
第43回京の冬の旅、7箇所目は妙光寺を訪れて来ました。
妙光寺は御室の西にある臨済宗建仁寺派の寺であり、かつては五山十刹の一つ(十刹の第8位)に数えられていたという由緒を持っています。

妙光寺が公開されるのは初めての事になりますが、実は数年前までは無住の寺であり、境内は竹藪や雑木林で埋もれた、事実上出入り自由の荒れ寺でした。それがガイドさんの説明に依れば、4年前から建仁寺の若い僧侶達が復興に着手し、ようやく寺としての体裁が整ってきたところなのだそうです。

ですからこの枯山水の庭も、かつての姿を手探りで復元しつつあるところの様ですね。綺麗な砂紋を描いて、それなりに見せているのはさすがと言えましょうか。

妙光寺の歴史を紐解けば、1285年(弘安8年)に、時の内大臣・藤原師継が長男の早世を悼んで山荘を寺に改め、法燈円明国師を開山に迎えたことに始まります。ちなみに寺号の妙光とは、師継の長男の法名に依るものです。
創建後の妙光寺は、亀山・後醍醐・後村上の三朝より勅願寺とされて正覚山という山号を賜るなど、寺運隆々たるものがありました。

この寺の開山である法燈円明国師は、43歳のとき中国に渡り、霊洞山護国寺の無門慧開禅師に師事されました。 帰国後92歳で入寂されるまで教化活動に力を尽くし、亀山上皇より法燈禅師、後醍醐天皇より法燈円明国師という称号を贈られています。そしてまた普化宗(虚無僧の宗派。尺八を吹くことで悟りの境地に至るという禅宗の一派。明暗寺の記事を参照して下さい。)の祖としても知られる高僧です。

時代を下って、妙光寺は室町幕府によって五山十刹の一つに列せられるという栄誉を受けました。ここまでは順調だった妙光寺なのですが、応仁の乱によって灰燼に帰し、数多く抱えていた荘園も戦国大名達によって横領され、かつての面影も無いほどに衰退してしまいます。

荒廃しきった妙光寺が再興されたのは、江戸時代に入ってからの事になります。1639年(寛永16年)に、敦賀の豪商打它公軌の援助を受けて、三江紹益和尚が再建を果たしたのでした。都名所図絵に依れば山門、庫裏、仏殿、方丈、鐘楼を備えた立派な寺であり、十刹の第8位にふさわしい伽藍が立ち並んでいた事でしょうね。
ちなみに建仁寺の寺宝として名高い風神雷神図は、実は妙光寺の復興を記念して打它公軌が俵屋宗達に依頼して描かせたものと言われ、後に妙光寺の衰退と共に建仁寺に移されたとされます。つまり、今回の公開において風神雷神図のふるさとと副題が付いているのは、こういう経緯があるからなのですね。
ここには織物で復元された風神雷神図があり、中庭に面した部屋で見ることが出来ます。とても織物とは思えない出来映えで、建仁寺の様な描かれた当時を復元したものではなく、時間を経て風化した今の絵の状態を再現しており、ぱっと目には本物と見間違う程ですよ。

幕末期にこの寺の住職を務めたのが天章慈英でした。慈英は勤皇僧として知られた存在で、妙光寺には勤皇の志士達が多く出入りしていたと言います。真偽は不明ですが、薩長同盟はこの寺で結ばれたとも言い、その余波として新選組がこの寺の全ての塔頭を焼き払ってしまったという話も残っているそうです。

まあ、薩長同盟は薩摩藩の二本松藩邸、または小松帯刀の京都屋敷で結ばれたとする説が有力ですし、新選組が妙光寺を焼き討ちしたという資料は見たことがありません。ですので、この話はまともには聞けないのですが、天章慈英が勤皇家であった事だけは確かな様です。
明治以後の妙光寺は、明治初年の廃仏毀釈の洗礼を受け、以後は衰退の一途をたどりました。時折裏手にある野々村仁清の墓を訪ねて来る人がある程度で、荒れ果てた境内は近所の子供達の格好の遊び場になっていたようです。
今は鬱蒼としていた竹藪やクヌギ林が切り開かれ、開放的な境内を取り戻したところです。これから先も序々に庭園として整備が進み、何時の日か歴史あるこの寺が、洛西の名所として知られる様になる事を期待して待ちたいところですね。
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