龍馬伝~おりょう 実家跡~
龍馬の妻と言えばおりょう。龍馬が襲われた寺田屋事件の時、機転を利かせて危機を救った事で知られていますよね。そのおりょうの実家があった場所が柳馬場通三条南の地とされています。
おりょうの父は楢崎将作という医者でした。曾祖父の代まで長州藩士だったのですが、何か落ち度があったらしく永のお暇となり、京都に流れ着いたのでした。そしていつしか医者となり、孫の将作まで3代医者として続いたのです。
将作の名と住所は洛医人名録という資料に見る事が出きるのですが、実はもう少し古い天保医監という資料では住所が富小路六角南となっています。おりょうが生まれたのは天保12年と推定されており、生家は富小路六角南にあって、その後柳馬場通三条南に引っ越し、そこで育ったという事になるのでしょうか。
将作は青蓮院宮(中川宮朝彦親王)御内の侍医を務めていました。その関係からなのでしょうか、梅田雲浜、梁川星巌、頼幹三郎などといった草創期の志士達の同士となり、家を彼等の隠れ家として提供するなどしていた様です。しかし、その事が祟って安政の大獄に連座して捕縛されてしまいました。その一年後には釈放されたのですが、獄で身体を壊したのか、三年後に病死してしまいます。
残された家族は、将作の妻である貞とおりょうを頭とした5人の子供でした。龍馬はそれぞれが身の振り場に困っている事を知り、幸におりょうを妻に貰い受けたいと申し出たとされますが、そのあたりのことはまた頁を改めて紹介したいと思っています。
冒頭の写真の中でタクシーが写っていますが、その左手のビルが実家跡と推定されており、石碑が建っているそうです。というのは、この写真を撮りに行った後で知った事であり、この時は確認していないのです。また次に機会があれば、石碑を見てこようと思っているところです。
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コメント
ここの石碑は、昨年10月に建っています。
京都龍馬会は、このところ次々に龍馬旧蹟に建碑してらっしゃいます。
つい先日も、東山ユースホステル前に、坂本龍馬・お龍「結婚式場」跡なる石碑が建ったようですよ。
投稿: zuzu | 2009.09.13 11:15
zuzuさん、
そうなんですね。この記事を書く時に改めて調べてみて、
石碑の事を知りました。
こんなコアな史跡にまで石碑が建つとは、龍馬伝恐るべしです。
東山の方は、近い内に見に行くつもりです。
こちらはおりょうの証言が元になっていますが、
通説では西郷隆盛らの立ち会いで挙式した事になっおり、
ドラマではどちらを採用するのか楽しみですね。
投稿: なおくん | 2009.09.13 21:07