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2009年8月

2009.08.31

龍馬伝 ~海援隊京都本部跡 酢屋~ 

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2010年の大河ドラマは龍馬伝ですね。その龍馬と言えば司馬良太郎氏の「龍馬がゆく」で描かれた人物像が強烈で、ほぼ史実であるかのような受け取り方をされています。しかし、今回は岩崎弥太郎の目を通した新しい龍馬像を描くと言われており、どんなドラマになるか今から楽しみなのですが、当ねこづらどきでも久々に京都が舞台となる大河ドラマとなるため、出来るだけ追いかけてみようと思っています。

そこで少し早いのですが、京都における龍馬の足跡を追ってみました。まずは木屋町界隈から始めましょうか。

幕末史において龍馬は、薩長同盟の締結、大政奉還の実現、五箇条の御誓文の元となった船中八策の起草など様々な足跡を残していますが、彼個人について言えば海援隊の創設が最も大きな出来事だった事でしょう。極端に言えば、海援隊をやりたいが為に、薩長同盟や大政奉還を推し進めたとも受け取れるのです。

その海援隊の京都における拠点となっていたのが、河原町三条下がる車道にある酢屋でした。酢屋とは1723年(享保8年)に創業された材木業を営む商家で、幕末期には高瀬川における材木運送権を独占していました。海援隊が京都で商機を掴もうと思えば、酢屋の様な商家の力を借りるのが一番の近道だった事でしょうね。当主の六代目嘉兵衛もまた龍馬の活動に理解を示し、力を貸していたとの事です。

写真は現在の酢屋で、龍馬は左上の出格子窓がある部屋を借りて住まいしていたそうです。残念ながらこの建物は当時そのままの姿ではなく、一度大掛かりに改装されてはいますが、幕末当時の面影を引き継いでいると言われます。

酢屋の南側は車道を隔てて高瀬川の舟入になっており、龍馬は部屋からこの舟入に向けてピストルの試し打ちをしたという伝承が残っています。この部屋にはまた陸奥陽之助や長岡謙吉などといった海援隊の面々も出入りしていたそうですね。今度の龍馬伝においては、かなり重要な舞台となるのではないかしらん?

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酢屋の前の道は車道と呼ばれますが、文字通り牛車が通るための道でした。これは三条大橋を牛車が渡るとすぐに痛んでしまう為の措置で、荷物を積んだ車は一つ南の車道を通り、鴨川は川の中を横切って渡っていたそうです。写真の右手に河原に降りる坂道がありますが、これがまさに牛車が通っていた道の名残と言われています。きっと対岸にもあったのでしょうけど、京阪電車が出来た時に消えてしまったのでしょうね。

それにしても、わざわざ一本の道を作ってしまうとは、当時の流通もかなり盛んであった事を伺わせるエピソードですね。その車道は今では通称「龍馬通」と呼ばれており、来年はさらに注目を集める事でしょう。

なお、酢屋の2階は龍馬関係の資料を展示したギャラリーとなっており、入館料500円を払えば中に入る事が出来ます。

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2009.08.17

大文字送り火2009 ~送り火~

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今年の送り火はどこで見ようかと考えていたのですが、以前から気になっていた神楽岡に行く事にしました。ここは大文字の真向かいにあたりポイントが沢山ありそうな事、真如堂があるので時間が来るまでのんびりと過ごせる事がその理由です。

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これが明るい内に確認した、真如堂境内から見える大文字です。御堂とのからみが良い感じでしょう?ただ本番では少し前に行きすぎて、大の字の下の方が切れてしまいました。

まずは、大文字の点火の様子をご覧下さい。(音声は消してありますので、故障ではありませんよ。)

動画はアップできる容量の関係で2つに分けています。こちらは音声入りで、最後の方に聞こえるお寺の鐘が風情を醸し出してくれています。

ここに来るのは主として近所の人達の様ですが、私の様な遠来の観客も半分くらいは居たようです。混雑すると言う程でも無かったのですが、点火時には結構な人数にはなっていました。

ところで、今年は初めて護摩木を奉納しましたが、たったそれだけの事で送り火を見る気持ちは随分と変わるものですね。ただの観客から当事者になったと言うのは少し大げさですが、いつもの年よりも思い入れを持って、送り火を見る事が出来ましたよ。

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こちらは、真如堂から出て神楽岡の一角から見た大文字です。ほとんど角度が変わらないので、真如堂より少しは見えるかなといった程度ですね。同じ神楽岡でも北の方に行けば、もっと真正面からの大文字が見えたはずですよ。

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真如堂の東側の住宅街から見た法の字です。これが一番綺麗に見えましたね。ただ、三脚の設定の仕方が悪かったためにぶれた写真ばかりになってしまい、まともに撮れたのはこれ一枚きりでした。ここも近所の人ばかりといった様子で、のんびりとした雰囲気でしたよ。

以前は真如堂の境内の北辺でも楽に見えたのですが、今は宅地開発が行われて目隠しの塀が出来たので駄目になってしまいました。それでも塀の隙間から僅かに見えていましたけどね、とてもお薦めは出来ません。

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急いで真如堂に戻って、鳥居形を探します。鐘楼のところから見えると聞いていましたが、確かに見えました。ただし、ほんの豆粒ほどの大きさですけどね。200㎜の望遠で撮って、真ん中だけをトリミングしたのでこの程度になっていますが、ぱっと見には町の明かりと間違えて、見落としてしまいそうなほど小さな火です。

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そして、最後は左大文字です。実は墓地の通路から撮っているという、ちょっと罰当たりな写真ですね。心の中で謝りながら撮らせてもらいました。これは見た目にも大の字が判るという程度には見えました。タイミングが合えば点火の様子を動画で撮るつもりだったのですが、ちょっとバタバタとしていたのでとても無理でしたね。

初めて行った神楽岡は、宝探しをしている様な感覚でちょっと面白かったです。でも、綺麗に見えるのは大と法くらいなもので、妙と舟形は全く見えません。鳥居形は、とりあえず見えるというだけですしね。それに足の便が悪いので、やはり近くの人向けのポイントと言うべきなのでしょう。

またここは少人数で、のんびりとした雰囲気を壊さない程度に楽しませて貰うには良いところですね。でも、生活通路が主となるので、団体で押し寄せるには全く向きません。大勢で見るなら、やはり御所か加茂川堤防が向いているでしょう。

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2009.08.16

大文字送り火2009 ~護摩木~

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送り火は山上にしつらえられた火床で護摩木が燃やされるわけですが、各山ではその護摩木を奉納する事が出来ます(ただし、妙法を除く)。我が家でも、今年初めて大文字の護摩木の奉納に行ってきました。

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護摩木の受付は、銀閣寺の門前にて行われています。と言っても受け付けているのは保存会の方達で、銀閣寺は場所を提供しているだけなのですけどね。(受付時間15日正午~20:00ごろ、16日6:00~15:00ごろ)

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護摩木には、きちんと形が整えられた「護摩木」と「松割木」の2種類があります。なぜか、手間が掛かっていないはずの松割木の方が高いのですが、理由は聞いても判らなかったです。で、我が家は何となく面白そうな松割木の方にしました。

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護摩木に書く内容は、先祖の供養から家内安全まで何でも良い様ですね。ただ、松割木の荒れた表面に筆で書くのは至難の業で、書いた本人も良く読めないという有様でした。まあ、気は心という事で許して貰える事でしょう。

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送り火の世話をされるのが隣の浄土院なのですね。こちらでも護摩木の受付はされていて、2千円からとなっています。保存会に比べて高いのは、寺での供養料込みになっているからの様ですね。どちらも、大文字で焚かれる事には変わりはないそうです。

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参道の民家で見かけた提灯です。どうやら地元では、弘法大師が始めたという説を採っている様ですね。そして、奥に見えている白い包みが送り火の消し炭です。縁起物として、こうして玄関に飾っておくのですね。

さて、今年は護摩木も奉納した事だし、いつもの年よりもいっそう思い入れを持って送り火を見る事が出来そうです。

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2009.08.15

大文字送り火2009 消えた送り火

これまで紹介して来た様に、今は五つの山があって五山の送り火と称していますが、江戸時代末期までは全部で10の山で送り火が灯されていました。5という数字は特別な意味を持つ事が多いのですが、大文字に関しては偶然だったという訳ですね。

今では消えてしまった送り火と場所は、次の5箇所です。

「い」の字             市原野
「一」の字             鳴滝
「蛇」                北嵯峨
「長刀」               観空寺村
「竹の先に鈴(竿の先に鈴)」  静原、修学院、西山(松尾山)のいずれか

市原は京都の北部、貴船神社の手前あたりですね。方角として、妙と船形の間に見えたのでしょうか。でも、結構な山の中になりますから、相当高い位置でないと市内からは見えなかったんじゃないかな。

鳴滝は仁和寺の西側ですね。左大文字のさらに左側に見えた事でしょう。

北嵯峨と言うのは、大覚寺の裏山あたりだったらしいですね。鳥居形よりも見やすいかも知れませんが、市内から見るにはあまり良いロケーションでは無かった様な気もします。昔だったら見えたのかな。

観空寺村は大覚寺の西、清涼寺の北側あたりに観空寺という寺と地名が残っています。位置的に蛇や鳥居形と重複する気がしますが、さらに山奥の高尾あたりだったのではないかという説もありますね。

「竹の先に鈴」については、諸説があって場所が特定出来ません。この送り火は大正時代までは灯されていたと言うのですが、見た事がある人がまだ生きているんじゃないのかしらん?なのに、場所が判らなくなっているというのは、何だか不思議な気がしますね。山の中に火床の跡は無くても、現地に口碑くらいは残っている様な気もしますが、すっかり忘れられてしまったのでしょうか。

これらの送り火は、主として経済的事情から消えてしまった様です。当日の薪だけでなく、日頃からの火床やその周辺の山の整備には多大な費用が掛かるでしょうからね。また、参加する人もそれ相当な人数が必要でしょうし、逆に言えば5つも良く残ってきたものだというのが本当の所なのかも知れません。これもまた、一重に関係者の方々の熱意の賜物なのでしょうね。

一方で、8月16日以外の日に大文字が灯された事もあります。直近では、2000年の大晦日に20世紀のフィナーレを飾る行事として灯された事は記憶に新しいところです。また、過去においても日露戦争の戦勝記念、琵琶湖疎水の完成記念など何度かある様ですね。伝統のある行事の割に柔軟性も備えているのは、担い手が地元の住民である故なのでしょうか。それに、市民に広くアピールするには、持ってこいのイベントである事も確かな様です。


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2009.08.14

大文字送り火2009 ~鳥居形~

奥嵯峨、鳥居本の曼荼羅山に灯される送り火です。その名の通り鳥居の形をしており、仏教色が強い他の4山に比べて、少し風合いが異なる山ですね。

起源について

1.弘法大師が石仏千体を刻み、その開眼供養を行った時に点火されたのが始まりという説。

2.鳥居本は愛宕神社の登り口に当たり、愛宕神社に由来するのではないかという説。

3.伏見稲荷大社から見える事から、お稲荷さんの灯明として灯されたという説。

私的には2が順当なところではないかと思いますが、本当のところはどうなのでしょうね。

鳥居形松明送り火

正式な名称を鳥居形松明送り火と言うのですが、これは他の山の様にあらかじめ火床に薪が組まれているのではなく、世話人達が親火から火を移した松明を抱えて走り、灯明台の様な火床に突き立てて行くという独特の方式を採っているところから来ている様です。

ですから、点火する様子を下から見ていると、松明の火が激しく動いている事が判るのが何よりの特徴ですね。

化野念仏寺との関係

鳥居形では、以前は特段の宗教行事は行われていなかった様です。しかし、現在は護摩木の受付を化野念仏寺で行う様になり、当日も山上で念仏が唱えられている様ですね。起源の1で触れた様に弘法大師起源とも言われる事から、同じく弘法大師縁である化野念仏寺が協力しているのかも知れません。


点火時間

五山の中では一番遅く、午後8時20分です。

鑑賞スポット

奥嵯峨という、京都でも奥まった場所にあるため、見える場所は限定されて来ます。

1.清涼寺北側

2.松尾橋から渡月橋にかけての桂川。灯籠流しも一緒に見られるという事ですよ。

3.広沢池。ここも灯籠流しが行われる様です。

4.大覚寺バス停付近

実のところ、鳥居形はまだ見た事が無く、一度は見たいと思っている山です。今年は無理ですが、来年は是非行ってみたいところですね。


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2009.08.13

大文字送り火2009 ~左大文字~

左大文字は金閣寺の背後、大北山に灯される送り火です。位置的関係、それに護摩木の受付が金閣寺門前で行われる事から金閣寺と関係があるかの様に思ってしまうのですが、直接の関係はなさそうですね。

この送り火と関係があるのは金閣寺ではなく、近くにある法音寺という浄土宗の寺です。

起源について

左大文字についても諸説がありますが、他の山に比べて情報が少ないですね。

1.室町御所の池に大文字が映った様子を見て、大北山に大の字を灯した。

2.資料から確認出来る事として、他の送り火よりは後発だか、少なくとも寛文年間には始まっていた。

3.この大の字も弘法大師の筆によるという説がある。

4.一時期、大に一画を加えて「天」の字として灯していた事がある。

「左」の意味について

左大文字とは、如意ヶ岳の大文字と区別する為に付けられた名称ですが、市内から二つの大文字を見た場合、左に位置するからという説が有力です。ただ、京都の場合は御所を中心に町が設計されたという伝統から、東側を左、西側を右と呼んで来ました。紫宸殿においては、天皇が南面して座るからですね。この法則からすると、左大文字とはおかしな呼び方になってしまいます。

この事については、起源の1の説が正しいという前提になりますが、成立したのが応仁の乱の直後の事であり、京都の町が灰燼に帰していたので、右も左も判らないほど混乱していたからとする説があります。一面が焼け野原であり、基準になる様な物は何も無かったという訳ですね。

もう一つの説として、左大文字の大の字は左側の方が少し大きく見える事から、左大文字と呼ばれる様になったと言われます。この場合、この文字を書いた人は左利きだったのではないかと言われていますね。

私的には単純明快に見た目ではないかと思うのですが、実際にはどんなものなのでしょう。

法音寺について

法音寺は、平安時代に天台宗の慈覚大師が創建したと伝えられる古い寺です。応仁の乱によって一度は荒廃しましたが、その後復興し、花山院の勅願所となると共に、西国三十三所霊場復興の本山とされたと伝わります。現在は浄土宗に改められ、旧北山村の菩提寺であった事から、左大文字と係わる様になったと考えられています。

松明行列について

左大文字だけの特徴として、法音寺から大北山まで、松明の行列が行われるのだそうです。当日の朝に施餓鬼会が行われるのですが、その時焚かれた火が親火となり、松明に移されて大文字の火を灯す事になります。この時、沿道にも松明が灯され、ちょっと幻想的な光景になる様ですね。

私はまだ一度も見た事が無く、機会があれば訪れてみたいところです。

点火時間について

船形と同じく午後8時15分に点火されます。

この時、これも左大文字だけの特徴として、筆順どおりに点火されて行くそうですね。これまで気にした事が無く気付いていませんでしたが、今年もし見る事が出来たら、確かめてみたいと思っています。

鑑賞スポットについて

ベストなのは北大路通と西大路通が交差する付近、金閣寺前の交差点周辺の様です。あと、西大路通もわら天神から北側なら、見る事が出来るようですね。

明日は鳥居形についてレポートします。

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2009.08.12

大文字送り火2009 ~船形~

舟形は正確には「船形万灯籠送り火」と言い、西加茂の船山に灯される送り火です。名称からすると、送り火は萬灯会から始まったとする説を裏付けているかの様ですね。

船山の麓にある西方寺というお寺が関係している送り火で、その名の通り船の形をしています。

起源について

船形の起源についても諸説があります。

1.西方寺開祖の慈覚大師円仁が、847年(承和14年)に唐での留学を終えて帰国の途に就いたところ、東シナ海にて暴風雨に合いました。今にも船が沈みそうになったので、円仁が南無阿弥陀仏の名号を紙に書き、海中に投じて「四海泰平」と祈念されたところ、たちまち雨風が収まって無事に帰える事が出来きたのでした。この事から円仁は、西方寺の御本尊に船形光背を持つ阿弥陀如来を迎え、その光背の船を形どって万燈籠送り火を起こしたと言われています。

2.大文字の大に対して船を「乗」とみなし、大乗仏教を現していると言われます。

3.お盆に川に流す精霊送りの船を象ったものと言われます。

4.江戸時代初めに角倉家が派遣した朱印船を象ったものと言われます。

西方寺について

承和年間(834年~848年)に円仁が創建したと伝えられ、当初は天台宗山門派に属する寺でした。しかし、正和年間(1312年~1316年)に道空上人によって浄土宗に改められ、以後六斉念仏弘通の寺となりました。送り火の当日は、火が消えた後に境内で六斉念仏が行われるのですが、鉦や太鼓を持って念仏を唱える古風なもので、最も古い形態を残しているのではないかと言われています。私はまだ見た事が無いのですが、膝を曲げる程度の動作しかなく、とても素朴なものなのだそうです。

またこの寺には、幕末の歌人である太田垣蓮月尼、美食家として知られる北大路魯山人の墓があるそうです。

ちなみに秋の紅葉時には、隠れた名所の一つとなっていますよ。

点灯時間について

妙法に次いで、午後8時15分に点火されます。

鑑賞スポットについて

1.御薗橋東詰

上賀茂神社の西に位置する橋ですね。ここからなら船形をほぼ真正面に見る事が出来ます。また、私は確認していないのですが、南東方向に大文字が見えるそうです。

2.加茂川東堤(御薗橋から西賀茂橋間)

ここも加茂川越しに船形を見る事が出来ます。ただし、北に行く程斜めから見る事になりますので注意して下さい。

3.上賀茂橋

直接確認した訳では無いですが、御薗橋よりよく見えるという情報があります。

4.北大路橋

ここも直接確認した訳ではないですが、この橋の東詰から船形が見える様です。さらに、見る位置によっては大文字と左大文字も見える様ですね。

明日は左大文字についてレポートします。

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2009.08.11

大文字送り火2009 ~妙法~

京都の北部、松ヶ崎の地に、妙法の二文字が並んでいます。並んでいると言ってもそれなりの距離はあるのですが、2つの文字で一組をなしており、一山と数えられています。

妙法の起源

妙法という文字から判る様に、このに山は日蓮宗が関係しています。

松ヶ崎は古来比叡山の領地であり、歓喜寺という寺が支配していました。ところが、日蓮聖人の法孫にあたる日像聖人がこの地に入り説法を行うと、時の歓喜寺住職であった実眼が真っ先に帰依し、1307年(徳治2年)に天台宗から日蓮宗に改宗して寺号も妙泉寺と改めました。以後、一村ことごとくが日蓮宗に帰依し、これを記念して妙の字を灯す様になったとされます。

日像聖人について

この日像聖人についてもう少し触れると、下総の生まれで、幼少の頃より日蓮聖人から厚い信頼を受け、日蓮の悲願であった京都布教に初めて成功した人でした。しかし、急速に勢力を伸ばした日蓮宗は他宗からの攻撃に晒される事となり、日像は3度も都から追われるという苦難に遭います。そして、1321年(元亨元年)に至ってようやく後醍醐天皇に認められ、京洛の地に妙顕寺を開いたのでした。そして、妙顕寺は日蓮宗唯一の勅願寺ともなり、四海唱導と誇らかに呼号するに至ります。日像聖人は74才で亡くなり、その御廟所は深草の宝塔寺にあります。

題目踊りと涌泉寺

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松ヶ崎では8月15日と16日に題目踊りが行われますが、これは説法に感激した村民が、歓喜雀躍して太鼓を打ち鳴らし、法華の題目を唱えた事に始まるとされます。その舞台となるのが涌泉寺です。

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この地は日像聖人による布教があって以来、京都における日蓮宗の一大拠点となり、1574年(天正2年)には妙泉寺の隣に本涌寺という壇林(僧侶養成のための学校)が建てられました。時代が下って1918年(大正7年)に、松ヶ崎小学校の拡張のために妙泉寺と本涌寺が合併し、涌泉寺となって現在に至っています。

松ヶ崎大黒天

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涌泉寺の東には、松ヶ崎大黒天があります。正しくは妙圓寺という日蓮宗の寺で、本涌寺を創建した日英上人の隠居所として建てられたのが始まりとされます。本尊は釈迦牟尼仏なのですが、別に祀られた大黒天の方が有名となっています。この大黒天は伝教大師が作り、日蓮聖人が開眼したと伝わるもので、福運を授ける神として信仰を集めています。

境内にあった説明書きに寄れば、妙法の点火を行っているのはこの寺であるとあります。つまり、題目おどりは涌泉寺、送り火の管理は妙圓寺という役割分担が出来上がっているのでしょうか。

妙法の並び方

この妙法を見た時に、字の並びが現代風に左から右になっている事に気付きます。ぱっと見は自然に見えますが、よく考えてみると江戸時代以前に出来たにしては反対になっていますよね。これは、法の字か後から加えられた事を意味しており、最初に日像聖人が妙の字を西山に書いたため、法の字は空いている東山に書くほかは無かったという事情があった様です。ちなみに法の字が書かれたのは江戸時代初期の事で、妙泉寺の末寺下鴨大妙寺の日良上人の手によるものだと伝えられています。

点火時間について

妙法の点火時間は午後8時10分、大文字に次ぐ点火です。

妙法の鑑賞ポイント

1.地下鉄松ヶ崎駅周辺

ここはまだ実際に見に行った事が無いのですが、宝ヶ池スポーツセンターの周辺なら妙の字が間近に見える事でしょうね。さらに、北山通を東に歩いていけば、法の字が見えて来ると思われます。ずっと東、サンマルクルまで行けば真正面になる様ですね。

2.高野川沿い

高野川沿いから法の字が見えます。御蔭橋、髙野橋は実際に確かめたので間違いなでしょう。また、松ヶ崎浄水場付近なら、妙法の両方が見えるらしいです。ただし、フェンス越しになる様ですけどね。

3.百万遍交差点

ちょっと意外な場所ですが、百万遍交差点から法の字が部分的に見えます。全部は無理ですけどね、交差点の少し北側の限られた範囲でなら可能です。

明日は船形についてレポートします。

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2009.08.10

大文字送り火2009 ~如意ヶ岳 大文字~

このところ、当ねこづらどきに「大文字 2009」というキーワードでのアクセスが増えています。有り難いと言えば有り難い事なのですが、実はこのキーワードでヒットしているのは「雪の大文字 2009」という冬に書いた記事なのです。検索しておられる方が何を求めておられるのかは判りかねますが、少なくともこの情報で無い事だけは確かでしょう。

そこで、今日から5日に分けて大文字特集を組む事にしました。写真はほとんど無いのでテキスト中心になりますが、大文字にまつわる四方山話を書いていきたいと思います。どこまでお役に立てるかは未知数ですが、点火時間、鑑賞スポットなどの情報も含めて行きますので、全くの無駄足にはしないつもりでいます。

では、大文字から始めましょうか。

8月16日の夜に灯される送り火は、お盆の間この世に帰ってきていた先祖の霊(お精霊さん・おしょらいさん)を、再びあの世に送るための精霊送りの火です。「五山の送り火」とも呼ばれますが、「大文字送り火」の方がより知られた名称かと思います。五つの中でもこの大文字が特に有名だからなのでしょうか。比較的市内からでも見やすく、しかも山腹にある大の字が普段の日でも目立ちますからね。

山の名について

大の字がある山は大文字山とも如意ヶ岳とも呼ばれます。今の地図を見ると大文字山と如意ヶ岳の二つのピークが記されており、別々の山という認識がされている様ですね。しかし、元々は一つの山として認識されていたもので、東山三十六峰の中でも如意ヶ岳として数えられています。私も子供の頃に如意ヶ岳と教わりましたしね。どちらで呼んでも間違いではないのでしょうけど、正確を期すのなら「如意ヶ岳の支峰の大文字山」と言えば一番差し障りが無いのかも知れません。

二つの大文字

名称は「大文字」ですが、大の字には東西に二つあるため、西の左大文字と区別するために右大文字と呼ばれる事もあります。送り火の起源としてはこの大文字が一番古く、一説に拠れば平安時代初期にまで遡るとも言われています。以下、送り火の起源について記していきますが、調べた限りでは4つの説があるようです。

弘法大師起源説

1.平安時代の初期に、この山の麓にあった浄土寺という寺が炎上した時、御本尊の阿弥陀仏が山上に飛翔して光明を放ちました。これを見た弘法大師が大の字に改め、山上に灯したのが始まりとされます。

足利義政起源説

2.室町時代の中頃、足利義政が、近江で戦没した実子・足利義尚の霊を慰めるために始めたと言われます。この事を義政に薦めたのが相国寺の横川景三和尚で、山麓に白布をかざして大の字を造り、相国寺からそれを眺めて形を整えたとされます。

近衛信尹起源説

3.江戸時代の初期に、関白近衛信尹(寛永の三筆と呼ばれる能筆家)が大の字を書き、それを山中に復元して始めたという資料があるそうです。

萬灯会起源説

4.六波羅蜜寺には、六道まいりの萬灯会の時に大の字の灯明台を用いる事になっていますが、この灯明台が大文字の原型になったという説があります。

このうち、1が最初の起こりであり、2はそれを復活させたものという説もある様ですね。どれが本当なのかは判りませんが、文献上で確認出来るのは、1603年(慶長8年)に舟橋秀賢という公家が書いた日記「慶長日件録」に記載されているのが最古となるそうです。

大きさについて

大の字は、下から見ていても結構大きく見えますが、実際の大きさは次の様な数字になります。

まず、横の一の字が80mあるそうです。そして、左の流れが160m、右の払いが120mなのだそうですね。確かに巨大な字ではありますが、見た感じではもう少し大きい様な気もしますね。

点火時間について

大文字は五山のうち最も早く点火される山で、午後8時に始まります。燃えている時間はおよそ30分程度で、それ以後は消えてしまいます。そのうち、最初の5分ほどは濛々たる煙が立ち上がるので、綺麗に見えているのは20分程度ですね。特に写真を撮る場合には、少し待たないと煙ばかりが写る事になってしまいます。

鑑賞ポイントについて

まず5つが全て見えるポイントから紹介しましょうか。

1.京都駅ビル

確実に五山が見渡せると思いますが、どうやら事前に抽選が行われた様です。7月27日で締め切られているので、チャンスは来年以降ですね。

2.将軍塚

東山の将軍塚からは、妙法を除く四山を見る事が出来ます。ただし大文字は展望台からは無理で、北側に回らなければならないと思います、たぶん。また、大日堂の展望台からは五つとも見えるそうですが、5千円の席料が必要(要予約)です。同じ境内にある立ち見席の方は入山料だけですが、全部を見る事は無理の様ですね。
なお、東山トライブウエイは、当日午後4時30分以降は一方通行となり、展望台への乗り入れは禁止となりますから、ご注意下さい。実質、タクシーで展望台への分岐点まで乗り、後は歩きで登るより無い様ですね。帰りの足は、タクシーの予約かな?

3.船岡山公園

ここは行った事が無いので詳細は判りませんが、園内でポイントを変えれば5つとも見る事が出来るそうです。ただし、相当に混雑する様ですね。(8月11日追記。五山全てが見えると書きましたが、どうやら鳥居形を見るのは難しい様です。)

4.送り火鑑賞プラン

市内各ホテルの送り火鑑賞プランを利用すれば、より確実に見る事が出来るでしょうね。ただしどこが見えるかは場所によりけりで、京都タワーホテル、京都全日空ホテル(もしかしたら妙が見えない?)などは5つとも見える様です。   

次に大文字に特化したポイントです。

1.京都御苑

特に建礼門前の広場とその一つ南の通路がよく見えます。

2.出町柳周辺

鴨川デルタ、河合橋、賀茂大橋など、一番ポピュラーなポイントかも知れないですね。

3.加茂川西堤防沿い

出町橋から北山橋までの間の堤防沿いで、一部を除いてほぼ全線に渡って見る事が出来ます。ただし、ここは当日の様子を知らないので、どういう状況かは判りません。

4.岡崎グラウンド

岡崎グラウンドの西側一帯もまた、少し角度は悪いですが、見やすいポイントです。

5.神楽岡

ここも当日には行った事が無いのですが、大文字とは対面する位置関係にありますから、ポイントは沢山あるものと思われます。

6.近衛通

京大付属病院近くの近衛通からも、大文字をほぼ正面に見る事が出来ます。それと、一本北の東一条通も見えたはずです。

このほか見にくくなっているとは言え、市内各所で隠れたポイントがあると思います。

明日は妙法についてレポートします。

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2009.08.08

京都・洛東 電車でGO! 京阪電車編

私が京都取材の時に利用しているのが京阪電車です。関西在住の人なら「おけいはん」でそこそこ有名でしょうけど、ほとんどの人にとってはローカル過ぎる電車かな。でも京都に来られた事があるのなら、一度は利用された事があるのではないでしょうか。

その京阪電車の快速急行に乗ったところ、たまたま一番前の席に座れたもので、車窓風景を動画に撮ってきました。現役、あるいは元のおけいはんにとってはなじみのある景色でしょうし、京都をご存知無い方にはこんな沿線風景なんだなと思って頂ければとアップしました。

まずは、地下鉄部分の七条駅からです。

暗闇の向こうに駅の明かりが見えてくるのは、何だか不思議な気分になりますね。

次は東福寺駅付近です。アナウンスがいかにも京阪らしい雰囲気です。

駅を過ぎてすぐの左手に、紅葉の名所として知られる東福寺の境内が広がっています。紅葉シーズンには、人で溢れてしまうホームですよ。

最後は伏見稲荷駅付近です。赤い駅が印象的です。

ここも駅を出て左に行くと、伏見稲荷大社があるという場所ですね。ここは初詣の時に一番混む場所かな。

京阪はローカルではあるけれど、伏見稲荷、東福寺、三十三間堂、清水寺、八坂神社、知恩院、平安神宮、下鴨神社など、主要な社寺が全てその沿線にあるという京都観光には欠かせない電車でもあります。

いくらリニューアルしても、どこか垢抜けない野暮ったさがあり、それがかえって親しみを感じさせると言えば、おけいはんなら判ってもらえるじゃないかな。

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2009.08.07

京都・洛中 池田屋~海鮮居酒屋 華の舞~

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元治元年6月5日、三条小橋の旅籠「池田屋」において、新選組が過激派志士を取り締まったという池田屋事件が起こりました。事件の舞台となって池田屋は営業停止処分を経て人手に渡り、佐々木旅館から雑居ビル、さらにはパチンコ屋へと姿を変えてきました。そのパチンコ屋さんが2007年の年末に廃業して以来、1年半に渡って空きビルとなっていたのですが、平成21年7月8日に「池田屋」として蘇りました。

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池田屋を復活させたのは「海鮮居酒屋 華の舞」。全国に支店を展開する居酒屋のチェーン店ですね。

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ここは居酒屋ですから夜の営業が主となりますが、昼もランチをやっているので助かります。特にこの店は土日もランチがあるので、休日を利用して池田屋跡を訪ねてきた人も、中に入る事が出来ますよ。

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これが噂の階段ですね。かなり急ですが、これでも安全を考慮して、かつての階段よりは勾配を緩くしてあるそうです。開店してからそろそろ一ヶ月ですが、この階段から落ちた人はまだ居ないのかな。

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我が家が案内されたのは2階の席で、エントランスはこんな具合になっています。沖田の壁画がやたらと格好良いですね。その奥にあるのが記念撮影用のパネルで、中央の近藤だけが顔を出せる様になっています。

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その向かい側は、なぜか龍馬とお龍なのですね。この二人は池田屋とは関係無いのですが、やはり幕末の人気者という事で置かれているのでしょうか。順当なら、桂小五郎と幾松あたりが相応しいとは思うのですが。

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2階は個室になっていました。各通路ごとに京都の通り名が書かれていて、なかなか風情がありましたよ。メニューには新選組の隊士が描かれているのですが、近藤、沖田、土方までは判るものの、他の隊士の特定は難しいですね。全部で10名ですから、後の7名は山南、永倉、斉藤、武田、井上、藤堂、原田あたりかな。あるいは、武田ではなく伊東が入っているのか。何にしても、絵と名前を一致させるのは困難です。

なお、1階がテーブル席、3階が宴会場になっている様ですね。

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日替わりランチは税込みで714円とリーズナブルです。味はいかにも居酒屋風ですが、ボリュームは満点でしたよ。

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池田屋事件の案内板もリニューアルされていました。新選組ファンとしては、こういう演出はうれしい限りですね。これで十分と言えるかどうかは別として、望んでいた方向でまとめて呉れたのは確かです。

次は夜に行きたいですね。幕末コースを選んだら、新選組気分になれるかしらん?

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2009.08.06

京都・祇園祭2009 山鉾巡行~橋弁慶山から鯉山まで~

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後祭の舁き山で最初に巡行するのが橋弁慶山です。この山は毎年北観音山の次と順番が決まっている、舁き山唯一のくじ取らずなのですね。この山には2006年2007年に訪れており、町家の二階に展示されているご神体を拝ませて頂きました。

この山の主題は謡曲の橋弁慶、言わずと知れた義経と弁慶の出会いの物語ですね。一般に知られている話では、五条橋で弁慶が千人切りをしているところに義経が現れるのですが、謡曲の場合は義経の方が辻切りをしている事になっています。そこに五條天神に丑の時参りに行こうとする弁慶が差し掛かったのですが、すれ違いざまに義経が弁慶の長刀の柄を蹴り上げて、切り合いとなってしまいます。いきり立つ弁慶ですが、義経の身のこなしは軽く、翻弄されていく内に相手がただ者ではないと気づき、さらに源氏の御曹司である事を知るとその従者となる事を誓ったのでした。

弁慶の行き先については能の流派によって異なっており、北野天満宮、あるいは十禅寺に参籠に行くという筋書きもあるそうですね。

この山の見所の一つは、欄干の上に片足で立つ義経にあります。と言っても、ビニールで覆われていては見えないのですけどね。アクロバット的と言えば、浄妙山に匹敵する面白さでしょう。来年はもと判りやすい写真を撮ってこようと思っているところです。

後祭の山1番は黒主山だったのですが、既に巡行時の様子を紹介していますので、ここでは省略させていただきます。

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山2番は鈴鹿山。鈴鹿峠で悪鬼を退治したという鈴鹿明神を祀る山です。穢れを祓うという女神様なのですが、ここでは長刀を手にした勇ましい姿となっています。

鳥居の間に見えている丸いものは、悪鬼の首を現す赤熊です。美人で有名な女神様と悪鬼の首という組み合わせはちょっとシュールの様な気もしますが、それだけ霊験あらたかな神様という事なのでしょう。

なおこの山は、辻回しの時に山を担ぎ上げ、何度かその場で回ってみせるというパフォーマンスを行っていました。舁き山とは名ばかりという批判に対して、せめてもの心意気を見せたという事なのでしょうか。このパフォーマンスは、他の幾つかの山でも行っていましたね。

山3番は八幡山でしたが、この山もまた紹介済みですので、ここでは割愛します。

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山4番は役行者山。この山については去年に詳しく紹介していますが、役行者が一言主神に命じて、葛城と大峰の間に石橋をかけたという伝説に基づいています。ご神体としては役行者と一言主神、それに葛城神があります。

真松の下の洞の中に居るのが役行者、左の赤熊が一言主神、右で輪宝を掲げているのが葛城神です。

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伝説では一言主神が出てきますが、これが謡曲になると葛城神に変わります。本来は葛城神は一言主神の別称であり、同一の神であるはずのところなのですが、謡曲では葛城神は女神となっています。そこでこの山では二柱の神として別々の人形としたものなのでしょう。

この山でもまた、辻回しの時に担いで回るというパフォーマンスを見せて呉れました。

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山5番は鯉山。いわゆる登竜門をモチーフにした山ですね。

中国の黄河の上流に、龍門という急流がありました。この川は普通の鯉ではとうてい登る事が出来なかったのですが、登りきった鯉には霊力が宿り、龍に変じると言われていました。この事から、難関を突破した人には立身出世が待っているという意味で、登竜門と呼ばれる様になったのですね。

鯉山の鯉は、今まさに龍門を登ろうとしているところを現し、鯉の下には激流の彫刻が施され、そして鯉の前には滝を現す白麻緒が下げられています。鯉の長さは1.5mもあり、左甚五郎作と言われています。また、山には鳥居と祠もあって、八坂神社の神様である素戔嗚尊が祀られているそうです。

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鯉山の前掛け、胴掛け、見送りなどは、元は一枚のタペストリーでした。ベルギーのブリュッセルで織られたもので、江戸時代の初め頃に日本に入ってきた様です。全部で5枚あったのですが、そのうち3枚を会津藩から天寧寺へと移され、さらには換金のために売却されてしまいました。そのうちの一枚を鯉山が手に入れたという事ですが、重要文化財に指定されるほどの逸品なのだそうです。鯉山ではそれを惜しみもせずに裁断し、山の懸装品として使っているのですから、なんとも贅沢な話ですよね。

現在では複製品が整備され、オリジナルは京都国立博物館で保管されているそうですが、宵山には見る事が出来る様ですね。ここも来年は是非訪れてみたいところです。

山6番は浄妙山でしたが、ここも紹介済みなのでここでは省略させていただきます。

さて、半月以上に渡って祇園祭を特集し、とりあえず全ての山鉾は紹介する事が出来ました。皆様には長々とお付き合い頂き、ありがとうございました。

しかし、この程度ではごく表面をなぞったに過ぎず、祇園祭の魅力を伝え切れたとは思っていません。まだまだ知らない事の方が圧倒的に多いというのが実情でして、これからさらに詳しく調べて行きたいと思っているところです。祇園祭は本当に奥が深いですよ。

来年に向けての宿題も沢山出来た事ですし、一年後の祇園祭の取材に行くのが今から待ち遠しい気分です。


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京都・祇園祭2009 山鉾巡行~木賊山・保昌山・山伏山~

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山11番が木賊山。息子と生き別れた老爺が、信州の山中で寂しく木賊を刈っている姿を表した山です。主題はこの後現れた息子と無事に再会出来たというところにあり、ご利益はそれにちなんで迷子封じという事になっている様ですね。

この山もまた、芦刈山の様に周囲に木賊を植えてありますね。また、この写真ではご神体の陰になっていて見えませんが、月に見立てた30㎝の銀盤が真松に掛けてあります。

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山12番が保昌山。清涼殿の梅の花を盗んできたという藤原保昌を主題とした山ですね。それにしても抱えきれない程の梅を、盛大に盗んで来たものです。これでお咎め無しで済んだというのですから、よほど強い運の持ち主だったのでしょうね。

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山13番が山伏山。先祭の巡行列においては、これが最後の舁き山となります。

山伏山のご神体は浄藏貴所。平安時代の僧侶で、三善清行の八男として生まれています。幼くして異才を放ち、7歳の時に自ら望んで出家したとされます。以後数々の奇瑞を現していますが、その一つが父清行を一条戻り橋で蘇らせたという逸話ですね。また、傾いた八坂の塔を、その法力で真っ直ぐに戻したという伝説も持っています。その八坂の塔の近くにある八坂庚申堂を開いたのがこの浄蔵貴所ですね。さらには小説「陰陽師」では、阿部清明のライバルとして登場しますから、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

その浄蔵貴所が修験者として大峰山に入る時の姿をご神体としており、山伏の出で立ちである事から山伏山と呼ばれます。

この山には二年前の宵山に訪れているのですが、あまり予備知識が無かったため、通り一遍の紹介に終わっていますね。次はもっと詳しく見てこようと思っています。

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2009.08.05

京都・祇園祭2009 山鉾巡行~蟷螂山から伯牙山まで~

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山6番は蟷螂山。祇園祭の案内書には「とうろうやま」とありますが、行列の先頭を行く垂れ幕には「かまきりやま」とふりがなが振ってあります。つまりは、どちらで呼んでも構わないという事なのでしょう。巡行中の写真は上手く撮れなかったので、宵々々山の写真を貼っておきます。

山の由来は蟷螂の斧の故事から来ています。

中国の春秋時代、斉の君主に荘公という人が居ました。ある時荘公が猟に出たところ、馬車の車輪の前に小さな虫がいる事に気付きました。良く見ると小さな斧を振るって、馬車の車輪を叩こうとしているところです。興味を持った荘公が御者にその虫の名を聞くと、蟷螂という名の虫で、進む事をのみ知っていて引く事を知らない、自分の力を顧みずに敵に向かって行くのです、と答えが返って来ました。荘公はこれが人なら天下の勇者となろうと言って馬車を迂回させ、蟷螂に道を譲ったのでした。

この故事を受け、後漢末期に遠紹の幕僚であった陳琳という人が、曹操打倒の檄文を著した時に曹操軍の劣弱さを諷して、「蟷螂の斧を以て隆車の隧を禦がんと欲す。」と記しています。

蟷螂山にはさらにもう一つの出来事がからんでいます。

日本の南北朝の頃の話として、北朝方の内紛に乗じて南朝方が一時京都を回復した事がありました(1351年の事)。南朝の軍が京都を占領し、後村上天皇は吉野を出て京都の南郊にある男山まで来ていたのですが、近江にあった北朝方の足利義詮が反撃を開始します。義詮は南朝方の軍を破って京都を奪還し、さらに男山を包囲しました。後村上天皇を脱出させるために南朝方の諸将は義詮の軍に戦いを挑みますが、その時に殿を勤めたのが四条隆資でした。隆資は公卿の出ながら武勇に優れた人で、南朝の中でも重きをなしていた人でした。しかし、この時の戦いは多勢に無勢であり、義詮の前に無惨に敗れてしまいます。それでも後村上天皇が落ち延びるための時間稼ぎにはなり、天皇は無事に吉野までたどり着く事が出来ました。

この四条隆資の戦いぶりに敬意を表して、1376年(永和)に御所車に蟷螂を乗せて巡行したのがこの山の始まりという事なのですね。

動画はもっと撮ってきたのですが、手ぶれが酷くてアップ出来るのはこの程度です。やはり、ゆっくりとは言え動いている物を手持ちで撮るのは、とても難しいですね。ただ、一通りの動きは判って貰えたかと思います。

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山7番は油天神山です。油小路通の天神様をお祀りする山ですが、とてもコンパクトにまとまった山ですね。やはり梅の花が印象的です。ちょっと失敗したのは見送りを撮っておかなかった事で、梅原龍三郎画伯の富士山を原画とした綴織だったのですね。来年は新町通で、見逃さない様にしなくちゃね。

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山8番は占出山。船鉾と同じく神功皇后の外征を主題とした山で、渡海の前に肥前国松浦で鮎を釣り上げ、戦勝の兆しとしたという説話に基づいています。この山もまた一度も訪れた事がない山なのですが、右手に釣り竿、左手に釣り上げた鮎を持ったご神体を、ちゃんと見ておきたいところですね。

ご利益も船鉾と同じで安産なのですが、この山がくじ引きで早い順番を引き当てた年は、女性のお産が軽いと言われているそうです。今年の8番は、早い方と言えるのかな。

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山9番は太子山。唯一松の代わりに杉を立てる山であり、遠くからでも木の姿が違う事で見分けが付きますね。

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山10番が伯牙山。友を失った伯牙が、悲しみのあまり琴の弦を切ってしまうという故事を主題にした山であり、かつては琴破山と呼ばれていました。

伯牙が手にしているのは斧であり、弦を切るには少し大仰に過ぎますよね。このご神体を見る限り、琴を打ち破ろうとしている所と見た方が良い様な気もします。

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京都・祇園祭2009 山鉾巡行 ~芦刈山から郭巨山まで~

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すでに8月に入り祇園祭も終わっていると言うのに、どこまで続けるのかとお叱りを受けそうですが、ここまで来たらとことん行きます。ここからは、まだ紹介していなかった舁き山の巡行の様子をお届けしましょう。

ただ、舁き山についてはかなりの部分を宵々々山、宵山のレポートで触れていますので、紹介済みの山については詳細を割愛させて頂きます。また、宵山に訪れる事が出来なかった山については概略を紹介する事とし、詳しいレポートは来年に町会所を訪れた時に改めて掲載する事にしたいと思っています。

20基の舁き山は、先祭と後祭に分かれている意外は固定した巡行順は無く、毎年くじ引きで何番目を行くかが決められます。唯一の例外が橋弁慶山で、この山は後祭の2番目と決まっているくじ取らずの山ですね。

では、まずは今年山一番を引いた芦刈山から始めましょうか。

芦刈山は謡曲「芦刈」を主題にした山で、ご神体は芦を刈る翁の姿をしています。ただ、山の場合は正面が進行方向の左側と決まっているらしく、私の居た場所からではことごとくが後ろ姿になってしまい、判りやすい写真が撮り難くて困りました。その上に雨対策のビニールが被されており、たとえ正面から見たとしてもほとんど判らなかったでしょう。

この写真で確認できるのは、山の周囲に芦が植えてあるという事であり、ご神体が右手に鎌、左手には刈り取った芦を持っているという事ですね。芦刈の主題を表すだけなら鎌と芦を手にしたご神体だけで十分なのに、わざわざ周囲に芦を生やすというところが手が込んでいます。きっと、臨場感を出そうという狙いなのでしょうけど、遊び心も感じられて面白いですね。

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山2番が白楽天山。道林禅師を訪ねた白楽天が主題となっている山ですね。ただ、この写真では白楽天しか見えません。

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そこでもう一枚の写真です。これならかろうじて道林禅師が居る事が判りますね。禅師は老松の上に住んでいたとされており、その事を表すためでしょう、真松を背にして立っておられます。こういうとろを押さえておくと、山を見る楽しみが増えて来ますね。

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山3番が霰天神山。火除けの神様としての天神様をお祭りする山ですね。まるで動くお社の様ですてすが、梅の花が一際鮮やかで目に付きます。

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山4番が孟宗山。実は、この山には一度も宵山に寄った事が無いのです。町会所が烏丸四条上がるという場所にあり、私の宵山の行動半径に入っていないのですよね。来年は是非見に行かなくてはならない山の一つです。

この山は、中国24孝の一人、孟宗をテーマとしています。病気の母を養う孟宗は、冬なのに竹の子を食べたいという願いを聞き、雪の中を竹林に出掛けます。しかし、幾ら探しても竹の子があるはずもなく、困り果てた挙げ句に天に向かって祈りました。すると雪の大地が裂け、沢山の竹の子が採れたのです。孟宗がこの竹の子を母に食べさせると、病も癒えて母は元気を取り戻したのでした。

この孟宗という人は、三国時代の呉の国に実在した様ですね。母は孟宗の出世を信じて懸命に育て上げ、孟宗はその期待に応えて、最後は司空の位にまで登ったのだそうです。孟宗竹の語源にもなっており、調べてみるとなかなか面白そうな人物ですね。

ご神体は、右手に雪を被った竹の子、左手には鍬を担いでいるそうですが、この写真からは判別出来ません。やはり来年の課題ですね。

この山があるのが笋(たかんな)町と言うのですが、笋とは竹の子という意味なのだそうです。そこからこの話を主題に選んだという落ちが付くそうですが、そもそもこの町名の方がどういう由来があるのか聞いてみたいところです。

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山5番が郭巨山。これも親孝行を主題とした山ですが、内容は今の感覚ではちょっと引いてしまうストーリーですね。

郭巨は中国の人で、老母と3歳の息子を養っていました。しかし生活に窮し、二人は養えないという事態にまで追い込まれてしまいます。そこで郭巨は、子供は自分が居る限りまた恵まれる事が出来る、しかし母は二度と得る事は出来ないと考えて、息子を埋めてしまう事にしました。そして、そのための穴を掘ろうとしたところ、一釜の黄金(六斗四升)を掘り当てたのでした。そこには一札があって、「天が孝子の郭巨に与える。官も他人も奪う事は出来ない」と書かれていました。郭巨はこの黄金のおかげで母に孝養を尽くす事が出来たのでした。

これが古代中国流の考え方なのでしょうけど、子供を殺してまでの親孝行が賞賛されるべきものなのかどうか。まあこの話を、今の物差しで測ったところで仕方が無い事なのでしょうけどね。

それはともかくとして、ご神体は郭巨とその子供の様ですね。郭巨は両手に鍬を持っており、黄金を掘り出した時の姿を表しているとされます。一方の子供は、右手に唐団扇、左手に紅白の牡丹を持ち、郭巨と対峙する形で立っています。この姿は郭巨の子供と言うより、郭巨を賞賛するために天が使わした使者と見た方が良い様な気もします。勝手な推測ですけどね。

また、黄金を象徴するものとして、金の鎌を山の中に置いてあるという事なのですが、調べた限りはどんな物で、どこにあるのかは判りません。山の見かけ上の特徴としては、日覆いがある事が目立ちます。屋根があるのは、舁き山としては唯一の存在ですね。

この山もまた、前を通り過ぎた事があるだけなので、来年の宵山に詳しく見てこようと思っている山の一つです。


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2009.08.04

京都・祇園祭2009 山鉾巡行~四条傘鉾・綾傘鉾~

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祇園祭の山鉾の中でも、特異な形態を持つのが2基の傘鉾です。起源は共に応仁の乱以前と古く、最も初期の鉾の形式を残すものと言われています。鉾と言うより形はやすらい花の花傘に似ていますね。

こちらは四条傘鉾。応仁の乱で一度は焼失したのですが、1500年(明応9年)に再興し、幕末に至るまでずっと巡行に参加していました。しかし、元治元年の大火で再び焼失し、その後一度は大火の痛手から立ち直ったのですが、明治4年を境に行列が完全に途絶えてしまいます。

四条傘鉾が三度目の復興を遂げたのは昭和60年の事でした。当初は居祭りでしたが、3年後にお囃子と踊りが復元されて巡行にも復帰し、現在に至っています。

そのお囃子は、他の山鉾とはかなり異なった旋律になっていますね。何でもあまりに調子が違うが故に、他の山鉾のお囃子と重なると不協和音となってしまう事から、必ず間が開く様に傘の巡行は7番目と15番目に固定しているのだそうです。そして2つの傘鉾のどちらが先になるかは、くじによって順番(傘1番と傘2番)を決めているそうです。

四条傘鉾では8人の子供達が棒振りおどりをするそうなのですが、残念ながらこの場所では披露してくれませんでした。私はまだ見た事がないので、是非一度拝見したいものだと思っています。

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こちらは綾傘鉾です。面白い事にこの綾傘鉾は、江戸末期には小さいながらも山鉾として巡行に加わっていた事があるそうです。1843年(天保5年)から1864年(元治元年)までの事で、残念ながら蛤御門の変による大火によって焼失してしまったのでした。

その後、明治12年に一度は元の徒歩囃子として復活したのですが、明治17年を最後に長く途絶えてしまっていました。この傘鉾の復興がなったのはその100年後の昭和54年の事で、それ以後は毎年巡行に参加しています。

それにしても、100年もの歳月を超えて復興させるのは、並大抵の事では無かったでしょうね。四条傘鉾もそうですが、地元町内会の熱意の賜物であったとしか言い様が無いでしょう。

ちょっと人陰になってしまって見えにくいのですが、これが棒ふりばやしです。この背後で神面を付けた二人が太鼓を叩きながら踊っているのですが、残念ながらそちらは画面に入りませんでした。

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実演されているのは、壬生六斎念仏保存会の人達なのだそうですね。壬生の人達が綾傘鉾に協力するのは江戸時代以来の伝統らしく、昭和54年に復興した際にもその伝統に基づいて協力があったそうです。

この棒を振り回すという動作には周囲の災厄を祓うという意味があるそうで、激しい動きが目に見えるぶん、ありがたいご利益を授かる様な気がしますね。

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2009.08.03

京都・祇園祭2009 山鉾巡行・新町~放下鉾~

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新町通での観覧の最後は放下鉾でした。鉾としては最後になるため、町家との絡みを狙って、北観音山の町会所の前でカメラを構えて待っていました。

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放下鉾は、ここでも稚児舞をやっていました。以前に河原町三条で観覧していた時も見た記憶がありますから、巡行中はほとんどの箇所で行っているのでしょうか。結構大変な様な気がしますが、長刀鉾でも同じなのかしらん?来年に確かめたい事がまた一つ増えましたね。

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肝心の写真ですが、思っていた様には撮れませんでした。あまりにも近すぎたのが直接の原因ですが、あらかじめちゃんとしたイメージが作れていなかった事も大きかった様ですね。ゆっくりとは言え鉾は動いている訳ですから、ぶっつけ本番ではなかなか上手くは行かない様です。これも来年の課題になりました。

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この後も北と南の観音山が続いていたのですが、私的には疲れ果ててしまい、最後まで見届ける気力が無くなってしまいました。もう少し頑張っていれば、柳の枝を貰えたのでしょうけどね。

初めての新町通での観覧でしたが、とても満足の行く内容でした。今年は一部しか見る事が出来なかったのですが、来年は最初から新町に絞って見に来ようと思っています。四条新町での集合の様子や、まだ行った事がない御池通の様子も合わせて見る事が出来れば嬉しいですね。早く1年が経ってくれないかというのが、今の心境です。

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2009.08.02

京都・祇園祭2009 山鉾巡行・新町通~船鉾~

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新町通の通過順は、必ずしも巡行時のとおりとは限りません。それぞれの山鉾が各々の鉾町までスムーズに帰れる様に順番を入れ替える為で、南の山鉾ほど先に通過する様になっています。ですから、御池通では順番待ちの山鉾が並ぶ事になり、余所では見られない光景が広がっている様です。それも一度は見ておきたいところではありますね。

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船鉾の町会所は新町通沿いですから、このまま真っ直ぐ進んで行けば良い訳ですね。でも先の菊水鉾と鶏鉾は、どう考えてもあと二回は辻回しをしなくてはならないはずです。この二つの鉾は室町通を南下出来れば良いのですけど、観覧席の関係で新町通まで来なくてはいけない様ですね。回り道を余儀なくされる鉾の関係者としてはちょっと大変かな。

でもそのおかげで、新町通に居ればほとんど全ての山鉾を見られる訳ですから、見る側としては助かっているのですけどね。

船鉾は、ここでもまだゆっくり目のお囃子なのですね。やはり鉾によって考え方が違う様です。でもやはり終わりが近いからでしょうか、乗っている人にも余裕が感じられますね。

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船鉾の後ろ姿には、出港して行く船を見送る様な哀愁を感じます。楽しかった祭りの終わりを告げている様で、ちょっと寂しい姿ですね。

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京都・祇園祭2009 山鉾巡行・新町通~岩戸山~

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新町通で巡行を見るのは初めてだったのでどこで写真を撮れば良いかと迷ったのですが、とりあえず北観音山の町会所近くに陣取ってみました。木造の民家と絡めた方が風情があると思ったのですが、ゆっくりとは言え動いていますから、どのタイミングでシャッターを押すべきか、判断が難しいですね。

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岩戸山の曳き子は、大半が外人さんです。異国のお祭りなのに、みんな楽しそうに綱を曳いていました。それにしても、愛想が良い人が多いですね。そこかしこから声が掛かりるのですが、一々にこやかに応えていましたよ。

岩戸山のお囃子もまた、ひどく軽快なものに変わっていますね。これだけ楽しげな旋律なのは、お祭りの最後は盛り上げて終わろうという気持ちの表れなのでしょうか。

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昔はこんな具合に、軒下から鉾を見上げていたのでしょう。ビルの谷間で見るのとは、まるで違った姿がそこにはありました。

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2009.08.01

京都・祇園祭 山鉾巡行・新町通~鶏鉾~

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新町通を鉾が下ってくる様子はこんな感じです。両脇に大きなビルが無い分、真木の高さが際だって見えますね。

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鉾が近づいてくると、警察官が道路の白線より内側に入る様にと交通整理を始めます。これはまあ当然の事で、道幅一杯に鉾と曳き子が通って来るのですから、道路にはみ出たりしたら、迷惑この上ないという事になってしまいます。

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曳き子と観客の距離はこんな感じで、まさに触れ合わんばかりですね。中には知り合いと言葉を交わす曳き子も居たりして、よそよそしく感じる河原町とは大違いです。

巡行が近づくにつれて拍手が起こるのも、新町通ならではの事でしょう。地元の人達の、お帰りなさい、お疲れ様でしたという気持ちの表れなのでしょうね。

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町家の二階と囃子方では、いっそう暖かい交流が見られますね。たぶん顔見知り同士なのでしょう、短いやりとりなのですが、無事に祭りを終えようとする安堵感が感じられて、良い雰囲気がありましたよ。

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京都・祇園祭2009 山鉾巡行・新町通~菊水鉾~

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四条河原町での観覧を終えた後、鉾町での巡行を見るべく新町通へと移動しました。蛸薬師通をずっと西に進み、新町通まで来た時には既に三分一程度が通過した後だったらしく、菊水鉾が通りかかったところでした。

一度は鉾町の巡行を見ておきたいとやって来たのですが、思っていた以上に面白かったです。まず気付くのは、お囃子が軽快なものに変わっている事ですね。地元でしか見せない、砕けた素顔という事なのでしょうか。

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次に狭い通りを文字通り軒に接する様にして巡行して来る鉾は、何と言っても迫力が違います。河原町ではああ大きいなあという程度ですが、手を伸ばせば触れられる程近くを通過して行く鉾は、ちょっとした小山が動いている様な圧迫感があります。

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そして曳き子との距離が立ち話が出来る程近くて、お祭りに来ているのだなという実感が湧きます。さらには観客の中には地元の人が多数含まれており、囃子方とのやりとりを聞いていると暖かみすら感じますね。

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ここには昔ながらの祇園祭が残っており、河原町で見る巡行とはまるで別の世界がありました。あたかも二つの祭りがあるのではないかと思ってしまう程です。正直言って、来年は河原町で見る必要は無いですね。

ただ、鉾町ではあくまで地元の人が主役であるので、観覧者はマナーに気をつけるべきでしょう。中でもカメラマンは、割り込みなど迷惑な振る舞いが目立ちましたから特に要注意です。まあ、これは自戒を込めての話ですけどね。

遠ざかっていく山鉾の後ろ姿を見ると祭りの終わりが実感され、少し寂しいものがありますね。

今日、明日と、新町通の巡行の様子をお届けします。数は少ないですが、風情にあふれた山鉾巡行をお楽しみ下さい。

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