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2009年9月

2009.09.26

龍馬伝 ~龍馬とおりょうが祝言を挙げた場所 金蔵寺跡~

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龍馬の妻と言えばおりょうですが、なしくずしに内縁関係になった様に言われ、内縁の妻、あるいは愛人と呼ばれる事が多いようです。しかし、おりょう自身の懐古談に依れば、二人はちゃんとした祝言を挙げた正式な夫婦でした。

おりょうの懐古談をまとめた「反魂香」という資料があり、そこには元治元年8月1日に、京都の金蔵寺において内祝言を挙げ、新枕をして幾千代までもと契りを交わしたと記されています。この日付については、他の資料から龍馬は神戸に居たと推定される事からかなり怪しいのですが、祝言自体は本人の言ですから、事実としてあったと見て良いのでしょう。

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金蔵寺とは青蓮院の塔頭の一つで、明治以前は三条白川の近くに建っていました。この寺の御本尊が米地蔵で、今は尊勝院に安置されています。また境内には庚申堂もあり、そこにあった三猿の像もまた尊勝院で見る事が出来ます。

おりょうの父親である楢崎将作は青蓮院宮(中川宮朝彦親王)御内の侍医を務めており、恐らくはその縁で金蔵寺の住職知足院とは旧知の仲であったのでしょう。おりょうの一家が離散した時、弟の太一郎がこの寺に預けられており、親類というものが無かったというおりょうの一家にとっては、頼れる存在であった事が伺われます。

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平成21年9月6日に、その金蔵寺の跡地と推定される東山ユースホステルの前に、「坂本龍馬 お龍 結婚式場跡」という石碑が建てられました。今までほとんど知られていなかった場所ですから、道行く人達は立ち止まって見入っていく事が多いです。これから龍馬伝が始まると、新しい名所として知られて行く事になるのでしょうね。

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ただ古図を見ると、厳密には金蔵寺があったのは三条通に面したこの場所ではなく、ユースホステルの裏手だった様です。そんなところに石碑を建てても誰も見に来ないという事で目立つ場所にしたのでしょうけど、後日の混乱の種になるのではないでしょうか。せめて、説明文に書いておけば良いと思うのですが何も書いていませんね。

たった一言、「この裏手にあたる」と加えるだけで、後日に偽造だとか文句を付けられないで済むと思うのですが、どんなものでしょうか。石碑を建ててくれるのは嬉しいのですが、わずかに配慮が欠けている様な気がします。

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2009.09.19

龍馬伝 ~佐々木只三郎寓居跡・松林寺~

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慶応3年11月15日、京都・近江屋にて龍馬は暗殺されました。その龍馬を襲った犯人は見廻組とする説が有力ですが、その一隊を率いていたのが見廻組与頭である佐々木只三郎だったと言われています。

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佐々木は会津の人で、26歳の時に旗本の佐々木家の養子となりました。文久3年には浪士隊を率いる取締並出役として上洛し、翌元治元年に見廻組与頭となっています。この間一度江戸に戻り、清河八郎を暗殺したとも言われています。

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龍馬暗殺の時はリーダー格ではありましたが、直接には手を下してはいない様ですね。菊屋の峰吉が語った近江屋に伝わる口碑に、佐々木が「この場合、申置く事があれば承ろう」と龍馬に言ったとあり、問答無用に斬りつけたとする他の多くの証言とは情景が異なります。

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その佐々木が宿舎としていたのが松林寺でした。この寺は会津藩が本陣としていた金戒光明寺(黒谷)の末寺であり、その縁から佐々木が借り受ける事になった様ですね。見廻組は新選組とは違って、家族を京都に住まわせる事が隊士の条件になっていました。佐々木もまた、ここで妻と暮らしていた様ですね。

事件当夜、龍馬を討った一行は、この寺に集まって祝杯を上げています。彼等は当時の警察組織であり、彼等から見れば龍馬は伏見・寺田屋で捕り方を射殺した犯人でした。この日も殺人犯の捕縛の為に出動したのであり、龍馬を斬ったのは相手が抵抗して手に余った場合は殺しても良いという特権を行使したのだと言います。

その一方で、龍馬程の達人を斬ったと自慢している様な証言もあり、最初から斬る気だったとも受け取れます。彼等にすれば龍馬は幕府を追い詰めた憎むべき相手であり、単純な正義感の発露から事に及んだとも考えられます。実際の所はどうだったのでしょうね。

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松林寺はまた、聚楽第の外堀の跡としても知られます。周囲よりも3m近く地盤が低くなっており、寺から出る時は石段を登り、門を潜ると出水通に続く緩い坂道を目にする事になります。佐々木もまた日々妻に見送られながら石段を登り、この坂道を見ていたのでしょうね。

何気ない景色に歴史が潜む、京都らしい町角の一つです。

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2009.09.13

天地人 ~島左近の墓 立本寺~

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いよいよ佳境を迎えた天地人、このドラマが始まると知った時から楽しみにしていたのが直江状でした。家康の挑発に真っ向から挑んだこの書状から関ヶ原の戦いが始まります。

その関ヶ原において、石田三成の家臣として勇名を馳せた武将が島左近でした。左近は大和の人で、初めは畠山氏、後に筒井氏仕えました。特に幼少の筒井順慶を支え、幾度の苦難をくぐり抜けて大和一国の主となさしめた事で名を上げます。順慶亡き後は豊臣秀長・秀保に仕えますが、大和豊臣家が断絶となった後は浪人となって、近江国に引きこもりました。

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その左近に石田三成が仕官の誘いを掛けます。初めは断っていた左近でしたが、4万石の所領のうち2万石を与えるという三成の熱意に打たれ、家臣になる事を承諾したと言います。名高い左近を得た三成は「治部少に過ぎたるものが二つあり  島の左近と佐和山の城」と謳われました。

関ヶ原においては石田隊を率いて勇戦しますが、小早川秀秋の裏切りにより西軍は総崩れとなます。左近は残った味方を引き連れて正面の敵軍に突撃し、遂には銃撃を受けて討ち死にしました。この時の奮戦ぶりは後々まで語り草となり、田中吉政をして「死兵を見た」と言わしめ、黒田隊の将兵は長く悪夢に苦しんだとも言われています。(以上Wikipediaより)

ところが左近の首は見つからっておらず、この事が左近生存説を産む事になります。左近は戦場から落ち延びて京都に入り、僧侶となって生き続けたと言われており、その証拠の一つが立本寺にあるこの墓とされます。

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その墓碑の裏面には寛永9年6月26日没とあり、関ヶ原の戦いから32年後に亡くなった事になりますね。さらにはこの墓に対応する位牌や過去帳もあって、ここだけを見れば確かに左近は立本寺で僧侶として生きていた事になります。

この墓は思っていたよりもずっと立派で、とても徳川に逆らった人の墓には見えないですね。左近の名声を慕う人達の手によって建てられたものと思われますが、それとも僧侶としての左近が素晴らしい人格者であった故なのでしょうか。

左近の墓は対馬にもあり、ここでも出身地(対馬で生まれたという説もあります)である対馬まで落ち延びたと言われていますね。なお、奈良には関ヶ原の戦いのあった慶長5年9月15日と刻まれた墓があり、これが正規の墓とされている様です。

左近の最後は、今もって謎として続いている様ですね。


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2009.09.12

龍馬伝~おりょう 実家跡~

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龍馬の妻と言えばおりょう。龍馬が襲われた寺田屋事件の時、機転を利かせて危機を救った事で知られていますよね。そのおりょうの実家があった場所が柳馬場通三条南の地とされています。

おりょうの父は楢崎将作という医者でした。曾祖父の代まで長州藩士だったのですが、何か落ち度があったらしく永のお暇となり、京都に流れ着いたのでした。そしていつしか医者となり、孫の将作まで3代医者として続いたのです。

将作の名と住所は洛医人名録という資料に見る事が出きるのですが、実はもう少し古い天保医監という資料では住所が富小路六角南となっています。おりょうが生まれたのは天保12年と推定されており、生家は富小路六角南にあって、その後柳馬場通三条南に引っ越し、そこで育ったという事になるのでしょうか。

将作は青蓮院宮(中川宮朝彦親王)御内の侍医を務めていました。その関係からなのでしょうか、梅田雲浜、梁川星巌、頼幹三郎などといった草創期の志士達の同士となり、家を彼等の隠れ家として提供するなどしていた様です。しかし、その事が祟って安政の大獄に連座して捕縛されてしまいました。その一年後には釈放されたのですが、獄で身体を壊したのか、三年後に病死してしまいます。

残された家族は、将作の妻である貞とおりょうを頭とした5人の子供でした。龍馬はそれぞれが身の振り場に困っている事を知り、幸におりょうを妻に貰い受けたいと申し出たとされますが、そのあたりのことはまた頁を改めて紹介したいと思っています。

冒頭の写真の中でタクシーが写っていますが、その左手のビルが実家跡と推定されており、石碑が建っているそうです。というのは、この写真を撮りに行った後で知った事であり、この時は確認していないのです。また次に機会があれば、石碑を見てこようと思っているところです。


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2009.09.09

龍馬伝~鳥新~

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龍馬が暗殺された日に、夜食として食べようとしていたのが軍鶏鍋でした。たまたま部屋に居合わせた菊屋の峰吉に頼んで買いに行かせたのですが、その店が鳥新だったと言われています。

現在の鳥新は縄手通にありますが、当時は四条小橋の東南角にあったとされます。峰吉が来た時にはあいにく売り切れたところで、新しく準備が出来るまで30分程待たされました。そして鶏肉を持って近江屋に戻った時は、惨劇が終わった後でした。

峰吉が最初に見たのは、刀を抜いて二階の様子を伺っている島田庄作という土佐藩士でした。彼は近江屋新助の注進を受けて、土佐藩邸から駆けつけたのです。二階で龍馬がやられたらしいという島田の言葉に、峰吉はそん事はあるはずがないと言って階段を上ったと言います。随分と度胸が良いと思いますが、ついさっきまで平穏に過ごしていた部屋ですから、平然としていられるのも当然と言うべきでしょうか。

しかし、二階の上がり口で藤吉が倒れているのを見つけると、大声を上げて島田を呼びました。そして、二人で部屋の中を見渡し、倒れている龍馬を見つけたのです。

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峰吉が軍鶏を買いに行かなかったらどうなっていたでしょうね。おそらく、藤吉と同じように巻き添えになっていたか、あるいは標的が3人になった事で龍馬達が反撃する余地が出来ていたか。また、鶏肉が売り切れておらず、すぐに帰って来ていたとしたら、間違いなく目撃者として殺されていた事でしょう。このあたり、人の運命というものは、どこでどう転ぶか判らない典型という気がします。

鳥新は、水炊きやすき焼きの本来の鳥新と、やき鳥のとり新とに分かれています。鳥新の予算は一人1万円ほどですが、とり新の方はやき鳥1本525円からとかなりリーズナブルになりますね。そして、昼限定で親子丼が食べられます。この親子丼を食べてみたいのですが、どういうものかチャンスが無いのですよね。今度機会があれば、レポートしたと思っています。

なお、峰吉が行った店は現在の鳥彌三ではないかという説もあるようですが、本人が鳥新と証言している事から、それは無いと思っています。店名が変わっているのなら別なのですけどね。

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2009.09.08

龍馬伝~長州藩邸跡~

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土佐藩邸と並んで幕末における尊王攘夷派の拠点となったのが長州京都藩邸でした。

京都藩邸は、土佐藩邸跡の記事でも書いた様に、西陣織など京都の文物を買い込んだり国元の物産を京都で売るといった経済的な役割、あるいは、京都の有職故実や流行ものを調べるといった文化的な役割を持つ出先機関でした。

幕末になると次第に京都が政治の中心となり、この藩邸は長州藩の政略の一大拠点として急速にその存在意義を改めます。特に文久2年から3年にかけては、京都政界は尊攘派の独壇場でした。その中心となっていたのが長州藩で、久坂玄瑞、桂小五郎達が志士達の指導者として辣腕を振るっていました。

ところが八・一八の政変で情勢が一変し、長州藩と尊攘派は京都政界から一掃されてしまいます。残された長州藩邸は京都における尊攘派の孤塁となり、唯一桂小五郎だけが京都留守居役として長州藩の復権の為に奔走を続けました。しかし、蛤御門の変が勃発して長州藩は敗北、藩邸も戦火に包まれてその使命を終えました。そして、桂は長い潜伏生活を余儀なくされてしまいます。

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長州藩京都藩邸は、今の京都ホテルオークラの位置にありました。一之舟入のすぐ南にあり、角倉邸と掘割を挟んで向かい合っていた様ですね。南北二つの屋敷があり、北屋敷は表口39間(約70m)、裏行31間(約56m)、南屋敷が表口30間(約54m)、裏行8間(約14m)の規模を持っていたそうです。

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蛤御門の変で焼けた後は長く空き地になっていましたが、明治以後は官地となり、勧業場として整備されました。勧業場とは産業振興のための官製の施設であり、洋館二階建ての本館を中心に、舎密局・製糸場・織殿・染殿・集産場・欧学舎・製靴場・栽培試験場などが次々と建てられました。

明治22年になると、勧業場もその使命を終えたとして廃止となり、跡地には常磐ホテルが建てられて営業を始めます。そして、京都ホテルを経て現在の京都ホテルオークラに至っている訳ですね。

ここが長州藩邸であった事を示す石碑は南側の植え込みの中にあり、しかもホテル側を向いて立っているので、ちょっと判りにくいです。冒頭の桂の銅像が河原町通に面して目立っているのに比べて対照的ですね。

龍馬がこの藩邸に立ち寄った事があるかと言えば、ちょっと判りません。龍馬が京都で活躍するのは主として蛤御門の変の後ですからね、多分無かったのではないでしょうか。記録の上にも無いように思うのですが、どんなものなのでしょう。ドラマでは桂小五郎との関係で、少しは出てくるかも、ですね。

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2009.09.07

龍馬伝~高瀬川一之船入~

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高瀬川沿いの木屋町通を歩いていると、数多くの石碑が建っている事に気付きます。そのほとんどが幕末史に係わるもので、ここが維新史の中心地の一つであった事を教えてくれます。

木屋町で数多くの事件が起きたのは、志士達がこの界隈に住んでいた事に起因します。

新選組や見廻組が結成される以前の京都の治安は、在京の諸藩が区域を決めて分担で受け持っていました。その中で木屋町は藩邸が並ぶ界隈だった訳ですが、この藩邸というのは各藩の領地の延長の様なもので、幕府の権限は及ばない一種の治外法権的な場所でした。この治外法権の及ぶ範囲が結構あいまいで、極端な話では藩邸に出入りする商人にまで適用される場合があった様です。しかも警備するのは諸藩の藩士ですから、下手に手を出しては藩同士の争いになりかねず、おのずと厳密な警備は出来ない状況にありました。志士達はこの警備の薄さに乗じて、木屋町界隈を住処とする様になったのですね。

また、土佐藩や長州藩といった尊攘派を保護する立場の藩邸があった事も大きかった様です。普段の連絡や会合を持つのに便利だし、何よりいざと言う時に逃げ込む事が出来ますしね。

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そんな木屋町ですが、幕末の風情が残る場所はほとんど無いと言って良いでしょう。大半が歓楽街であり、変遷が大きすぎるからです。わずかにこの一之船入の界隈だけが、江戸時代の風景を残していると言えるでしょうか。

舟入とは、高瀬川沿いに設けられた港の様なもので、荷物の上げ下ろしや船の方向を転換するために、川から西側に向けて直角に掘られた掘割でした。今はこの一之船入しか残っていませんが、かつては9箇所設けられていました。海援隊の京都本部があった酢屋の前もこんな景色だったのでしょうね。

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龍馬伝とのからみで言えば、望月亀弥太の最期の地が角倉邸の前であったとされています。池田屋事件に遭遇した望月は、手傷を負いながらも池田屋からの脱出に成功し、長州藩邸に助けを求めに走りました。しかし、幕府との全面戦争に発展する事を恐れた桂小五郎が入邸を拒否し、門前払いを喰わせます。失意の望月は北隣の角倉邸の前まで行き、そこで自害して果てたと言われます。

望月の死はそれだけでは収まらず、彼が神戸海軍操練所に属していた事から嫌疑が勝海舟にまで及び、海舟の軍艦奉行罷免、さらには繰練所の閉鎖にまで至ってしまいます。

角倉邸があったのが一之舟入の北側であり、現在の日本銀行京都支店が建つあたりでした。まあ門前と言いますから、正しくは河原町通側だったのでしょうけど、雰囲気としてはこちら側の方がありますね。


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2009.09.06

龍馬伝~武市瑞山寓居跡~

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武市瑞山は通称半平太と呼ばれ、ドラマでもこの名で登場する様です。龍馬の遠縁にあたり、6歳違いながら仲が良く、あぎ、あざとあだ名で呼び合う間柄だったそうですね。

武市は郷士の中でも白札と呼ばれる上士に準じた身分で、藩主に目通りする権利を持っていました。龍馬達よりも藩主に近い分、意識に少し差があった様ですね。

文武に優れ、国元では剣術の道場を開き、中岡慎太郎、岡田以蔵などの門下生が居ました。さらに江戸に出て鏡心明智流の桃井春蔵の道場に通い、塾頭を務めるまでに至ります。この江戸において住谷寅之助、桂小五郎、久坂玄瑞らと交わる内に勤王思想に目覚めた様ですね。

武市は江戸で土佐勤皇党を結成し、土佐藩全体を勤皇化させる事を目指します。龍馬もまた連判状に9番目に署名しており、国元では最初の加盟者だった様ですね。この勤皇党には192名が参加し、土佐藩における大きな勢力となって行きました。

当時の土佐藩は執政の吉田東洋が実権を握っており、藩政の改革を推し進めていました。武市はこの東洋にも接触を図り、土佐の藩論を勤皇化させようとしたのですが、東洋はこれを書生論と一蹴し、公武合体派路線を変えようとしませんでした。そこで武市は、東洋の改革に不満を持つ守旧派と手を組み、東洋を暗殺する事で藩の実権を握ろうと画策します。この謀は見事に当たり、以後勤皇党が藩を主導する様になりました。

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文久2年8月、武市は藩主山内豊範を奉じて京に上ります。豊範は朝廷から国事周旋と京都警衛の勅命を拝し、ここに勤皇党の目標が成就したかに見えました。

武市は朝廷工作に奔走し、攘夷督促の勅使を江戸に送る事に成功、柳川左門という変名で自らも随行しました。そして留守居組から京都留守居加役に昇進しますが、より動きやすくするためでしょう、藩邸を出て四国屋丹虎の離れを借りて住む様になります。それがこの寓居跡ですね。武市はここで策謀を巡らし、多くの佐幕派の暗殺を手がけたとされています。その手足となったのが岡田以蔵、田中新兵衛などで、彼等は人斬りと呼ばれる様になります。

しかし、武市の絶頂期は長くは続きませんでした。8・18の政変によって京都から尊攘派の勢力が一掃されると、山内容堂は勤皇党の弾圧に乗り出します。国元では武市派の幹部が罷免され、武市もまた帰国命令を受けました。そのままおとなしく帰っては投獄の憂き目に遭うのは明白だったのですが、武市は長州への亡命の誘いも断り、藩命に従って帰国します。このあたりが、藩の枠を越えられなかった武市の限界と言われていますね。

果たして、武市は吉田東洋暗殺の嫌疑で他の幹部と共に獄に繋がれます。ただ、白札という身分故に、拷問を受ける事だけは免れた様ですね。武市達は1年半に渡って嫌疑を否認し続けますが、岡田以蔵が遂に自白し、死罪が確定してしまいます。

武市は、しかし、あくまで否認を続け、切腹にあたっては誰も成し遂げた事が無かったという三文字割腹と呼ばれる壮絶な最期を遂げて、武士としての意地を見せつけたと言われます。

武市は土佐の志士の中でも第一級の人物で、武市を死なせた事がその後の土佐の躍進を阻んだとも言われます。龍馬は早くに武市の唱える一藩勤皇に見切りを付けて袂を分かっていましたが、久坂玄瑞、高杉晋作などその後の龍馬にとって重要な人物に引き合わせてくれたのは武市でした。吉村寅太郎や中岡慎太郎もまた武市の門下生であり、土佐の維新史を語る上では欠かせない人物である事は確かです。

ただ、暗殺に手を染めすぎた観があり、龍馬の様な明るい魅力に欠けているのもまた事実でしょうね。


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2009.09.05

龍馬伝~吉村寅太郎寓居跡~

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土佐四天王の一人、吉村寅太郎の寓居跡です。木屋町三条を上がったところにあって、師であり、同志でもある武市半平太の隣に住んでいました。

吉村は土佐国高岡郡の庄屋の子として生まれ、長じて武市半平太に師事して影響を受けました。後に武市の結成した土佐勤王党にも加わっています。

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1862年(文久2年)2月に武市の命を受けて萩に行って久坂玄瑞と会い、さらに九州に渡ってそこで平野国臣から京都挙兵計画を聞きます。島津久光の卒兵上洛に合わせて諸国の志士達が倒幕の軍を上げるという壮挙を知った吉村は、急ぎ土佐に戻りました。そして、武市に会ってこの挙に参加する様に説得したのですが、土佐一藩の勤皇化を目指していた武市は応じず、やむなく吉村は沢村惣之丞と共に脱藩して馬関へ向かいました。ここで沢村を一度土佐に帰して仲間を募らせたのですが、これに応じたのは結局龍馬一人だけでした。つまりは、龍馬を脱藩に踏み切らせたのは吉村だったという事になりますね。

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しかし、期待していた京都挙兵計画は当の島津久光に倒幕の意思は無く、かえって寺田屋に集結していた浪士の中の薩摩藩士を討ち取るという挙に出、挙兵計画を潰してしまいます(寺田屋事件)。吉村はこのあおりを受けて国元へ帰され、牢に入れられてしまいました。なお、龍馬は吉村に遅れた事が幸いし、事件に巻き込まれることなく、江戸に向かっています。

吉村が帰った土佐では、執政の吉田東洋を暗殺した武市が実権を握っていました。吉村は入牢後8ヶ月で許されると再び京都へ上り、武市の居る丹虎の隣に居を構え、諸藩の志士と交わって国事に奔走する様になります。

1863年(文久3年)8月になると、天皇の大和御幸を受けて倒幕の兵を大和で挙げることを計画し、松本奎堂、藤本鉄石らとともに尊攘派公卿の中山忠光を擁して天誅組を結成しました。そして、8月17日に天誅組志士30人は、五條代官所を襲い五條新政府の設立を宣言、倒幕の旗を揚げます。

ところが、翌18日に八・一八の政変が勃発します。一夜にして尊攘派の勢力が朝廷から一掃され、大和行幸も取りやめになってしまったのでした。これにより、天誅組は大和の地で孤立してしまう事になります。しかし、もはや勢いは止まらず、8月26日に十津川郷士の助けを得て高取城へ進攻しました。しかし、城の守りは堅く敗走。一旦は十津川郷へ逃れますが、十津川郷士の離反などを経て翌9月に東吉野村で天誅組は壊滅、吉村寅太郎も京都へ向かう途中発見されて、戦死しています。 享年27歳。

こうしてざっとその生涯を追ってみると、何とも生き急いだ人という印象を受けます。その行動力と構想力は素晴らしいものがありますが、残念ながら時機を見切る力が足りていなかった様です。このあたりが龍馬との差でしょうか。

もう少し、長く生きていて欲しかった人だという気がしますね。ドラマの相関図にはその名が無く、出番は無いのかも知れませんが、龍馬に影響を与えた人物として、覚えておかなくてはならない一人だと思います。

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2009.09.04

龍馬伝~菊屋跡~

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近江屋で龍馬が遭難した時、一緒に居た中岡慎太郎もまた凶刃に倒れました。享年30歳、龍馬よりも3つ年下でした。

中岡は龍馬ほどは事績を知られていませんが、その履歴を見ると勤皇の志士として素晴らしい活躍をした人であった事が判ります。

出身は安芸郡北川郷の庄屋ですが、土佐勤皇党に属す一方で山内容堂にその力量を認められ、徒目付に抜擢を受けています。しかし、勤皇党に対する弾圧が始まると脱藩して長州に奔り、その後は蛤御門の変や四境戦争に従軍するなど、主として長州の陣営の一員として活動します。

その間、龍馬と共に薩長同盟をあっせんし、さらには土佐と薩摩を結び付ける薩土同盟を実現するなど、幕末史を動かすほどの活躍を見せています。そして、近江屋で遭難する頃には土佐陸援隊を組織し、龍馬の海援隊と共に土佐藩を支える一翼を担う程になっていました。

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ざっと経歴を見ただけでも一流の志士である事が判り、人によっては龍馬以上という評価も与えられる事がある中岡ですが、どういう訳か世間にはほとんど知られていません。近江屋では龍馬と一緒に居たばかりに巻き添えに遭ったのですが、維新後も生かしておきたかった人物の一人であると思っています。中岡が生きていれば、明治新政府ももう少し違った方向性を持っていた様な気すらしますね。

その中岡が京都で住んでいたのが、土佐藩出入りの古本商であった菊屋でした。四条河原町を上がってすぐの東側にあり、近江屋ともごく近くの位置関係になります。この家の息子である峰吉は龍馬と中岡にかわいがられており、暗殺のあった当夜も二人と一緒に居ました。暗殺団が来る直前に龍馬の頼みで鶏肉を買いに出掛けた事で難を逃れたのですが、事件後の現場を見た最初の人間にもなっています。

その菊屋は今はあぶらとり紙の専門店「象」となり、河原町通に面して洒落た店構えになっています。ただ、完全に女性向きの店であり、私の様なおじさんには居心地は良いとは言えないですね。少し店内をレポートしようとしたのですが、あまりに場違いであるため、早々に退散しました。でも、品揃えは如何にも京都風であり、女性にはお勧めの店だと思いますよ。


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2009.09.03

龍馬伝~近江屋跡~

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龍馬終焉の地、それが近江屋跡です。龍馬は慶応3年11月15日の夜に刺客に襲われ、波乱の生涯を閉じました。奇しくもこの日が33回目の誕生日に当たっていました。

近江屋は土佐藩御用達の醤油商であり、河原町通を挟んで土佐藩邸のすぐ西隣にありました。龍馬はこの頃脱藩の罪は許されていたのですが、どういう訳か藩邸に入る事を許されず、身の危険を感じながらも酢屋あるいは近江屋といった商家に身を置いていました。

このあたり、後藤象二郎が大阪藩邸の役人について「何とも使い難くて困る」とこぼしていたという資料があり、京都藩邸も似た様な事情にあって、四角四面な法解釈によって龍馬の入邸を拒んでいたのではないかと想像されます。

ならばと、薩摩藩士の吉井幸輔から薩摩藩邸に入る様に薦められたのですが、浪人の身であった頃ならいざ知らず、土佐藩士の身分に戻り、かつ土佐藩の支援を受ける海援隊を率いる今となっては嫌味にしかならないと言って、この申し出を断っています。

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龍馬が酢屋を出て近江屋に移った時期については諸説があり、暗殺の一月前の10月14日頃とする説、11月5日頃とする説、3日前の11月12日とする説が混在しています。いずれにしても、幕吏にその所在を知られる事を恐れていた様ですが、その割には同志が頻繁に出入りし、かつ菊屋の峰吉など近所の者を使いに出すなど、およそ潜伏とは言い難い状況にありました。本人も白昼に堂々と出歩いていた節があり、このあたりかなりガードが甘かったと言うより無い様ですね。最後は見廻組に的確に把握され、襲撃から逃れる事は出来ませんでした。

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龍馬の暗殺についてはドラマの進行に合わせて詳細を書くつもりですが、実行犯については京都見廻組とする説が有力です。その見廻組の裏で糸を引いていた人物については諸説があって面白いのですが、龍馬伝ではどのように描かれるのでしょうね。

近江屋跡は河原町通蛸薬師を少し下がった西側にあり、京都でも最もにぎやかな場所の一角になります。以前は旅行社だったのですが、いつの間にかコンビニに変わっていました。石碑の後ろに立て札が新調され、かつ小さな囲いも出来ており、前に比べて整った感じがしますね。(少し追加です。コメント欄で指摘を頂いた様に、近江屋があった場所は石碑のあるコンビニではなく、その南隣という説があります。その理由は縁起が悪いという事で、元の持ち主が嫌がったからの様ですね。ただ、私としては確証を持っている訳ではないので、ここでは紹介するたげに止めておきます。)

調べてみると地元商店街によって整備されたそうで、今年の6月30日に除幕式があったそうです。やはり龍馬伝を意識しての事なのでしょうか。この写真を撮った時には、私の他には誰も注目する人は居なかったのですが、来年の今頃はきっと大勢の人で賑わっている事でしょうね。

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2009.09.02

龍馬伝~土佐稲荷・岬神社~

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土佐藩邸跡には石碑の他は何も残っていないのですが、唯一当時を偲ばせるものがこの土佐稲荷・岬神社です。旧立誠小学校の北側にあり、雑然とした町並みの中で異彩を放っています。

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社伝に拠れば、この神社は1348年(貞和4年)に創建されたもので、当初は鴨川西寄りの中洲の岬に祠として建てられました。岬神社という名称は、その成り立ちから付けられたものなのでしょうね。江戸時代の初めに土佐藩邸が建てられた時に藩邸内に遷座され、通称「土佐稲荷・岬神社」と呼ばれる様になりました。

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藩邸内に祀られたのですから屋敷の守り神となった訳ですが、元々が地域の産土神として崇敬されていたものですから、近在の者が敷地を通り抜けて参拝する事が許されていたそうです。規則に煩い藩邸としては、異例の措置だったのでしょうね。

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明治になって藩邸が売却され、この神社も一時下大阪町(旧立誠小学校の南側)に移されたのですが、やはり土佐藩という世話役を失ったためでしょう、著しく衰えてしまった様ですね。その様を憂いた近江屋の初代井口新助(龍馬が暗殺された商家の主人)が旧土佐用人邸を買い取り、明治20年に遷座させました。そして、大正2年には近在の有志の募金によって社殿が建てられ、現在に至っているそうです。

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今では龍馬と縁のある神社として、龍馬ファンの参拝が絶えない様ですね。ただ、境内に入ってぎょっとなってしまったのがこの像で、龍馬と繋がりを持ちたいのか、刻んでかけらを持ち帰る人が多く居る様です。あまりの痛々しさに目を背けたくなりますね。本当に龍馬を慕っているならこんな事は出来ないと思うのですが、ファン心理というのは私の理解の外に有るものなのかしらん?

また、ずっと以前には土佐四天王(龍馬、中岡慎太郎、武市半平太、吉村寅太郎)の像もここにあったと思うのですが、今は近くのビルに移されている様ですね。また今度在りかを確かめてこようと思っています。

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2009.09.01

龍馬伝~土佐藩邸跡~

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酢屋から高瀬川沿いに300m程南に下がったところに土佐藩邸跡があります。龍馬の母藩の京都における拠点として、文久の頃は武市瑞山が辣腕を振るい、その後は中岡慎太郎や後藤象二郎が幕末の政局の中で活躍しました。脱藩と帰藩を繰り返していた龍馬はこの藩邸には入れなかった様ですが、それでも京都における寓居である酢屋や近江屋は藩邸の近くにあり、いざと言う時にはここに逃げ込む用意をしていた様です。

現地に立つ説明書きに拠れば、藩邸が出来たのは江戸時代初期の事で、現在の旧立誠小学校のあたりから河原町通にかけての一帯を占めていました。1690年(元禄3年)には京都藩邸の守るべき法律が詳しく定められています。

土佐藩に限りませんが、京都藩邸は京都における文物の流行を調べて国元に伝え、また国元の物産を売り捌くための連絡事務所でした。藩邸の責任者として京都留守居役が詰め、町人の御用掛が指名されて各種の連絡事務に当たっていました。

河原町通だけでなく高瀬川に面しても門が開かれていて、高瀬川には土佐橋が架かっていたそうです。ちなみに、高瀬川沿いには各藩の藩邸が多く軒を連ねて居たのですが、これは国元の物産を運び込む為には舟運が必要だった事に依ります。

幕末に至って、図らずも京都が政局の中心となったため、藩邸は当初の目的とは違った役割を持つ様になります。すなわち京都における政庁であり、軍事拠点となって行ったのです。

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文久3年2月6日に、前土佐藩主山内容堂が藩邸に入ったのですが、この時裏門の橋の上に唐橋村惣助の首が置かれていました。惣助とは千種家の領地を預かる庄屋で、千種家に出入りして奸謀を働いたという科で天誅に遭ったのでした。千種家の当主である有文は、和宮降嫁に与したという事で、尊攘派に睨まれていたのですね。

これはまた公武合体派と目される容堂への恫喝だったのですが、容堂は「首を献じられても酒の肴にもならない、無益な殺生を哀れむ」と言って動じなかったと言います。さすがに鯨海酔候と自称する容堂だけの事はありますが、8・18の政変で過激攘夷派が一掃されるまでは京都はこうしたテロが横行する巷でした。その黒幕の一人が、他ならぬ土佐藩京都留守居役の武市瑞山だった訳で、色々な意味でこの藩邸が幕末の京都の中心の一つであった事は間違いありません。

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