず、おりょうは龍馬達の後を追って欄干を飛び越し、庭へと飛び降ります。ここで龍馬達とはぐれてしまったのですが、誰にも捕まることなく庭の下駄を持って屋外へと逃れたとあります。ところが、おりょうは薩摩藩邸の場所を知らなかったのですね、まるで方角違いの東に走り豊後橋(観月橋)にたどり着きます。ここからすぐに引き返して、今度は西の外れの竹田街道に出てしまいました。さらに引き返した街中で捕り方に出くわすのですが上手く言い逃れ、次に出会った通行人から薩摩屋敷の場所を聞き出してやっと駆け込んだとあります。

どれもが本人が語った事とされており、何が真実だったのかは藪の中状態ですね。何度か語っている内に記憶が蘇ってくるのか、それとも本人も意識しない内に脚色してしまうのか、どちらなのでしょう。

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(伏見薩摩藩邸跡近くの道)

何にせよ、おりょうが薩摩屋敷に駆け込んだのは事実で、その時留守居役を務めていたのが大山彦八でした。大山はすぐに藩邸内の人数、と言っても10人ほどですが、に命じて武装させます。その一方で中間に命じて伏見市内の様子を探らせ、さらに京都藩邸へと伝令を飛ばしました。そして世が明け初める頃、三吉が門内に駆け込んで来たのです。

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(濠川から伏見薩摩藩邸へと続く道)

ここに来る前、三吉は材木小屋の棚の上で、市内に満ちている高張り提灯の明かりを見ました。一緒にいる龍馬は体力を失っていて身動きが取れず、どう見ても絶望的な状況です。三吉はもはやここまでと観念し、武士らしく共に切腹して果てようと龍馬に言います。しかし、龍馬の答えは違いました。

「死は覚悟の上だが、とにかく薩摩屋敷に向かって駆けてみろ。天が自分を生かすつもりなら君は薩摩屋敷にたどり着ける。さもなければ天命に従い、自分もここで果てるまでだ。」

そう言って三吉を送り出したのです。三吉はまず血みどろの着物を堀端で洗い、次いで古草鞋を拾って足に着け、旅人の様子を繕います。そうして走り出したのは良いのですが、三吉は薩摩屋敷の場所を知らなかったのですね。危ない橋とは知りながらも途中で人に道を聞き、町が寝覚め始める中を走りに走って薩摩屋敷に駆け込んだのでした。

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(伏見薩摩藩邸跡近くの濠川)

待ちかまえていた大山は、三吉から堀端の材木小屋に龍馬が居ると聞くと、薩摩の旗を立てた船を用意させて自ら迎えに行きます。この時大山に同行したのはわずかに二人と言いますから、たった三人ではかなり心細い思いをした事でしょうね。しかし、無事に龍馬を見つけ出し、藩邸内に収容する事が出来たのでした。

この日、生死を共にした3人の結びつきは強くなり、龍馬は頻繁に三吉に手紙を書く様になります。そして、自分に万一の事があれば、土佐から迎えが来るまでおりょうを預かって欲しいと頼んでいました。不幸にも龍馬の予感は現実のものとなってしまいましたが、三吉は龍馬の遺言に従い、下関に居たおりょうとその妹の喜美を自宅に引き取っています。そして、後日おりょうを伴って京都へ行き、龍馬の墓参りを済ませた後、土佐の坂本家まで送り届けたのでした。三吉にとってもおりょうは、他人とは思えない存在だった様ですね。

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(伏見薩摩藩邸跡近くの濠川 上の写真の続き)

龍馬を乗せた船が通った濠川の流路は、当時も今もほとんど変わっていません。この川は元は伏見城の西の濠として掘られたものですが、淀川と繋がっていた事もあり、舟運の水路としても使われていました。現在は琵琶湖疎水の流末となっており、滔々とした流れになっていますね。しかし、当時はこれといった水源は無く、おそらくは湧き出た地下水が濠を満たしていたのではないかと思われます。ですから、流れはもっと緩やかだった事でしょうね。

濠川は改修が重ねられ、さらに周囲の開発が進んで景観は大きく変わっていますが、堀端としての風情は残しており、龍馬が救出されて来る様を思い浮かべる事は出来ると思います。

参考文献

「坂本龍馬の妻お龍」鈴木かほる・「龍馬の手紙」宮地佐一郎・「龍馬 最後の真実」菊池明・「龍馬が行く」司馬遼太郎

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2009.10.19

龍馬伝 ~寺田屋事件 龍馬逃走経路~

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路上に出た龍馬と三吉は共に駆け出します。しかし、500mも走ったところで龍馬の息が上がってしまいました。ずっと風邪気味で体調が悪かった上に、薩長同盟の立ち会いという大役を務め、さらには徹夜で祝杯を上げるという無理を重ねて来たのですから、当然と言えば当然でしょう。しかもこの時龍馬は袴を履いておらず、着物が足に絡まって走りにくく、気持ちばかりが焦ります。

やがてたどり着いたのが濠川でした。龍馬は土佐の新堀に良く似た所と表現していますが、高知にもこんな景観の水路があるのですね。そこには水門があり、その向こうに材木小屋が建っていました。二人は水門を潜って小屋の裏から上り、材木を重ねた棚の上に隠れたと言います。

その材木小屋があったとされる場所が、上の写真の左手に見える真新しいマンションが建っているあたりだとされています。ここにはつい最近までスレート葺きの倉庫があり、かつての材木小屋の後身だと言われていました。住所で言えば伏見区村上町、銘酒富翁で知られる北川本家の南隣にあたります。

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しかし、候補地はもう一つあり、それがこの写真の右手にある巨大な建物(月桂冠の昭和蔵)の北側とされています。かつてはこちらの説の方が優勢だったんじゃないかな。

実はこの材木小屋については古写真が残っており、すぐ近くに橋がある事、小屋の前に舟入らしい窪地がある事がヒントとなります。ところが明治41年頃の地図を見ると、村上町の近くにある大手橋はまだ出来ていない様なのですね。そして舟入は今の大手橋のあたりと昭和蔵の北側の2箇所にあります。その昭和蔵の北側の橋は記されており、古写真の条件に合うのはむしろこちら側ではないかと思うのですが、どんなものでしょう。

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まあ、そもそも古写真の材木小屋というのはかなり立派なもので、そう簡単に潜り込めたものだろうかという疑いを感じます。それに、昭和蔵のある所は紀州徳川家の藩邸、北川本家の南隣は安芸浅野家の藩邸があった場所であり、どちらにも江戸時代の絵図には舟入は見あたりません。たぶん舟入は藩邸が取り壊され、かつ琵琶湖疎水が開通した後に作られたものではないでしょうか。すると舟入に面して建つ材木小屋自体も、明治期のものではないかという疑問が湧いてきます。

さらには、写真が撮られた時期も不明(明治らしいとは言われています)ですし、写真の位置がどこかという議論にどれだけの価値があるのか判らなくなって来ます。もしかしたら、全く違う簡易な材木小屋があったのかも知れません。

それよりも、水門の方が気になりますね。今は痕跡も無い様ですが、どこにあった何のための水門なのでしょう?それを探った方が、より確実に場所が判る様な気がします。何か手掛かりは無いものでしょうか。

こうした推理の真似事が出来るのも、地形や資料が比較的残っている幕末史の面白さです。しかし、判った様な事を言っても所詮は素人の戯言、専門家から見れば隙だらけの意見なのでしょうけどね。

こんなに長くなるとは思ってなかったのですが、さらに続きます。

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2009.10.18

龍馬伝 ~寺田屋事件その2~

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(伏見奉行所跡石碑)

龍馬達を襲ったのは伏見奉行所の捕り方でした。この頃の幕府の諜報能力は凄まじく、薩長に歩み寄りの動きがある事、その仲立ちをしているのが龍馬である事、その龍馬が京都へ入っている事など、薩長同盟に向けての動きがほぼ筒抜けになっていた様です。そしてこの日、龍馬が寺田屋に入った事もまた探知されていたのでした。

実のところ、龍馬のごく身近なところにまで多数の密偵が入り込んでいたのですね。その密偵の報告書が残っているのですが、そこに記された情報提供者の中には、後に海援隊士になった桜島丸(薩摩名義で購入した長州の船。一時、龍馬の亀山社中で運用していました。)水夫頭の橋本久太夫、後に陸援隊士になった竹中与三郎が含まれていたのですから驚くばかりです。神戸海軍塾の関係者と思われる人物も居り、近江屋で暗殺されるまでよくも無事で居られたものだと思う程、龍馬の行動は幕府側に的確に把握されていました。

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(寺田屋玄関)

龍馬達にとって幸運だったのは、襲撃者が実戦経験に乏しい奉行所の役人だった事でした。人数こそ辺りを埋め尽くす程の数を揃えていましたが、臆病者揃いで最初から腰が引けていたのです。彼等は寝込みを襲うつもりでこの時刻に来たのですが、実は二人が起きていると知るとそれだけで混乱してしまう有様でした。この時、お登勢は表で応対していたのですが、この役人達の様子を見て、何人で掛かろうと龍馬達の敵ではないと安心して見ていたと言います。

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(寺田屋 龍馬の部屋。 レプリカですが、それなりの雰囲気があります。)

おりょうの知らせで敵襲に気付いた龍馬は、刀を腰に差し、高杉晋作から贈られたという拳銃を手に腰掛けに座ります。三吉もまた、槍を手にして腰掛けに座りました。待つ程もなく、捕り方が部屋にやって来ます。龍馬がおりょうに命じて唐紙をはずさせると、槍を持った人数が10人ばかり、その左右には6尺棒を持った捕り方が居並んでいました。

暫くはにらみ合いが続きます。その緊張を破る様に龍馬が、何の訳があって薩摩藩士に無礼を働くのかと言ったのをきっかけに、乱闘がはじまりました。捕り方は口々に上意と叫び、槍を投げ、火鉢を投げては騒ぎ立てます。そして、隙を見ては龍馬に斬り掛かってきました。龍馬は拳銃で応戦しますが、刀を受け損ねて両手に浅手を負ってしまいます。

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(龍馬の部屋にある弾痕。 当時のものではないにしろ、臨場感はありますね。)

龍馬の拳銃は6連発でしたが、弾が入っていたのは5発だけで、4発までは命中したのかどうか龍馬にもわかりませんでした。最後の一発は三吉の肩を支えにして狙いを定めて撃ったところ、捕り方の一人に中り、その捕り方は「眠るがごとく前のめりに腹ばう様に」倒れます。

これを見た捕り方はさらに及び腰になり、襖や障子を破って大きな音を出すばかりで、手元には踏み込んでこなくなります。この隙に龍馬は弾倉を外して弾を込めようとしますが、手の傷から出る血で指が滑り、思う様に作業が出来ません。2発まで込めたところで弾倉を落としてしまい、足下に散らばった布団や火鉢の灰に紛れて、見失ってしまいます。

龍馬は拳銃を捨て、その旨を三吉に告げました。これを聞いた三吉は敵に切り入って闘おうと言いますが、龍馬は今の内に逃げようと誘います。三吉は龍馬の言に従い、槍を投げ捨てて、龍馬と一緒に裏の階段から階下へと降りました。幸いな事に、捕り方は店の表に集中しており、裏までは誰も来ていません。二人は後ろの家の雨戸を叩き破って中に入り、その家を通り抜けて寺田屋とは反対側の道に出ました。ここにも捕り方はおらず、脱出に成功した二人は街中を走り出します。

以下、明日に続きます。


余談ながら、去年は再建説でマスコミを賑わした寺田屋ですが、展示は以前と変わっていませんでした。寺田屋は再建説を認めていないのだから当然と言えば当然ですが、一切触れないというのもどうなのでしょうね。京都市は寺田屋に展示の変更を申し入れたはずなのですが、無視されたという事なのでしょうか。

それより意外だったのは、来場者のほとんどが寺田屋再建説を知らない事で、オリジナルと信じて疑っていない様子でした。あの騒ぎは一体何だったのでしょう?

以前にも書きましたが、寺田屋で幕末史を揺るがした2つの大きな事件があった事は事実であり、ここが貴重な史跡である事は間違いありません。また、寺田屋そのものも、再建されたものとは言え、江戸時代の船宿の面影を残す貴重な存在である事も確かです。ですから再建説がある事を認めた上で、公開を続けるのがベストだと思うのですが、どんなものでしょう。

一番がっかりするのは、本物だと信じていたのに、後から偽物だったと知る事です。せっかく幕末のロマンを求めて訪れたのに、後に残るのは嫌な思いだけだとしたら詰まらないじゃないですか。再建されたものだとしても、寺田屋には十分史跡としての価値があるのですから、そこはちゃんと説明して欲しいものだと思います。それで来場者が減るとは思えないのですけどね。

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2009.10.17

龍馬伝 ~寺田屋事件~

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(寺田屋浜)

龍馬が伏見寺田屋で幕吏の襲撃を受けたのは、慶応2年1月23日深夜の事でした。前日(または2日前)に薩長同盟の仲立ちをするという大仕事をなし終えた龍馬でしたが、目立つ事を恐れたのか帰り道は一人でした。

この時、宿で待っていたのが長府藩士(長州藩の支藩)の三吉慎蔵です。三吉は藩から京都の情勢を探る様命じられ、龍馬と共に上洛して来たのでした。三吉はまた槍の名手として知られた人で、実質的に龍馬の護衛でもありました。

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(寺田屋騒動の碑)

龍馬と寺田屋の縁は、元治元年8月に始まるとも、慶応元年8月の頃からだとも言われます。寺田屋と縁の深い薩摩藩からの紹介があった事は確かで、以後龍馬の京都における根城となります。女将のお登勢は侠気のある女性で、乙女やおりょうと通じるところのあるタイプだったらしく、龍馬とも意気投合した様ですね。彼女を見込んだ龍馬は、妻であるおりょうの身柄もここに預けています。

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(寺田屋外観)

おりょうはお登勢の養女だったと言われる事がありますが、おりょうの懐古談によればそうではなく、娘分とも女中ともつかない立場だったとの事です。つまりは、娘の様に可愛がられながら、宿の手伝いもしていたという事なのでしょう。

あまりに個性が強すぎるのか、ともすれば孤立しがちなおりょうでしたが、お登勢とは相性が良かったのでしょう、懐古談で懐かしがっている数少ない人物の一人です。(龍馬の知り合いの中で「腹の底から親切だったのは、勝海舟と西郷隆盛、それにお登勢の3人だけだった。」「反魂香」より)

ちなみに、龍馬の姉である乙女とは仲が悪かったという説もありますが、懐古談では親切にして貰ったと言っており、むしろ気が合う相手だった様です。後に坂本家を出てしまったのは、義兄との相性が最悪だった事に依る様ですね。坂本家を去る時、見送ってくれたのは他ならぬ乙女でした。(「千里の駒後日譚」)

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(龍馬像)

話が逸れてしまいましたが、京都に来て以来、龍馬はずっと風邪気味で体調が悪かった様です。薩摩屋敷に居る間も身体が熱っぽく、本調子ではなかった様ですね。それでも緊張感があったからでしょう、大仕事を無事に終えているのはさすがと言えましょうか。

寺田屋に帰ってからも興奮が醒めていない様子で、三吉相手に深夜まで祝杯を上げていました。寺田屋ではこの日は別の客の宴会もあって、そちらも深夜まで騒いでいたと言いますから、江戸時代というのはわりと宵っ張りだった様に思えますね。おりょう達従業員は徹夜だったそうで、仕事を終えたおりょうが風呂に入ったのは午前4時頃の事でした。

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(寺田屋風呂桶)

そのおりょうが外の様子の異変に気付きます。いくつかある懐古談によって描写が異なるのですが、窓の外を見て捕り方に気付いたとも、風呂場の中で槍を突きつけられたとも言いますが、ここからおりょうの機転の効いた行動が始まります。

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(寺田屋裏階段)

風呂を飛び出したおりょうは、濡れ肌に合わせを一枚羽織っただけの姿で龍馬の下に向かおうとします。しかし、浴室を出たところで役人に捕まり、二階に居るのは誰だと聞かれます。おりょうはとっさに薩摩の西郷小次郎と答え、二階に上がるなら表に回るのがよいと嘘を教えてやります。そして、役人が表に行った隙に、かくし階段を伝って龍馬達の居る部屋に飛び込み、異変を知らせたのでした。

この時の描写も懐古談によって異なり、ここに掲げたのは「千里の駒後日譚」に拠るものですが、裸のまま風呂場から飛び出し、龍馬達の部屋に駆け込んだという説(「坂本龍馬の未亡人」安岡重雄)もあります。この場合は役人とのやりとりは無かった事になっているのですが、おりょうの話がその時々によって変わるのか、それとも筆者に依る脚色が入るのかは判りませんが、こうした事例が散見されるためにおりょうの懐古談の信憑性が疑われる原因となっています。

それはともかく、この時のおりょうの行動が龍馬を救った事は確かであり、龍馬達は捕り方に踏み込まれる前に迎え撃つ体勢を整えられたのでした。龍馬は後の手紙の中で、この時おりょうが居たからこそ命が助かったと述懐しています。

以下、長くなったので次回に続きます。

なお、往時の寺田屋は鳥羽伏見の戦いの時に焼失しており、現在の建物は明治期に再建されたものですが、当時の雰囲気は伝えていると思われますので、参考として写真を使用しています。

参考文献

「坂本龍馬の妻お龍」鈴木かほる・「龍馬の手紙」宮地佐一郎・「龍馬 最後の真実」菊池明・「龍馬が行く」司馬遼太郎

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2009.10.10

龍馬伝 ~おりょう独身時代寓居跡 木屋町通~

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おりょうの実家は富小路六角南にあったと推定されていますが、父である楢崎将作が病死した後、残された一家は木屋町に引っ越しています。「反魂香」では四条の裏通の借家、「続反魂香」では木屋町と記されており、四条通に近い木屋町のどこかに住んでいたものと思われます。

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この頃のおりょうの一家の様子は、おりょうの懐古談をまとめた反魂香や続反魂香、それに龍馬の手紙で知る事が出来ます。

3代続いた医者の家はかなり裕福で、父の存命中はおりょうも華道や茶道、さらには香道といった教養を身に付けた良家の子女でした。しかし父が死んでから後は、元々が長州から流れてきた家系ですから京都には頼るべき縁戚はなく、わずかに居た親戚もごたごたに乗じて家財道具を掠め取って行くという酷い連中でした。

残された家族は母と5人の子供でしたが、医者の家には跡目相続という制度はなく、収入の道を絶たれた一家の暮らしは次第に窮迫して行きます。まずは富小路の家を売り払い、木屋町の借家に移った様です。そして、手元に残された家財や着物を売ってその日の糧を得ていた様ですが、遂には財産も底を尽き、働ける子供達はそれぞれ奉公に出る様になりました。

ところが、母の貞が人に騙され、二人の妹が次々と売られてしまうという事件が起こります。貞もまた良家の育ちであり、悪意ある人の下心が見抜けなかったのですね。

16歳の光枝は大阪の大家に小間使いとして欲しいと言われたのですが、実は遊女として売られてしまいます。これを知ったおりょうは、まず騙した相手の家に乗り込んで妹の行き先を聞き出し、それが大阪と判ると自分の着物を売って金を作り、刃物を懐に忍ばせた上で単身相手のところに乗り込んで行きました。そして妹を見つけるとやくざ者を相手に談判を始め、相手が脅しに掛かるとかえって相手のむなぐらを掴んで殴り飛ばしたと言います。そして、怒った相手が殺すぞと凄むと、おりょうは殺せるものなら殺してみろと開き直ってみせ、とうとう無事に妹を連れ帰ったのでした。

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もう一人の妹である公江(起美)については、続反魂香と龍馬の手紙とでは記述が異なります。続反魂香では、またしても貞が騙されて公江が舞妓に売られそうになるのですが、寸前のところでおりょうが取り戻し、大仏の加藤という家に預けたとあります。

一方龍馬の書簡に依れば、13歳の公江は島原に舞妓として売られたのですが、まだ年少である事から暫く置いておいても大事ないだろうと捨て置いたとあります。この龍馬の手紙にはまだ続きがあって、13歳の妹は自分が引き取って人に預けてあると記されており、さらに別の手紙では神戸海軍塾の勝海舟に預けたとあります。

このあたり正確な経緯が判らないのですが、公江は島原から救い出された後は龍馬の庇護の下にあった事は確かな様ですね。

こうした独身時代のおりょうのエピソードを見るに付け、当時の女性としては相当型破りであった事が窺えます。龍馬の姉乙女もまた男勝りな女丈夫であったと伝えられますが、龍馬の好みにはぴったりと来る性格だったのかも知れませんね。

なお、おりょう達が暮らした家の位置は全く手掛かりが無く、特定は出来ていません。この石碑は単に独身時代の彼女がこの界隈で暮らしていたという事を示しているだけであり、ここが借家跡という訳では無いですね。その事は後ろの説明板に書かれており、石碑の為に土地を提供してくれたのが、たまたまこのビルのオーナだったという事の様です。

ただ、「この付近 寓居跡」というのはいかにも紛らわしく、もう少し表現を改めた方が良いのではないでしょうか。「独身時代のおりょうが暮らした木屋町通」とか、もっとぼかした表現の方が適当だと思います。でないと、石碑を見た人が勘違いをしてしまうと思うのですが、余計なおせっかいかな。

参考資料:「坂本龍馬の妻 お龍」鈴木かおる 「龍馬の手紙」宮地佐一郎

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2009.10.03

龍馬伝 ~龍馬とおりょうの出会いの場所 大仏騒動跡~

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あまり知る人は居ませんが、三十三間堂の南側には巨大な門があります。これは豊臣秀吉が建てた方広寺の南大門で、かつての威容を今に伝える貴重な遺構となっています。この寺には奈良の東大寺をしのぐ大仏があり、その事から付近一帯の地名も大仏と呼ばれていました。

この南大門の南側に、龍馬とおりょうが出会ったという隠れ家がありました。この隠れ家については、おりょうの懐古談をまとめた「反魂香」に詳しく、また龍馬の手紙にも「(おりょう母子が土佐の志士達を)大仏あたりにやしないかくし」という表現で出てきます。

父親を病気で亡くしたおりょうの一家は、柳馬場通三条南の家を出て、一時木屋町の借家に身を寄せていました。この時おりょうの一家は母の貞をはじめ二人の弟と二人の妹を抱えており、暮らし向きは急迫していた様です。そこに付け込む人が居て、二人の妹が相次いで騙されて連れ出されるという事件が起こり、その都度おりょうが連れ戻すという事がありました。

その頃(文久3年後半から元治元年前半)、天誅組に参加した土佐の残党が、河原屋五平衛という人の隠居処を借りて「水口加藤の家人住所」という表札を表に出し、隠れ家としていました。ここには龍馬を始めとして、中岡慎太郎、北添佶磨、望月亀弥太、池蔵太などが出入りしていた様です。その隠れ家の世話人として頼まれたのが、おりょうの母である貞でした。彼女の夫である楢崎将作は勤皇の志士と繋がりがあり、龍馬が同士と呼んだ人物です。その妻であれば、隠れ家の世話人として申し分ないと思われたのでしょうね。

貞は息子を寺に預けたり、娘を奉公に出したりと始末を付けた上で、末の娘を連れて大仏の家に入ります。おりょうもまた、七条新町にあった扇岩という旅館で住み込みで働く様になりました。この大仏の隠れ家で、龍馬はおりょうと何度か会った様ですね。そして、貞から身の上話を聞く内に情が移り、おりょうを妻に貰い受けたいと切り出した様です。貞もまた龍馬が人物である事を認め、おりょうを嫁がせる事を承知しました。おりょうに異存があるはずも無く、話はすぐにまとまった様です。

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こうして、龍馬とおりょうは夫婦約束が出来たのですが、まだ祝言を挙げぬ元治元年6月2日に、龍馬は勝海舟に会う為に江戸へと旅立ちます。この時、望月亀弥太と大里(近藤?)長次郎が龍馬を見送ったのですが、望月とはこれが今生の別れとなってしまいました。

龍馬が旅立った3日後の朝、大仏の隠れ家は新選組に急襲されます。この時、隠れ家には北添佶磨が居た様ですが、この場は上手く逃れた様です。新選組は隠れ家を隈無く捜索し、家財道具を洗いざらい押収して行きました。その中に槍4本、具足櫃などが含まれており、北添らの犯意の証拠とされた様ですね。そして貞もまた一緒に連行されたのですが、すぐに何も知らない者として釈放されています。

新選組は、大仏の手入れと同時に四条河原町の桝屋を襲い、古高俊太郎を捕らえています。直後の池田屋事件に繋がった事でこちらの方がずっと有名ですが、これらの動きは単なる新選組の捜索活動ではなく、公武合体派に依る京都の一斉捜索の前段として行われていました。龍馬の出立があと数日遅かったら、龍馬もまたこの騒動に巻き込まれていた可能性もあったのですね。

龍馬は危うく虎口を逃れる事が出来ましたが、望月は池田屋で難に遭いました。一度は逃れたものの、力尽きて角倉家の門前で自害して果てた事は以前に書いた通りです。

北添佶磨については、資料によって説が分かれています。大仏の隠れ家の手入れを受けた直後なのに、同志の会合に出掛けるのは不自然だという説(「近藤勇のすべて」新人物往来社、「新選組の二千二百四十五日」伊東成郎など)と、通説となっている池田屋で討ち死にしたという説ですね。

このうち、「新選組の二千二百四十五日」には、(池田屋の近くではない)路上で討ち死にしている北添の死体を、おりょうが目撃したと彼女の後日談にあると書かれているのですが、調べた限りではおりょうが見たのは望月の死体です(「千里の駒後日譚」)。それどころか、おりょうは北添は池田屋で襲われてその場で討ち死にしたと繰り返し言っており、このあたりはどうも良く判らないですね。どこかに、私の知らない資料があるのでしょうか。

この隠れ家のあった場所は、現在の地名で言えば東山区本瓦町となります。地図の上では大仏という名は見あたらないのですが、写真の中程にある変電所は大仏変電所と言い、かつてこの辺りが大仏と呼ばれていた名残を示しています。

隠れ家があった正確な位置は判らないのですが、ここで龍馬とおりょうの出会いがあったと思えば、何の変哲もない町並みも違って見えるというものですね。


参考資料

坂本龍馬の妻お龍(鈴木かほる)、龍馬の手紙(宮地佐一郎)、坂本龍馬(松浦玲)、閃光の新選組(伊東成郎)、近藤勇のすべて(新人物往来社編)

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