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2009.09.06

龍馬伝~武市瑞山寓居跡~

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武市瑞山は通称半平太と呼ばれ、ドラマでもこの名で登場する様です。龍馬の遠縁にあたり、6歳違いながら仲が良く、あぎ、あざとあだ名で呼び合う間柄だったそうですね。

武市は郷士の中でも白札と呼ばれる上士に準じた身分で、藩主に目通りする権利を持っていました。龍馬達よりも藩主に近い分、意識に少し差があった様ですね。

文武に優れ、国元では剣術の道場を開き、中岡慎太郎、岡田以蔵などの門下生が居ました。さらに江戸に出て鏡心明智流の桃井春蔵の道場に通い、塾頭を務めるまでに至ります。この江戸において住谷寅之助、桂小五郎、久坂玄瑞らと交わる内に勤王思想に目覚めた様ですね。

武市は江戸で土佐勤皇党を結成し、土佐藩全体を勤皇化させる事を目指します。龍馬もまた連判状に9番目に署名しており、国元では最初の加盟者だった様ですね。この勤皇党には192名が参加し、土佐藩における大きな勢力となって行きました。

当時の土佐藩は執政の吉田東洋が実権を握っており、藩政の改革を推し進めていました。武市はこの東洋にも接触を図り、土佐の藩論を勤皇化させようとしたのですが、東洋はこれを書生論と一蹴し、公武合体派路線を変えようとしませんでした。そこで武市は、東洋の改革に不満を持つ守旧派と手を組み、東洋を暗殺する事で藩の実権を握ろうと画策します。この謀は見事に当たり、以後勤皇党が藩を主導する様になりました。

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文久2年8月、武市は藩主山内豊範を奉じて京に上ります。豊範は朝廷から国事周旋と京都警衛の勅命を拝し、ここに勤皇党の目標が成就したかに見えました。

武市は朝廷工作に奔走し、攘夷督促の勅使を江戸に送る事に成功、柳川左門という変名で自らも随行しました。そして留守居組から京都留守居加役に昇進しますが、より動きやすくするためでしょう、藩邸を出て四国屋丹虎の離れを借りて住む様になります。それがこの寓居跡ですね。武市はここで策謀を巡らし、多くの佐幕派の暗殺を手がけたとされています。その手足となったのが岡田以蔵、田中新兵衛などで、彼等は人斬りと呼ばれる様になります。

しかし、武市の絶頂期は長くは続きませんでした。8・18の政変によって京都から尊攘派の勢力が一掃されると、山内容堂は勤皇党の弾圧に乗り出します。国元では武市派の幹部が罷免され、武市もまた帰国命令を受けました。そのままおとなしく帰っては投獄の憂き目に遭うのは明白だったのですが、武市は長州への亡命の誘いも断り、藩命に従って帰国します。このあたりが、藩の枠を越えられなかった武市の限界と言われていますね。

果たして、武市は吉田東洋暗殺の嫌疑で他の幹部と共に獄に繋がれます。ただ、白札という身分故に、拷問を受ける事だけは免れた様ですね。武市達は1年半に渡って嫌疑を否認し続けますが、岡田以蔵が遂に自白し、死罪が確定してしまいます。

武市は、しかし、あくまで否認を続け、切腹にあたっては誰も成し遂げた事が無かったという三文字割腹と呼ばれる壮絶な最期を遂げて、武士としての意地を見せつけたと言われます。

武市は土佐の志士の中でも第一級の人物で、武市を死なせた事がその後の土佐の躍進を阻んだとも言われます。龍馬は早くに武市の唱える一藩勤皇に見切りを付けて袂を分かっていましたが、久坂玄瑞、高杉晋作などその後の龍馬にとって重要な人物に引き合わせてくれたのは武市でした。吉村寅太郎や中岡慎太郎もまた武市の門下生であり、土佐の維新史を語る上では欠かせない人物である事は確かです。

ただ、暗殺に手を染めすぎた観があり、龍馬の様な明るい魅力に欠けているのもまた事実でしょうね。


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