龍馬伝~高瀬川一之船入~
高瀬川沿いの木屋町通を歩いていると、数多くの石碑が建っている事に気付きます。そのほとんどが幕末史に係わるもので、ここが維新史の中心地の一つであった事を教えてくれます。
木屋町で数多くの事件が起きたのは、志士達がこの界隈に住んでいた事に起因します。
新選組や見廻組が結成される以前の京都の治安は、在京の諸藩が区域を決めて分担で受け持っていました。その中で木屋町は藩邸が並ぶ界隈だった訳ですが、この藩邸というのは各藩の領地の延長の様なもので、幕府の権限は及ばない一種の治外法権的な場所でした。この治外法権の及ぶ範囲が結構あいまいで、極端な話では藩邸に出入りする商人にまで適用される場合があった様です。しかも警備するのは諸藩の藩士ですから、下手に手を出しては藩同士の争いになりかねず、おのずと厳密な警備は出来ない状況にありました。志士達はこの警備の薄さに乗じて、木屋町界隈を住処とする様になったのですね。
また、土佐藩や長州藩といった尊攘派を保護する立場の藩邸があった事も大きかった様です。普段の連絡や会合を持つのに便利だし、何よりいざと言う時に逃げ込む事が出来ますしね。
そんな木屋町ですが、幕末の風情が残る場所はほとんど無いと言って良いでしょう。大半が歓楽街であり、変遷が大きすぎるからです。わずかにこの一之船入の界隈だけが、江戸時代の風景を残していると言えるでしょうか。
舟入とは、高瀬川沿いに設けられた港の様なもので、荷物の上げ下ろしや船の方向を転換するために、川から西側に向けて直角に掘られた掘割でした。今はこの一之船入しか残っていませんが、かつては9箇所設けられていました。海援隊の京都本部があった酢屋の前もこんな景色だったのでしょうね。
龍馬伝とのからみで言えば、望月亀弥太の最期の地が角倉邸の前であったとされています。池田屋事件に遭遇した望月は、手傷を負いながらも池田屋からの脱出に成功し、長州藩邸に助けを求めに走りました。しかし、幕府との全面戦争に発展する事を恐れた桂小五郎が入邸を拒否し、門前払いを喰わせます。失意の望月は北隣の角倉邸の前まで行き、そこで自害して果てたと言われます。
望月の死はそれだけでは収まらず、彼が神戸海軍操練所に属していた事から嫌疑が勝海舟にまで及び、海舟の軍艦奉行罷免、さらには繰練所の閉鎖にまで至ってしまいます。
角倉邸があったのが一之舟入の北側であり、現在の日本銀行京都支店が建つあたりでした。まあ門前と言いますから、正しくは河原町通側だったのでしょうけど、雰囲気としてはこちら側の方がありますね。
| 固定リンク
「龍馬伝」カテゴリの記事
- 龍馬伝48 ~龍の魂~(2010.11.28)
- 龍馬伝47 ~大政奉還~(2010.11.21)
- 龍馬伝46 ~土佐の大勝負~(2010.11.14)
- 龍馬伝 龍馬を殺したのは誰か5(2010.11.27)
- 龍馬伝45 ~龍馬の休日~(2010.11.07)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
町なかはいつでも行けると思って
こちらも近くまで行きながら
まだ行ったことが無いのですよA^^;
来年の桜の頃行ってみようかな?(*^_^*)
投稿: Milk | 2009.09.08 12:03
Milkさん、
そうですね、桜の頃に花を愛でながら高瀬川を遡ってみて下さい。
その頃には龍馬伝も佳境に入ってくるでしょうから、
沢山ある石碑を探しながら歩かれると良いと思いますよ。
桜と高瀬舟の組み合わせも絵になりそうですしね。
投稿: なおくん | 2009.09.08 20:49