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2007年8月

2007.08.24

夏の旅・尾道紀行 ~一目千軒~

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千光寺本堂からの尾道です。映画「ふたり」のシーンにも出てきた景色ですが、これぞ尾道という眺めの良さですね。

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こちらは浄土寺山の中腹から眺めた尾道です。この町並みを、「一目千軒」と呼ぶのだそうですね。

尾道は昔から港町として知られた町で、特に江戸時代においては北前船の中継地として大いに栄えました。大阪と蝦夷地の間を取り次ぐ中継ぎ交易によって巨利を納めた豪商が軒を連ね、尾道は瀬戸内でも有数の殷賑の地となったのです。

明治以後、鉄道と国道が海と山の間にあったわずかな平地を貫いた事から、尾道の町は変貌を余儀なくされます。住む場所を失った人々は山の斜面に住処を求め、あるいは海を埋め立てるなどして平地を少しずつ増やしていきました。現在のこの景観が出来上がったのは案外新しく、明治から大正にかけての事の様ですね。そうして尾道の町は発展を続け、見渡す限りで千軒もの家が建ち並ぶ町並みが出来上がったのです。

ところがこの町並みにも、再び変化が訪れようとしています。この夥しい家屋のうち、実に4割が空き家になっているのだそうです。

原因は、やはり不便という事に尽きる様ですね。急な斜面は歩くのが大変というだけでなく、下水道整備にも支障を来しているようです。あまりに傾斜が急すぎて、下水管を敷設出来ない様ですね。ですから、未だにトイレの水洗化が進まず、くみ取り車が活躍しています。それどころか、ホースが届かない高台の家では、人力で汚物を回収し、それを天秤棒でかついで下ろすという、ちょっと今の時代では信じられない様な手間を掛けているのだそうですね。

そういう不便を強いられる斜面の家を捨て、開発の進んだ北部や西部に移り住む人が多くなり、後に入る人も居ない事から、空家だらけになってしまったのだそうです。という事は、この景色もいずれ無くなってしまうという事を意味しますね。

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駅前の商店街もまた、映画「さびしんぼう」に描かれた様な賑わいはどこにもなく、だんだんとシャッター通り商店街となりつつある様です。一説には3割の店が商売をやめたと言われており、がらんとした印象を受けますね。

今回の旅行でより一層の尾道ファンとなってしまった私としては、今の景観が失われる事が残念でなりません。町は生き物ですから変貌する事は仕方が無いとしても、この迷路の様な町並みを無くしてしまうのは、どう考えても勿体ないですよね。町全体をテーマパークの様にして、このまま保存出来ないものかしらん。

また、しまなみ海道の開通以来、尾道は通過点になりつつあり、観光客が減り続けていると聞きます。去年は戦艦大和のロケセットのおかげで大いに賑わったそうですが、所詮は一過性のものに過ぎず、次にどうすれば良いのかと模索が続いている様です。

私が思うに、尾道は数々の魅力に溢れた素晴らしい町です。でもね、それが大阪にまでは聞こえて来ないのですよ。上手にキャンペーンを行えば、こんなに面白い町だもの、人が来ないはずはありません。もっともっと、尾道をアピールして下さい。

また、せっかく駅前に商店街があるのに、観光客が入れる店がほとんど無いのが残念でした。おみやげ物を買うにも、駅以外にはそういう場所が無いのですよ。ここに土産物センターでも作れば、大いに賑わうと思うのですが。

それともう一つ、お寺の拝観料が要らないのは素敵なのですが、やはりガイドをする人が欲しいです。予備知識なしで行けば、どんなに歴史のあるところでも、ああこんな場所かで終わってしまいます。それではやはり魅力は半減ですよね。

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そんな尾道にも、素晴らしいガイドが居ました。それがこのガイド犬「ドビン」ちゃんです。元はちゃんとした家の飼い犬だったのですが、諸般の事情から飼い主の一家が尾道から引っ越した時、ドビンは家族と別れて町に残る事を選択したと言われています。以来、商店街を住処とし、ボランティアのガイドに付き従って、観光客の案内を勤める様になりました。ついにはドビン単独でも観光客を案内出来る様になったと言いますが、最近では年のせいで動きが鈍くなり、あまり動かなくなったそうです。ある意味、尾道一の有名人だそうですね。何度もテレビに出ているそうですが、大阪で知っている人は何人いるだろう?こんなに面白い犬、もっともっと宣伝して下さい。


最後はとりとめもなくなってしまいましたが、尾道の未来を憂う人たちが居るらしいと知り、応援したくなって書いてみました。この素敵な町「尾道」がいつまでも輝きを失わずに続く事を願って、旅行記の締めくくりと致します。


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2007.08.23

夏の旅・尾道紀行 ~千光寺山からの夜景~

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尾道の魅力の一つに夜景のすばらしさがあります。ここでは千光寺山から見た夜景を、いくつかご紹介する事といたします。

まずは、東を望んだ景色です。遠くに見えている橋は、尾道大橋と新尾道大橋の双子橋。尾道水道に映った街路灯が何とも言えずに綺麗ですね。

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こちらは南側に広がる景色です。まだ少し明るい時間帯だったせいで、あまり夜景らしくはありませんね。その代わり、町の様子は良く判ります。手前の尾道旧市街の中央を横切る灯りが、商店街のアーケードですね。そして、正面の造船所の広いヤードが、昨年まで戦艦大和のロケセットがあったところです。

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暗夜行路の記事で予告した百貫島の灯台がこの写真です。写真の上辺、真ん中あたりに小さな灯りが付いた島が見えるでしょうか。志賀直哉旧居はここよりもかなり下に位置するのですが、ぎりぎり見えそうな角度ではありますね。良く目を凝らして探せば、見つけられたのかも知れません。

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そして、西の方向、尾道駅とその向かい岸のクレーンのライトアップです。クレーンの様な武骨な機械でも、ライトアップによってこんなに綺麗に見えるものなのですね。このアイデアには脱帽です。

タクシーの運転手さんに聞いた話に依ると、向島側から見た夜景も見事なのだそうですね。今回は機会がありませんでしたが、いつか夜の尾道三山の光景を見てみたいものだと思います。

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2007.08.22

夏の旅・尾道紀行 ~新尾道三部作・あの、夏の日の舞台~

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新尾道三部作のうち「あした」については、残念ながらDVDを借りる事が出来なかったので見ていません。ですので、ロケ地についても写真は撮れませんでした。ウェブ上の情報からすると、なかなか面白そうなのですけどね。

「転校生」と「あした」についてはどこのレンタル屋さんを探しても置いて無く、どうやらこれらの作品に関するレンタル化の許諾が得られていない様子です。

新尾道三部作の3作目である「あの、夏の日」は、1999年に公開された映画です。新しい様でも、もう8年も前の作品になるのですね。

横浜に住む由太(ゆうた)は小学5年生。何事に付けじっーと考え込むのがくせで、そのために周囲からはボケタとあだ名される様な少年です。由太の姉は受験を控えており、夏休みを前に彼は家族からも持て余され気味でした。

一方、尾道に住む祖父は高校の校長を務めていた人で、周囲から尊敬を受けていた人物だったのですが、最近は奇行が多く、惚け始めたのではないかと疑われていました。祖母から相談を受けた由太の両親は、一石二鳥とばかりに、祖父の見張り役として由太を派遣する事にします。こうして祖父と孫の、奇妙でかつ心温まる一夏の物語が始まります。

この映画の副題が「とんでろ じいちゃん」とある様に、実はこの祖父は時空を駆ける能力を持った、一種のタイムトラベラーなのでした。「まきまき、まきまき、まきましょう」という不思議な呪文を唱えると、思った場所、思った時間へと飛んで行けるのです。この能力を孫に最初に見せたのが、この写真の中央に見える突堤でした。はじめは泳いで向島へ渡ろうとした祖父でしたが、孫が泳げないと知り、やむなくこの力を使ったのです。

実際に尾道から向島に泳いで渡れるものかは良く判りません。距離は短いですが、流れが速そうですからね。それに船の往来が激しく、危険すぎるので現実には無理なのでしょうねえ...。

なお、この海岸べりは「さびしんぼう」の舞台でもあるのですが、整備が進んで撮影当時とは様子が一変しており、映画のシーンの面影はどこにもありません。

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祖父の家は「おのみち文学の館」が使われていました。残念ながら上手く撮れた写真が無く、近くの道で撮った写真を代わりに掲載します。この道もアングルこそ違いますが、映画の中に出てきますよ。

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ここが、祖父が余所の家の葬式に紛れ込み、参列者に号令を掛けてラジオ体操をさせるというシーンの舞台になった坂道です。暗夜行路の記事に掲載した写真の続きにあたり、上に登れば千光寺、下に行けば「おのみち文学の館」、すなわち祖父の家に行く事が出来ます。

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ここは、祖父の子供時代に出てくる長恵寺の本堂ですが、実は天寧寺の本堂なのですね。映画では前島の瀬戸内側にあるような設定になっていましたが、実際には尾道市内にあったのでした。

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少年時代の祖父がホラタコの多吉に連れられて、玉虫を捕りに来たシーンはこの角度から撮られたものです。今にも取り餅を手にした二人が入って来そうですね。なお、映画の中に出てきたやくざの弥勒様は作り物で、実際には地蔵様が祀られています。また、その地蔵様の横にやくざの弥勒様の写真が飾られており、ここが撮影場所であった事を教えてくれています。

「あの、夏の日」のロケ現場は多方面に渡っており、6つの作品の中でも一番広範囲になるでしょう。それらを巧みに組み合わせている事から、映画のシーンと実際の風景とはかけ離れている事が多い様です。もし本気でロケ現場を踏破しようと思ったら、車を使ったとしても一日ではとても廻りきれないでしょうね。

祖父役を小林桂樹が好演し、ボケタ役の厚木拓郎も好い味を出していて、なかなか楽しい映画に仕上がっています。祖父と孫の交流が温かく描かれており、見終わってほっとする様な作品ですよ。

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2007.08.21

夏の旅・尾道紀行 ~新尾道三部作・ふたりの舞台~

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新尾道三部作とは、「ふたり」、「あした」、「あの、夏の日」の3作を指します。これらの作品は1990年代に断続的に公開されたもので、尾道三部作に比べると認知度はやや劣るかも知れません。

映画の造りとしては、尾道を郷愁的・叙情的に描いた前三作に比べて、町の描写はかなり現実的になっています。これは制作者が意図的に変えた事であり、古き良き町が消えていく事に警鐘を鳴らそうとした前三作に対して、人と人の繋がりを描く事により重点を移した結果なのだそうです。バブル期に始まる混迷の時代において、日本人の心が失われていく事を少しでも食い止めようと考えたと大林監督は語っています。

その最初の作品が「ふたり」で、1992年の公開です。原作は赤川次郎の同名の小説。

尾道にとある二人の姉妹が暮らしていました。姉の千津子(高校生・中嶋朋子)は何でも出来るしっかり者として近所でも有名なのに対し、妹の実加(中学生・石田ひかり)は常にぼーっとしていて、姉の厄介にばかりなっていました。ある日通学の途中で、千津子が突然事故に遭い死んでしまいます。実加は途方に暮れながらも、家族の中で姉の代わりになろうと賢明に努力しました。そして、ピアノのレッスンに通う道筋で変質者に襲われそうになった時、不意に千津子の幽霊が現れて実加を助けてくれます。そこから再びふたりの姉妹(一人は実加にしか見えない幽霊ですが)としての暮らしが始まるというストーリーです。

姉娘の死を受け入れられない依存症の母、単身赴任の寂しさから浮気に走る父親、親友の父親の死、クラスメートの心中事件など、様々な人間模様の中で成長していく実加の姿が描かれた佳品ですね。

その映画の冒頭に現れ、後に姉の事故死の現場となったのがこの場所です。浄土寺の西の坂道を少し北に登ったところにあり、海徳寺という寺の門前にあたります。事故のシーンでは、右側の坂路に何本もの巨材を積んだトラックが止まっているという、あからさまな死亡フラグが立っていました。

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そのトラックに挟まれてしまった姉の下に駆けつける妹の背後に見えていた尾道の景色がこれです。凄惨きわまりない状況の背景に、おだやかで美しい尾道の風景を見せるという手法は、無慈悲で残酷な現実を強調するという意味で有効な演出だったと思います。

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「ふたり」においては、浄土寺周辺がロケ地として良く使われています。この浄土寺は実加のピアノの発表会が行われた会場として設定されており、両親がタクシーから降りるシーンでこの門が登場しています。

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ピアノの発表会が行われたのはこの方丈の一室で、床の間の前にグランドピアノが置かれていました。映画では襖を取り払っていたので結構広く見えたのですが、実際にはおよそピアノの発表会を行う様な雰囲気の場所では無いですね。

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実加の恋人?である神永智也が、演奏を終えた実加に花束を渡して去っていった庭です。映画だと自由に出入り出来る庭の様に見えましたが、実際には門が閉まっており、外部から入る事は出来ません。また見学者が庭に下りる事も禁止されています。綺麗な芝生なので、つい歩いてみたくなるのですけどね。

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神永が実加に、彼の従姉妹がしでかした事(実加が書いた神永宛のラブレターをクラス中に晒してしまった)を詫びるシーンに登場した、浄土寺前の通路です。石畳と古風な壁が良い雰囲気ですよね。それに、ここから眺める景色もなかなかのものです。

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実加と親友の真子が、神永の従姉妹の家に討ち入りに行くシーンに出てきた艮神社です。社殿左に巨石があり、尾道三山との関わりを感じさせますね。映画では二人がこの石の左にある階段を登り、さらには墓地の中の坂道へと繋がって行くのですが、あの墓地がどこにあるのかは不明です。

なお写真はありませんが、この神社の近くに実加と神永が最初に出会った時に入った喫茶店が存在します。「茶房 こもん」という店がそれで、ワッフルが美味しい事でも知られている様ですね。我が家は偶然入ったのですが、後になってから気付いたので写真は撮っていないのです。惜しい事をしたな。

いわゆる名曲喫茶であり、京都・大阪ではほとんど無くなってしまった文化が、こではまだ息づいていました。とても上品な、良い雰囲気の店でしたよ。

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今回は、タクシーに案内してもらったほか、駅に備え付けてあったロケ地のガイドマップを参考に歩いたのですが、およそ不親切な作りの地図で、ほとんど何も判りませんでした。そのガイドマップを良く見ると、この地図を頼りに歩けば確実に道に迷うだろうとわざわざ記されており、ものの見事に制作者の狙いに嵌ってしまった事になります。自分の足と目で確かめろと、あえて判らない様に作ってあったのですね。それはそれで面白いのですが、炎天下においては迷惑極まりないことでした...。

結局、探しに行った電柱のある道は見つけられず仕舞いに終わったのですが、代わりに見つけたのがこの景色です。あまりの暑さに目まいがしましたが、このいかにも尾道らしい景色に出会えた事で良しとしましょうか。

ガイドブックの記述ではありませんが、尾道は迷ったなりになにがしかの発見がある、そんな町である事は確かです。

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2007.08.20

夏の旅・尾道紀行 ~尾道三部作・さびしんぼうの舞台~

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尾道三部作の最後の作品である「さびしんぼう」は、密かに「さびしんぼう」と名付けた女子高生「橘百合子」に恋をする主人公の前に、もう一人の奇妙な「さびしんぼう」が現れます。実はそれは少女時代の母親・タツ子だったという設定で、富田靖子が二人の「さびしんぼう」を巧みに演じ分けています。

今回の旅行で比較的多くのロケ地を訪れられたのはこの作品でした。

ここは、主人公が住む西願寺から町に出る通路であると共に、橘百合子の通学路でもあったという道です。ごらんのとおり車一台が通るのがやっとという通路で、今回は地元のタクシーに案内してもらったから良かったものの、自分で運転して行けば必ずや立ち往生をしていたであろう事は間違いありません。

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この四つ角は作品中に何度も登場するのですが、百合子の自転車が故障し、主人公が偶然そこに通りかかるという重要なシーンもここでしたね。

また、雨の夜のシーンにおいて、なぜかこの石碑の前で青い火が燃えていました。ところで今回行ってみて判ったのですが、この石碑は墓石だったのですね。するとあの炎は一体何だったのでしょう?

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そして、この階段が西願寺の入り口の階段です。ここも何度も登場しましたが、最後に「さびしんぼう」が消えてしまう場面が一番印象的に残っています。

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この西願寺の鐘楼も作品中に頻出しますが、この周りで、現在のタツ子と16歳のタツ子(さびしんぼう)が追いかけっこをするシーンが、コミカルに描かれていてなかなか面白しろかったです。

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これが主人公が橘百合子と乗った渡し船と言いたいところですが、間違えました。実際にはもう一つ西にある福本渡船だったのですね。

それでも夏休み中にも関わらず自転車に乗った女子高生が乗っていて、なるほど映画のシーンは嘘ではないのだなと確認出来たのは良かったです。

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「さびしんぼう」では、渡し船のシーンが叙情的に描かれており、この映画をファンタジーに仕上げています。大林監督に依れば、尾道三部作は失われていく古き良き街を残すべく、あえてシュガーコーティングを施した演出をして観客の情感に訴えたとの事ですが、その最たるシーンがここに現れていたのかも知れません。


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2007.08.19

夏の旅・尾道紀行 ~尾道三部作~

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尾道を語る上で外せないのは、映画の町としての顔です。古くは小津安二郎監督の「東京物語」を皮切りに、数多くの映画の舞台となってきました。その中で尾道を最も有名にしたのが、大林宣彦監督の一連の作品である「尾道三部作」と「新尾道三部作」でしょう。

今回の旅行にあたっては、あらかじめこれらの作品のDVDを見て予習をしておきました。その感想は、尾道はとても絵になる町だという事です。そこで、今回の旅行のテーマの一つとして、映画に現れたシーンの現場を訪れてみようと考えました。

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「尾道三部作」とは、「転校生」、「時をかける少女」、「さびしんぼう」の3本の作品を指します。いずれも1980年代の前半に公開れたものですから、すでに内容を忘れてしまったか、若い人なら見た事が無いという人も多いでしょうね。かくいう私も、実は今回のDVDが初めての鑑賞だったのです。泥縄も良いところなのですが、おかげで尾道の魅力を沢山知る事が出来ました。

最初の作品である「転校生」は、階段から一緒にころげ落ちた中校生の男女の魂が入れ替わり、騒動を巻き起こすという内容です。良くあるテーマの作品ではありますが、この作品がその嚆矢らしいですね。

ただ、実を申せば、残念ながらレンタル屋さんにDVDが無かったため、この作品は見ていないのです。それでもその映画の冒頭に現れたという階段落ちの場面の現場は押さえてきました。

御袖天満宮という神社がそれで、冒頭の写真にある階段から二人が転げ落ちたのですね。どういう具合に撮影されたのかは判りませんが、かなりの急勾配であり、本当に落ちたとしたら相当に危険だったのではないでしょうか。

なお、この階段には継ぎ目が無く、見事な程に滑らかな仕上がりになっています。これは尾道の石工の技術の確かさを示す例としても有名なのだそうですね。

この現場に行くには、下の写真にある長い階段を、延々と登っていくしかありません。見ただけでうんざりとなってしまいますが、坂の町「尾道」を代表するような光景ではありますね。

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「時をかける少女」は筒井康隆の同名の小説が原作で、何度もドラマ化や映画化がされており、内容をご存知の方も多いでしょうね。ある日、偶然にタイムトラベラーとしての能力を身につけてしまった少女が、未来からやってきた青年に恋をするのですが、過去を変える事は出来ないという絶対のルールの前に失恋し、なおかつその記憶を消されてしまうというSF恋愛物語です。大林作品は原田知世の初演作であり、当時としてはかなりのヒットを記録しました。

ただ、尾道三部作とは言いながら、その舞台のほとんどは竹原市なのですね。尾道でのシーンは、主人公の家やラベンダーを栽培していた温室がある家など、わずかしかありません。

そのうち今回訪れる事が出来たのは、この艮(うしとら)神社です。タイムトラベル中の主人公が少女時代の自分と遭遇し、パラドクスのせいで少女が神隠しに遭った様に消えてしまい、一緒に参拝に来ていた両親が慌てて探し廻るという場面の舞台となりました。

神社の空を覆う樟は、樹齢900年という見事な巨樹。この神社の独得の雰囲気は、この木に負うところが大きい様ですね。

なお、この艮神社は「新尾道三部作」の「ふたり」にも登場します。

明日は、「尾道三部作」の最後の作品「さびしんぼう」の舞台をお届けします。

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2007.08.18

夏の旅・尾道紀行 ~天寧寺~

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尾道には三山を中心に25の寺があり、それらを結ぶ順路が整備されています。時間と体力があれば全てを廻りたいところなのですが、この炎天下ではとてもじゃないけれど無理でした。そこで今回の旅行では、まず観光タクシーをお願いして尾道の主な名所を案内してもらい、大体の様子が把握できたところで、気になるスポットを歩くという事にしました。

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その自分で歩いたお寺の中で、私が一番気に入ったのはこの天寧寺です。理由は花の寺である事。この日はジニアが綺麗に咲いていましたが、春には牡丹が咲く名所になっている様です。立派な枝垂れ桜もあって、花の時分はさぞかし見事な事でしょうね。

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天寧寺の開創は1367年(貞治6年)の事で、足利二代将軍義詮の寄進により、普明国師(臨済宗・相国寺第二世)を開山に迎えて創建されました。当初は東西三町という規模を誇る大寺であり、足利家歴代将軍の庇護を受けて栄えていました。しかし、1682年(天和2年)に落雷によって全山が焼失するという被害を受け、元禄年間に再興(このとき曹洞宗に改宗)されたものの、応時の面目を回復するまでには至りませんでした。

その中で、この海雲塔と呼ばれる三重塔は、焼失を免れた唯一の建物です。元は五重だったのですが、上層部の痛みが激しかったため、元禄年間に三重に改められました。そのせいでしょうか、全体に重く感じ、少しバランスを欠いている様な気がします。それでも千光寺山の麓にそびえる様は見事で、千光寺の赤い堂舎と対照的に古塔の風情を醸し出しています。

一つ注意しておく必要があるのは、この塔が境内からずっと離れた場所にあるという事です。ここまで来るには一度境内から出て、延々と坂道を登って行かなくてはなりません。すぐ近くに見えるのですが、実際に歩いてみると階段が結構きつくて、汗だくになってしまいました。

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もう一つの見所は、この五百羅漢でしょう。江戸時代半ばから明治にかけて集められたもので、本堂の前にある羅漢堂に納められています。とても見事なのですが、ちょっと物凄い雰囲気もあって、小さいお子さんだと泣き出してしまうかも判りません。

尾道の寺は、浄土寺を除いて拝観料を取っておらず、出入りも自由なところがほとんどです。それだけ檀家がしっかりとまとまっているという事なのでしょうか。気が張らなくて良いのですけれども、その反面何を見れば良いかは自分で探す必要があり、あらかじめ下調べをしていった方がより楽しめるという気がします。

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2007.08.17

夏の旅・尾道紀行 ~尾道三山・浄土寺~

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尾道三山のうち、最も東にあるのが浄土寺です。浄土寺は聖徳太子によって開創されたと伝わる古刹で、平安時代の末には後白河法皇の勅願所となった事もあるという由緒を持ちます。その後一時衰えたのですが、地元の豪商の助けを受けて2度に渡って堂塔伽藍が再建され、現在に至りました。今の宗派は真言宗泉涌寺派、という事は御寺・泉涌寺の末寺にあたるのですね。

この寺がある山は瑠璃山と言い、主な境内は山裾にあるのですが、山頂には奥の院が設けられており、山麓から登る事が出来る様になっています。ただ、すさまじく急な坂道であるため最初からパス。もしも登っていたら、巨岩が織りなす不思議な光景を目にしていたはずです。

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この寺は足利氏との縁が深く、その始まりは尊氏にまで遡ります。尊氏は一時京都を追われた際に、二度に渡って当寺を訪れて戦勝祈願を行っており、その甲斐あって勝利を収め、室町幕府を開く事が出来ました。尊氏はこれに報いるために寺領を寄進し、寺紋として足利氏と同じ二両引紋を使う事を許しています。

左側の石塔が足利尊氏の墓と伝わる宝篋印塔で、その見事な出来映えから重要文化財に指定されています。また、右側の五輪の塔は弟・直義の供養塔と伝わります。

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この寺は国宝、重要文化財が数多くあり、本堂も国宝の一つです。1327年(嘉暦二年)の建築で、御本尊として聖徳太子作と伝わる十一面観音像を祀ります。

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こちらは重要文化財の阿弥陀堂。本堂よりやや遅れた1345年(貞和元年)の再建で、阿弥陀如来座像を御本尊とします。内部の細工が面白く、壁面に卍崩しという立体的な模様が施されているのですが、見る位置によって白から緑、さらには赤に変わるという変わった趣向になっています。

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この寺ではご住職自ら案内して頂いたのですが、とても判りやすく丁寧な説明で、楽しいひとときを過ごさせて頂きました。さらには、最も美しく見えるポイントまで指南していただいて、この写真もその指示どおりに撮ったものです。

庭は1806年(文化三年)の作とされる築山泉水庭であると解説にはあるのですが、池と水路はどこにあるのでしょうね。ぱっと見た目には判らないのですが...。その奥に見えているのが茶室「露滴庵」で、元はと言えば豊臣秀吉が伏見城内に作らせた「燕庵」であると伝えられます。

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こちらは1690年(元禄三年)の再建である方丈です。これも重要文化財に指定されているのですが、二重になった様な屋根の形式がちょっと珍しいですね。

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そして、門前にある「柔能制剛弱能制強」の石碑です。新影流の剣豪「佐野勘十郎義忠」の記念碑で、碑文は頼山陽の筆と伝えられます。 この石碑と二頭の唐獅子は一つの石材から掘り出されたもので、尾道の石工の技量の高さを示すものとして知られています。

冒頭の多宝塔もまた国宝で、高野山金剛三昧院、石山寺の多宝塔と共に、日本三大多宝塔の一つに数えられています。

ざっと浄土寺を紹介してきましたが、まだまだ書き切れなていない寺宝が数多く残っています。あまりの多彩さに紹介文を書くには未消化に過ぎて拙いものになってしまったのですが、それほど見所の多い寺だと理解して下さい。

とりあえずの紹介はホームページを参照して頂くとして、ここは是非とも実地に訪れてみられる事をお勧めします。住職に案内して頂くだけでも十分に楽しめますよ。

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2007.08.15

夏の旅・尾道紀行 ~尾道三山・西国寺~

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西国寺は天平年間に行基によって開創されたという伝説を持つ古刹です。この寺のある西国寺山は別名愛宕山ともいい、寺の山号から摩尼山とも呼ばれています。その伽藍の見事さは尾道一と言われているようですね。

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西国寺は真言宗の寺で、西国寺派の大本山です。仁王門には2mもあろうかという大草鞋が掲げられており、ここが健脚祈願の寺である事を示しています。このあたりは、松山の石手寺に似ていますね。

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仁王門を潜って階段を登ったところにあるのが金堂です。室町時代初期に建てられたものだそうですが、非常に端正で、かつ美しい御堂ですね。背後に見えているのが、足利義教が寄進したと伝わる三重塔。これも朱塗りで、とても均整の取れた美しい姿をしています。

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西国寺は山の裾野にあるので、見晴らしの良さでは千光寺には及びません。それでも尾道市の東半分は見渡せて、これはこれでなかなかのものですね。

西国寺は千光寺の様に俗化は進んでおらず、とても静謐な空間が広がっていました。尾道一と謳われるだけのことはあって、見事に整備された境内が印象に残っています。残念ながらあまり時間が無かったので金堂の前に行っただけに終わってしまったのですが、出来る事なら三重塔の前まで行って見たかったですね。

春には桜が見事らしく、いつか花の咲く頃にじっくりと訪れてみたいお寺です。


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2007.08.14

夏の旅・尾道紀行 ~尾道三山・千光寺~

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尾道は、言うまでもなく海運と共に発展してきた港町です。その一方で、数多くの寺と共に栄えてきた門前町としてのもう一つの顔も持っています。

尾道の成り立ちを語る場合、尾道三山という言葉が出てきます。千光寺山、西国寺山、浄土寺山の事を指し、それぞれ真言宗の大寺を抱えています。この三山を中心にして数多くの寺が建てられ、門前町が発達したのが今の尾道の原型となったのでした。

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その中で最も有名な寺が千光寺でしょう。千光寺は弘法大師によって開かれたという伝説を持つ真言宗の寺で、三十三年に一度公開されるという千手観音を御本尊とします。この御仏は火伏せの観音とも称せられ、火除けの御利益があると信仰を集めて来ました。今では所願に御利益があるとして、多くの参拝者を集めています。

その境内にあり、尾道のシンボルとも言うべき岩がこの玉の岩で、その先端に乗っているのが宝珠です。今は人造の電球が乗っているのに過ぎませんが、かつては光る天然の珠があり、日夜尾道の町を明るく照らしていました。この光りに照らされた海の事を珠の浦と呼ぶのだそうです。

ある時この光る宝珠を見た外国人が、これを買い取りたいと申し出てきました。尾道の人たちは、これを売ったところで巨岩ごと運べるはずもないと、この申し出を承知してしまいます。持ち主が変わっても宝珠がここにある事には変わりなく、丸儲けに等しいと考えたのですね。

ところが、相手は一枚も二枚も上手でした。岩から宝珠だけを掘り出し、さっさと持って行ってしまったのです。今でもこの岩の頂部には40cm程度の穴が開いているのですが、それが宝珠のあった跡だと言われています。この宝珠は海外に運ぶ途中で海に落ちてしまい、その事から尾道の海を珠の浦と呼ぶ様になったという伝説もあるようですね。

出し抜かれた尾道の人たちが後悔しても後の祭りでした。それでも残った玉の岩に灯りをともし、灯台の代わりとしたと言うのですから、やはりこの岩に寄せる思いは浅からぬものがあったという事なのでしょうね。

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千光寺山は別名大宝山とも言い、寺はその山腹の140mほどの高さにあります。階段を登ると大変な目に遭うのですが、こうして真下から見上げると意外な程に近くに感じますね。

玉の岩の左の木立の中に半ば隠れているのが本堂で、清水寺に似た舞台造りになっています。何と言ってもその赤い姿が印象的で、林芙美子が千光寺の赤い塔と呼んでいるのがこの本堂の事なのだそうですね。

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この鐘が志賀直哉の暗夜行路に出てきた千光寺の鐘で、今でも時の鐘として生きています。大晦日の行く年来る年に何度も登場しており、ご覧になった方も多いでしょう。

この鐘楼からの眺望は素晴らしく、ここから尾道の町を見渡しながら鐘を撞くのは、まさに町中に時を知らせているという実感がありそうで、何とも言えずに気持ち良い事でしょうね。(なお、この鐘は時の鐘であるため、一般人は撞く事は出来ません。)

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千光寺の境内にはそこかしこに巨岩があります。玉の岩の他にもこの三重岩、ぽんぽん岩、鏡岩などがあり、古代にはここが磐座(いわくら)だったのではないかと考える人も居る様ですね。これらの巨岩も千光寺の見所の一つになっています。

千光寺は現世利益の追求に溢れたかの様な寺です。それだけに俗っぽくはありますが、そこは尾道一の名刹であり、やはり一度は訪れておきたい場所ですね。

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2007.08.13

夏の旅・尾道紀行 ~踏切のある風景~

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尾道を訪れるのはこれが3度目。最初に訪れたのは今から三十年近く前、まだ私が高校生だった頃の事です。あの時は7月の末頃で、今回と同じ様にとても暑い夏の日でした。

その旅は高校の友人との二人旅で、家族と離れてする初めての旅行でした。

当時の若年層の旅行と言えばユースホステルの利用が常道であり、この時も尾道のユースに泊まるべくやってきたのです。この旅行は岡山が主な舞台で、津山を皮切りに蒜山高原から新見へと周り、高梁から倉敷を経てこの尾道へとやってきたのでした。

なぜ岡山一周だったのかと言えば、まだ親の脛齧りだった高校生の経済力としては、京都から岡山まで行くのが精一杯の距離だったのですね。そして、瀬戸内側のユースは尾道にしかなかった(あるいは予約が取れなかった?)ため、この地へと足を伸ばしたのです。

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いくら若かったとはいえ真夏の旅は体力的に厳しく、しかも旅の経験が無いものだからペースも判らず、水分の補給もままならずといった具合で、高梁から倉敷に出た頃にはへとへとに疲れ果てていました。とにかく尾道に向かう列車に乗ったものの、景色を楽しむ余裕もなく、崩れる様にして座席に座り込んだのを覚えています。

帰宅ラッシュの時間帯だったのでしょう、思った以上に車内が混んでいて、通路にもぎっしりと人が立っていました。疲れ切っているのだから眠りそうなものなのですが、周囲に人が多いせいか気が立っていたらしく、眠る事も出来ませんでした。私は目を上げるのもおっくうで、ただ窓の下のレールだけを見ていました。

折からの西日を受けて、レールが赤く鈍く輝いています。ガタタン、ガタタンという単調な音と共に、レールはどこまでも平行に走り続けました。そのレールが急に幾本にも別れると、駅に近づいたという印です。そして、駅を過ぎて暫くすると、いつの間にか元の平行線に戻って行くのでした。

金光、鴨方、笠岡と、駅のアナウンスが聞き慣れない地名を告げていきます。前の席に座った友人は眠りに落ち、話をする相手も居ない私は、背中で座席の振動を感じながら、黙ってレールを見つめ続けていました。

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尾道に着くと、大勢の人が一斉に下車しました。その人波にもまれながら改札を出て、ユースホステルへの道を探します。今はもう無くなってしまいましたが、当時は千光寺公園の中に尾道ユースはありました。とにかく線路を渡って坂を登るのだと言う友人に従って、駅を出て左へと道を取ります。一緒に列車を降りた人たちもまた、半分くらいは同じ方向へと歩いていました。

暫くしてたどり着いたのが冒頭の踏切です。ここで帰宅する人たちと一緒に、上りの列車が通過するのをぼんやりと待っていました。やがて遮断機が上がり、道を右手に取って坂を上がって行きます。すると、あれだけ大勢居た人がいつの間にか半分になり、4分の1になり、そしてやがてみんな消えてしまいました。有り様は辻々にあるそれぞれの家に帰って行ったに過ぎないのですけれども、その時はなんだか不思議な、そして心細い様な気分になったものです。なにしろ、私たちの目指す公園は、まだずっと上にあるのですから。

私たちはあえぎながらも坂道を登り切って、千光寺公園へとたどり着きました。黄昏れ時の公園は、なぜかツクツクボウシの声で満ちあふれています。この蝉は京都では秋口に鳴くと決まっており、なぜこんな夏の盛りに鳴いているのかと、私はぼんやりした頭で不思議に思っていました。

ユースでは、食事の時間に遅れたため危うく食いはぐれる所を、なんとか謝って食事にありつく事が出来ました。当時のユースは、規則に煩かったのですね。また、ユースと言えばミーティングが付きものだったのですが、疲れ切っていた私たちは出席もせず、ただ泥の様に眠ってしまいました。この点でも、ユース利用者としては失格でしたね。

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次の日は時間の関係もあって尾道の観光はせず、駅からすぐに倉敷に向かったので、この地の思い出と言えば夕暮れ時の踏切と薄暗い坂道の記憶だけです。その中でも、この踏切の景色は不思議と印象に残っているのですね。ですから、私にとっての尾道のデフォルトの景色と言えば、まずこの踏切にあるのです。

尾道に対するイメージが、海でもなく千光寺でもなく、ただの踏切という人も珍しいでしょうね。なぜと考えるに、同じ列車に乗って同じ駅で降り、同じ踏切で待っていた人たちに対して、淡い親近感を抱いて居た様に思います。初めての旅行の初めての地で、人恋しくもなっていたのでしょう。ここで遮断機が上がるまでの数分間は、ほのかに暖かい、居心地の良い時間だった様に覚えています。

ですから私は、この景色と共に尾道に対して好感を抱いたのだと思います。今から思えばほんの些細な事なのですれどもね、若かった私にとっては印象的な出来事だったのでしょう。この景色が今でも変わらずに残っていた事は、とても幸運だったという気がします。

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2007.08.12

夏の旅・尾道紀行 ~志賀直哉・暗夜行路~

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(新千光寺道の風景。青い道しるべの示す右奥に「志賀直哉旧居」がある。)

「「千光寺へ行くのはこれでいいの?」彼は行く手をさしてその子にきいた。立ち止まった子供は彼といっしょに山を見上げていたが、どう教えていいか迷うふうだった。
 「口で言うてもわからんけえ。わしがいっしょに行きやんしょう」
 子供は彼の返事も待たずに、今降りて来た細い坂道を前こごみのからだを快活に左右に振りながら、先へ立って登りだした。斜めに右へ右へと登って行った。」

志賀直哉が東京の家を出て尾道に移り住んだのは、1912年(大正元年)11月の事でした。そして、尾道を後にしたのは翌年の5月で、尾道に居たのはわずか半年足らずの事なのですね。意外に短い期間なのですが、この暗夜行路にその情景を描いた事で、彼と尾道との関係は不抜のものとなりました。

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(「志賀直哉旧居」。一番奥の部屋が直哉が住んでいた場所。)

「しばらく行くと左手に高く、二、三寸に延びた麦畑があって、その上に屋根の低い三軒長屋があり、その左の端に貸家の札が下がっていた。彼は子供に礼を言って別れ、その家を見に行った。日向で張り物をしていたかみさんが、いろいろと親切に教えてくれた。」

直哉が東京を後にしたのは父との不和が原因とされています。志賀家は代々相馬家の家老職を勤めてきたという家柄であり、父は総武鉄道の創始者の一人という資産家でした。不和に至る過程には様々な経緯があったのですが、その直接の原因は名家の子息が家柄も無い女中と結婚の約束をした事にあり、その事は作品にも取り入れられて克明に描かれています。

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(「志賀直哉旧居」近くの階段。尾道は坂と階段の町である。)

「それから斜めに一町ほど登って行って、彼はまた三軒長屋で、東の端が貸家になっているのを見つけた。見晴らしは前の家よりよかった。ここにも親切なおばあさんがいて、彼のきく事に親切に答えてくれた。彼には今の子供でも、かみさんでも、このばあさんでも、皆いい人間に思えた。こういうたまたま出会った二、三人の印象からすぐ、そう思うのは単純すぎる気もしたが、やはり彼はそれからこの初めての土地になんとなくいい感じを持った。」

志賀直哉も書いているとおり、尾道の人は旅人に対して親切な人が多かったですね。出会ったのは、タクシーの運転手、旅館の従業員、お寺の住職など商売柄人あしらいが上手い人達がほとんどだった事もあるでしょうけれども、根っからの親切さはこの土地ならではの美質なのだろうと感じました。

旅先においては、土地の人から親切にされると町そのものにも良い印象を持つというのは、いつまで経っても変わらない真実だと思います。

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(「おのみち文学の館・文学記念室」からの景色。)

「景色はいい所だった。寝ころんでいていろいろな物が見えた。前の島に造船所がある。そこで朝からカーンカーンと金槌を響かせている。同じ島の左手の山の中腹に石切り場があって、松林の中で石切り人足が絶えず唄を歌いながら石を切り出している。その声は市のはるか高い所を通って直接彼のいる所に聞こえて来た。」

暗夜行路の中でも白眉とされるこの一節に記された光景は、千光寺山の中腹にある「志賀直哉旧居」とその近くにある「おのみち文学の館・文学記念室」にて、ほぼその描写どおりに見る事が出来ます。

まず、対岸の中央に見える建物が造船所です。今でも稼働しており、文章中にもあるとおり、カーン、カーンという作業中である事を示す音が海を渡って聞こえてきます。

左端の山の中程で岩が露出しているあたりが、かつての石切場の跡と思われます。このあたりは古くから石の産地でもあり、大阪城の石垣に使われた石もここから運ばれたものがあるのだそうです。でも、この石切人足の唄とは、どんなふうだったのでしょうね。ちょっと聞いてみたかったという気がします。

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(「志賀直哉旧居」からの景色。)

「六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ごーんとなるとすぐコーンと反響が一つ、また一つ、また一つ、それが遠くから帰って来る。そのころから、昼間は向かい島の山と山との間にちょっと頭を見せている百貫島の燈台が光りだす。それはピカリと光ってまた消える。」

尾道には寺が多いので、夕暮れ時になると千光寺とは限らず、どこからともなく鐘の音が聞こえてきます。いかにも尾道らしい風情ですね。これが前島にこだまして返ってくると言うのですが、残念ながら今は他の騒音にかき消されるせいでしょうか、そこまでは判りませんでした。車の無い大正の頃なら、きっと良い具合にこだましていたのでしょうね。

なお、百貫島燈台は前島からさらに南の島にある灯台の事ですが、残念ながらこの場所からでは確認する事が出来ませんでした。ただ、もう少し上の千光寺山から撮った写真にはわずかに見えていますので、後日掲載する事にいたします。と言っても、ほんの少しの光の点が写っているだけなのですけどね。

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(千光寺山からの夜景。)

「造船所の銅を溶かしたような火が水に映りだす。
 十時になると多度津通いの連絡船が汽笛をならしながら帰って来る。ともの赤と緑の灯り、看板の黄色く見える電灯、それらを美しい縄でも振るように水に映しながら進んで来る。もう市からはなんの騒がしい音も聞こえなくなって、船頭たちのする高話の声が手に取るように彼の所まで聞こえて来る。 」

この造船所は日が暮れてからもまだ操業しているらしく、遅くまで灯りが付いていました。さすがに船員達の話し声が聞こえてくる事はありませんでしたが、夜中に町が寝静まった頃になると、尾道水道を通る汽船の音が良く響いていました。町の人たちは慣れているでしょうけれども、最初の夜に正体不明の機械音が聞こえて来た時には、何事だろうと不安になったものです。

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(志賀直哉の住んでいた部屋。机と文箱、それに旅行カバンだけが置いてある。)

「彼の家は表が六畳、裏が三畳、それに土間の台所、それだけの家だった。畳や障子は新しくしたが、壁はきずだらけだった。彼は町から美しい更紗の布を買ってきて、そのきたない場所を隠した。」

「とにかく家は安普請で、ガスストーブとガスのカンテキとをいっしょにたけば狭いだけに八十度までは温める事ができたが、それを消すとすぐ冷えてしまう。寒い風の吹く夜などには二枚続きの毛布を二枚障子の内側につるして、戸外からの寒さを防いだ。」

「畳は新しかったが、台が波打っているので、うっかりすわりをみずに平ったいらっきょうのびんを置くと、倒した。その上畳と畳の間がすいていて、そこから風を吹き上げてくるので、彼は読みかけの雑誌を読んだところから、ちぎりちぎり、それを巻いて火箸でそのすきへ押し込んだ。」

志賀直哉の実家は先に書いたとおり資産家であり、こういう棟割り長屋での暮らしは初めての事だった様ですね。この長屋での暮らしは物珍しくもあり、なかなか楽しめた様ですが、尾道市のパンフレットに依れば、この年に直哉が支払ったガス代は尾道市で2番目の額だったそうで、安普請の家に住みながらも、その生活は資産家の子息らしく、かなり贅沢なものだった事を伺わせます。

この志賀直哉旧居では、ここで書かれたという「清兵衛と瓢箪」を印刷したチラシを受け取りました。当時尾道で流行していたという瓢箪趣味にヒントを得たもので、子供ながら瓢箪の目利きである清兵衛と、それが気にくわない父親との確執を描いた短編です。これは直哉と父との関係を題材にしていると言われ、小説家としての自分の価値を認めようとしない父に対する非難を表した作品とされます。

展示室ではこの作品にちなんだ瓢箪が置かれていたのですが、今の尾道には瓢箪文化というものは残っていないそうですね。一説には四国に渡る船の中で聞いた話が元になっているとも言い、もしかすると現実の尾道とは直接には関係ない話なのかも知れないですね。

直哉が尾道を去ったのは、作品中にもあるとおり中耳炎になった事がきっかけだった様です。当時の尾道には専門医が居らず、治療の為には広島か岡山に出るしかなく、それならばいっそ東京に帰ろうという事になった様です。

この尾道において、直哉は「暗夜行路」の前身である「時任謙作」に着手していました。題材は父と子の確執にあったのですが、現実の葛藤が大きすぎて、あまり書き進める事が出来なかったそうです。そして、数年後に父と和解するとさらに書く必要が無くなり、一時はお蔵入り寸前になったそうですね。しかし、ある時自分が祖父の子であったとしたらという発想が浮かび、主人公をその境遇に置く事で「暗夜行路」という作品に仕上げる事が出来たとされます。

書き始めてから実に12年を要したという長編が世に出たおかげで、私たちはこの美しい風景を、居ながらにして思い浮かべる事が出来ます。今回の旅行ではそれを実地に見る事が出来た訳で、それだけでもここに来ただけの価値はあったと思っています。

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2007.08.11

夏の旅・尾道紀行 ~林芙美子・放浪記~

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「私は宿命的に放浪者である」

「放浪記」の冒頭で自らをそう規定した林芙美子は、文字通りその半生を流浪の旅に費やしました。北九州に生まれた芙美子は、幼少の頃から行商人の義父に連れられて九州各地を転々とし、12歳の時に尾道にたどり着きます。それまでろくに学校にも通えなかった芙美子は、ようやくこの地で安寧の日々を迎える事が出来ました。

2年遅れで小学校(尾道第二尋常小学校(現・土堂小学校))に5年生として入学し、尾道高等女学校を卒業して上京するまでの6年間は、作家として必要な素養を積むと共に、初恋の相手と巡り会うなど多感な少女時代の舞台となり、林文学の原点となったと言われます。

「海が見える。海が見える。五年振りに見る、旅の古里の海!汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が、提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、山は若葉だ、海のむせた緑色の向うに、ドックの赤い船が、キリキリした帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれた。」

前半生において最も長い時間を過ごしたこの町を芙美子は旅の古里と呼び、その生涯の内で何度となく訪れたと言います。彼女にとって何より懐かしい風景は、川の様な海と山に挟まれた尾道の光景だったのでしょうね。

この芙美子の銅像は、尾道駅から東に数分、商店街のアーケードの入り口にあります。ただし、この像のイメージは芙美子本人ではなく、映画「放浪記」で主演した高峰秀子のものなのでしょうね。

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その商店街の入り口近くには、彼女にちなんだ「喫茶 芙美子」という店があります。この店の裏に芙美子が実際に暮らした家が保存されており、店そのものが一種の記念館になっているのですね。メニューもまた芙美子の作品にちなんだ名が付けられており、レギュラーコーヒーが「放浪記」、高級ブレンドコーヒーが「風琴と魚の町」といった具合です。

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この家が芙美子とその一家が暮らした家です。元は近くの渦潮小路という場所にあったものを、ここに移設した様ですね。

尾道を有名にした「放浪記」ですが、実はほとんど町の様子は描かれていません。主人公が尾道に帰ってきたのは、自分を捨てて故郷に去った初恋の相手と会う為であり、その主な舞台は因島となっています。尾道の町やこの家の様子は、幼少時代の自分をモデルとした「風琴と魚の町」という作品の中に描かれています。

「この家の庭には、石榴の木が四五本あった。その石榴の木の下に、大きい囲いの浅い井戸があった。二階の縁の障子をあけると、その石榴の木と井戸が真下に見えた。」

残念ながら石榴や井戸までは復元されていませんが、今にも二階の窓が開けられて、芙美子が顔を出しそうな錯覚を覚えます。

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「縁側には、七輪や、馬穴や、ゆきひらや、鮑の植木鉢や、座敷は六畳で、押入れもなければ床の間もない。これが私達三人の落ちついた二階借りの部屋の風景である。」

ここに描かれたとおり、2階はがらんとした部屋に机が置かれているばかりであり、予備知識が無いと屹度がっかりする事でしょうね。でも、この一節を知っておくと、なるほど彼女の描写は確かなものだったと納得が行く部屋なのです。


かつては人気作家として一世を風靡した林芙美子ですが、最近ではその作品を読んだ事が無い人が増えている様ですね。それに「放浪記」と言えば、むしろ森光子を連想する人がほとんどではないでしょうか。この店も芙美子縁というだけでは経営的に楽にはならないらしく、一度は閉店を余儀なくされた様です。その後経営者が代わって再開した様ですが、芙美子を知らない世代が増え、来店者も高齢化し、営業的には苦戦している様ですね。

しかし、この店の女主人はとても親切な人で、感じの良い方でした。今回の旅行で最初に会った尾道人であり、この町の印象が良くなったのはこの人のおかげと言って良いでしょう。ホームページに依るとネット販売にも力を入れて行くらしく、末永く芙美子縁の店を守るべく頑張って欲しいものだと思います。


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2007.08.10

夏の旅 

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川の様に見えて実は海。川向こうに見えて実は島。だまし絵の様な不思議な光景。

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海に落ち込む様に迫る山。その山腹を這い、ほとんど頂上にまで迫る町並。そして、今でも市民の足として生き続ける渡し船。

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ここはまた坂の町。その坂が縫う様に広がる家並みと数々の寺院群。


今年の旅の舞台は、この不思議な魅力で一杯の町、備後・尾道です。

この町を一括りに紹介するのは難しい。そこでいくつか角度を変えながら、尾道を浮き彫りにしてみたいと思います。

今日はまずはイントロダクションまで。明日は文学の町・尾道を紹介する予定です。

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2007.08.06

京都・洛東 ちりめん山椒 ~あり本~

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京都に行けば、あちこちでみかけるのがちりめん山椒。簡単に言えば、醤油で煮込んだ山椒風味のちりめんじゃこですが、佃煮の様にこってりとはしておらず、あくまでさらりとした風合いなのが特徴です。

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今回買ってきたのは東山・下河原にある「あり本」というお店です。一見してただの町家であり、提灯が無ければここが店である事は判らずに過ぎてしまう事でしょう。玄関を入ると雅な造りになっており、かつてはお茶屋であった事を伺わせます。

ご夫婦で経営されているらしく、すべて手作りであり、宮崎産のじゃこ、紀州産の山椒、小豆島産の酒と味醂など、厳選した材料を使っているそうです。

味の方はやや濃いめですが、山椒の風味が素晴らしく、まだじゃこも柔らかく仕上がっており、ご飯の友にはぴったりですね。また、日本酒の肴にも合いますよ。

一番安いお徳用が一袋900円と少し高めですが、それでも買うだけの値打ちはあると思います。京都のおみやげに一袋いかがですか。

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