龍馬伝 ~佐々木只三郎寓居跡・松林寺~
慶応3年11月15日、京都・近江屋にて龍馬は暗殺されました。その龍馬を襲った犯人は見廻組とする説が有力ですが、その一隊を率いていたのが見廻組与頭である佐々木只三郎だったと言われています。
佐々木は会津の人で、26歳の時に旗本の佐々木家の養子となりました。文久3年には浪士隊を率いる取締並出役として上洛し、翌元治元年に見廻組与頭となっています。この間一度江戸に戻り、清河八郎を暗殺したとも言われています。
龍馬暗殺の時はリーダー格ではありましたが、直接には手を下してはいない様ですね。菊屋の峰吉が語った近江屋に伝わる口碑に、佐々木が「この場合、申置く事があれば承ろう」と龍馬に言ったとあり、問答無用に斬りつけたとする他の多くの証言とは情景が異なります。
その佐々木が宿舎としていたのが松林寺でした。この寺は会津藩が本陣としていた金戒光明寺(黒谷)の末寺であり、その縁から佐々木が借り受ける事になった様ですね。見廻組は新選組とは違って、家族を京都に住まわせる事が隊士の条件になっていました。佐々木もまた、ここで妻と暮らしていた様ですね。
事件当夜、龍馬を討った一行は、この寺に集まって祝杯を上げています。彼等は当時の警察組織であり、彼等から見れば龍馬は伏見・寺田屋で捕り方を射殺した犯人でした。この日も殺人犯の捕縛の為に出動したのであり、龍馬を斬ったのは相手が抵抗して手に余った場合は殺しても良いという特権を行使したのだと言います。
その一方で、龍馬程の達人を斬ったと自慢している様な証言もあり、最初から斬る気だったとも受け取れます。彼等にすれば龍馬は幕府を追い詰めた憎むべき相手であり、単純な正義感の発露から事に及んだとも考えられます。実際の所はどうだったのでしょうね。
松林寺はまた、聚楽第の外堀の跡としても知られます。周囲よりも3m近く地盤が低くなっており、寺から出る時は石段を登り、門を潜ると出水通に続く緩い坂道を目にする事になります。佐々木もまた日々妻に見送られながら石段を登り、この坂道を見ていたのでしょうね。
何気ない景色に歴史が潜む、京都らしい町角の一つです。
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