龍馬伝~吉村寅太郎寓居跡~
土佐四天王の一人、吉村寅太郎の寓居跡です。木屋町三条を上がったところにあって、師であり、同志でもある武市半平太の隣に住んでいました。
吉村は土佐国高岡郡の庄屋の子として生まれ、長じて武市半平太に師事して影響を受けました。後に武市の結成した土佐勤王党にも加わっています。
1862年(文久2年)2月に武市の命を受けて萩に行って久坂玄瑞と会い、さらに九州に渡ってそこで平野国臣から京都挙兵計画を聞きます。島津久光の卒兵上洛に合わせて諸国の志士達が倒幕の軍を上げるという壮挙を知った吉村は、急ぎ土佐に戻りました。そして、武市に会ってこの挙に参加する様に説得したのですが、土佐一藩の勤皇化を目指していた武市は応じず、やむなく吉村は沢村惣之丞と共に脱藩して馬関へ向かいました。ここで沢村を一度土佐に帰して仲間を募らせたのですが、これに応じたのは結局龍馬一人だけでした。つまりは、龍馬を脱藩に踏み切らせたのは吉村だったという事になりますね。
しかし、期待していた京都挙兵計画は当の島津久光に倒幕の意思は無く、かえって寺田屋に集結していた浪士の中の薩摩藩士を討ち取るという挙に出、挙兵計画を潰してしまいます(寺田屋事件)。吉村はこのあおりを受けて国元へ帰され、牢に入れられてしまいました。なお、龍馬は吉村に遅れた事が幸いし、事件に巻き込まれることなく、江戸に向かっています。
吉村が帰った土佐では、執政の吉田東洋を暗殺した武市が実権を握っていました。吉村は入牢後8ヶ月で許されると再び京都へ上り、武市の居る丹虎の隣に居を構え、諸藩の志士と交わって国事に奔走する様になります。
1863年(文久3年)8月になると、天皇の大和御幸を受けて倒幕の兵を大和で挙げることを計画し、松本奎堂、藤本鉄石らとともに尊攘派公卿の中山忠光を擁して天誅組を結成しました。そして、8月17日に天誅組志士30人は、五條代官所を襲い五條新政府の設立を宣言、倒幕の旗を揚げます。
ところが、翌18日に八・一八の政変が勃発します。一夜にして尊攘派の勢力が朝廷から一掃され、大和行幸も取りやめになってしまったのでした。これにより、天誅組は大和の地で孤立してしまう事になります。しかし、もはや勢いは止まらず、8月26日に十津川郷士の助けを得て高取城へ進攻しました。しかし、城の守りは堅く敗走。一旦は十津川郷へ逃れますが、十津川郷士の離反などを経て翌9月に東吉野村で天誅組は壊滅、吉村寅太郎も京都へ向かう途中発見されて、戦死しています。 享年27歳。
こうしてざっとその生涯を追ってみると、何とも生き急いだ人という印象を受けます。その行動力と構想力は素晴らしいものがありますが、残念ながら時機を見切る力が足りていなかった様です。このあたりが龍馬との差でしょうか。
もう少し、長く生きていて欲しかった人だという気がしますね。ドラマの相関図にはその名が無く、出番は無いのかも知れませんが、龍馬に影響を与えた人物として、覚えておかなくてはならない一人だと思います。
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