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2009.09.01

龍馬伝~土佐藩邸跡~

Tosayama090831

酢屋から高瀬川沿いに300m程南に下がったところに土佐藩邸跡があります。龍馬の母藩の京都における拠点として、文久の頃は武市瑞山が辣腕を振るい、その後は中岡慎太郎や後藤象二郎が幕末の政局の中で活躍しました。脱藩と帰藩を繰り返していた龍馬はこの藩邸には入れなかった様ですが、それでも京都における寓居である酢屋や近江屋は藩邸の近くにあり、いざと言う時にはここに逃げ込む用意をしていた様です。

現地に立つ説明書きに拠れば、藩邸が出来たのは江戸時代初期の事で、現在の旧立誠小学校のあたりから河原町通にかけての一帯を占めていました。1690年(元禄3年)には京都藩邸の守るべき法律が詳しく定められています。

土佐藩に限りませんが、京都藩邸は京都における文物の流行を調べて国元に伝え、また国元の物産を売り捌くための連絡事務所でした。藩邸の責任者として京都留守居役が詰め、町人の御用掛が指名されて各種の連絡事務に当たっていました。

河原町通だけでなく高瀬川に面しても門が開かれていて、高瀬川には土佐橋が架かっていたそうです。ちなみに、高瀬川沿いには各藩の藩邸が多く軒を連ねて居たのですが、これは国元の物産を運び込む為には舟運が必要だった事に依ります。

幕末に至って、図らずも京都が政局の中心となったため、藩邸は当初の目的とは違った役割を持つ様になります。すなわち京都における政庁であり、軍事拠点となって行ったのです。

Tosayama090832

文久3年2月6日に、前土佐藩主山内容堂が藩邸に入ったのですが、この時裏門の橋の上に唐橋村惣助の首が置かれていました。惣助とは千種家の領地を預かる庄屋で、千種家に出入りして奸謀を働いたという科で天誅に遭ったのでした。千種家の当主である有文は、和宮降嫁に与したという事で、尊攘派に睨まれていたのですね。

これはまた公武合体派と目される容堂への恫喝だったのですが、容堂は「首を献じられても酒の肴にもならない、無益な殺生を哀れむ」と言って動じなかったと言います。さすがに鯨海酔候と自称する容堂だけの事はありますが、8・18の政変で過激攘夷派が一掃されるまでは京都はこうしたテロが横行する巷でした。その黒幕の一人が、他ならぬ土佐藩京都留守居役の武市瑞山だった訳で、色々な意味でこの藩邸が幕末の京都の中心の一つであった事は間違いありません。

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