龍馬伝~長州藩邸跡~
土佐藩邸と並んで幕末における尊王攘夷派の拠点となったのが長州京都藩邸でした。
京都藩邸は、土佐藩邸跡の記事でも書いた様に、西陣織など京都の文物を買い込んだり国元の物産を京都で売るといった経済的な役割、あるいは、京都の有職故実や流行ものを調べるといった文化的な役割を持つ出先機関でした。
幕末になると次第に京都が政治の中心となり、この藩邸は長州藩の政略の一大拠点として急速にその存在意義を改めます。特に文久2年から3年にかけては、京都政界は尊攘派の独壇場でした。その中心となっていたのが長州藩で、久坂玄瑞、桂小五郎達が志士達の指導者として辣腕を振るっていました。
ところが八・一八の政変で情勢が一変し、長州藩と尊攘派は京都政界から一掃されてしまいます。残された長州藩邸は京都における尊攘派の孤塁となり、唯一桂小五郎だけが京都留守居役として長州藩の復権の為に奔走を続けました。しかし、蛤御門の変が勃発して長州藩は敗北、藩邸も戦火に包まれてその使命を終えました。そして、桂は長い潜伏生活を余儀なくされてしまいます。
長州藩京都藩邸は、今の京都ホテルオークラの位置にありました。一之舟入のすぐ南にあり、角倉邸と掘割を挟んで向かい合っていた様ですね。南北二つの屋敷があり、北屋敷は表口39間(約70m)、裏行31間(約56m)、南屋敷が表口30間(約54m)、裏行8間(約14m)の規模を持っていたそうです。
蛤御門の変で焼けた後は長く空き地になっていましたが、明治以後は官地となり、勧業場として整備されました。勧業場とは産業振興のための官製の施設であり、洋館二階建ての本館を中心に、舎密局・製糸場・織殿・染殿・集産場・欧学舎・製靴場・栽培試験場などが次々と建てられました。
明治22年になると、勧業場もその使命を終えたとして廃止となり、跡地には常磐ホテルが建てられて営業を始めます。そして、京都ホテルを経て現在の京都ホテルオークラに至っている訳ですね。
ここが長州藩邸であった事を示す石碑は南側の植え込みの中にあり、しかもホテル側を向いて立っているので、ちょっと判りにくいです。冒頭の桂の銅像が河原町通に面して目立っているのに比べて対照的ですね。
龍馬がこの藩邸に立ち寄った事があるかと言えば、ちょっと判りません。龍馬が京都で活躍するのは主として蛤御門の変の後ですからね、多分無かったのではないでしょうか。記録の上にも無いように思うのですが、どんなものなのでしょう。ドラマでは桂小五郎との関係で、少しは出てくるかも、ですね。
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コメント
京都ってずっと都があったのですから、
いろいろな方のお家の跡があるのでしょうね。
歴史があるって、面白いですね。
投稿: ヒロ子 | 2009.09.08 22:03
ヒロ子さん、
そうですね、それこそ千年の都ですから、
平安時代から近代に至るまで、
沢山の人の足跡が残っています。
石碑を見て歩くだけでも、日本史が見えて来るかも、ですよ。
投稿: なおくん | 2009.09.09 05:53
一つの場所がどの時代に注目するかによって
いろんな見え方がして面白いのが京都の魅力ですね♪(^◇^)
投稿: Milk | 2009.09.09 10:50
こんにちは、なおくん様
この藩邸跡の石碑、一度探しに行ったのですが、場所が判らず。
植え込みの中にあったのですね・・・。
なおくん様のお陰で、次回はちゃんと探し当てられそうですわ。
投稿: いけこ | 2009.09.09 12:41
Milkさん、
そうですね、一つの場所に色んな時代が重なっていますから、
切り口によって見えるものがまるで違うのも京都ならではです。
記事ではさらっと流しましたが、常磐ホテルを巡るいきさつもまた、
なかなか面白いものがありますよ。
伊藤博文がからんでいたりして、明治は幕末の延長だと思えてきます。
投稿: なおくん | 2009.09.09 21:00
いけこさん、
デザインの関係から石碑が目立つのが嫌なのか、
それとも設置する場所が無かったのかは判りませんが、
広く一般に知らしめるという本来の趣旨からは、
ちょっと遠い感じのする石碑ですね。
柱?の裏側になりますから、上手く見つけて下さい。
投稿: なおくん | 2009.09.09 21:06