天地人 ~島左近の墓 立本寺~
いよいよ佳境を迎えた天地人、このドラマが始まると知った時から楽しみにしていたのが直江状でした。家康の挑発に真っ向から挑んだこの書状から関ヶ原の戦いが始まります。
その関ヶ原において、石田三成の家臣として勇名を馳せた武将が島左近でした。左近は大和の人で、初めは畠山氏、後に筒井氏仕えました。特に幼少の筒井順慶を支え、幾度の苦難をくぐり抜けて大和一国の主となさしめた事で名を上げます。順慶亡き後は豊臣秀長・秀保に仕えますが、大和豊臣家が断絶となった後は浪人となって、近江国に引きこもりました。
その左近に石田三成が仕官の誘いを掛けます。初めは断っていた左近でしたが、4万石の所領のうち2万石を与えるという三成の熱意に打たれ、家臣になる事を承諾したと言います。名高い左近を得た三成は「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われました。
関ヶ原においては石田隊を率いて勇戦しますが、小早川秀秋の裏切りにより西軍は総崩れとなます。左近は残った味方を引き連れて正面の敵軍に突撃し、遂には銃撃を受けて討ち死にしました。この時の奮戦ぶりは後々まで語り草となり、田中吉政をして「死兵を見た」と言わしめ、黒田隊の将兵は長く悪夢に苦しんだとも言われています。(以上Wikipediaより)
ところが左近の首は見つからっておらず、この事が左近生存説を産む事になります。左近は戦場から落ち延びて京都に入り、僧侶となって生き続けたと言われており、その証拠の一つが立本寺にあるこの墓とされます。
その墓碑の裏面には寛永9年6月26日没とあり、関ヶ原の戦いから32年後に亡くなった事になりますね。さらにはこの墓に対応する位牌や過去帳もあって、ここだけを見れば確かに左近は立本寺で僧侶として生きていた事になります。
この墓は思っていたよりもずっと立派で、とても徳川に逆らった人の墓には見えないですね。左近の名声を慕う人達の手によって建てられたものと思われますが、それとも僧侶としての左近が素晴らしい人格者であった故なのでしょうか。
左近の墓は対馬にもあり、ここでも出身地(対馬で生まれたという説もあります)である対馬まで落ち延びたと言われていますね。なお、奈良には関ヶ原の戦いのあった慶長5年9月15日と刻まれた墓があり、これが正規の墓とされている様です。
左近の最後は、今もって謎として続いている様ですね。
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コメント
島左近にはそのような伝説があるのですか。
伝説があるというのは、大軍師にふさわしいですね。
それにしても今日の直江状、ザンネンでしたm(_ _)m
↓葛きりが美味しそうです!
投稿: ヒロ子 | 2009.09.13 21:46
ヒロ子さん、
今回の直江状、もう少し描き方があったと思うのですが、
このドラマの流れからするとあんなものかも知れませんね。
もっと格好良くして欲しかったというのが正直なところですが。
島左近は、有名な割に謎の多い人物の様ですね。
多分義経と同じく、左近の死を惜しむ人達に依って作られた伝説と思いますが、
過去帳にまであるとなると、軽々しくは断定出来ません。
本当のところはどうだったのでしょうね。
投稿: なおくん | 2009.09.13 21:59
大河ドラマも時間切れでこれからは
あっけなく話が進んでいってしまうのかな?A^^;
投稿: Milk | 2009.09.14 10:20
Milkさん、
最大の見せ場があれでは、これから先はどうするのでしょう?
米沢に行って、苦労しましたで終わるのかしらん?
私の心はすでに龍馬伝に向いています。
次は面白いドラマであって欲しい。
投稿: なおくん | 2009.09.14 20:41