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2007.06.24

新選組血風録の風景 ~虎徹その6~

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(新選組血風禄概要)

(近藤が鴻池虎徹を始めて実戦で使ったのは、文久3年の夏であった。)

(その頃、近藤は祇園石段下の茶屋「山絹」に通う様になっていた。たいていは、お忍びで一人で行く。)

(帰路は駕籠である。四条橋に差し掛かったとき、前方に人影がさした様に思えたが、姿は確かめられない。近藤は念のために刀の鯉口を切った。)

(当時の四条橋は現在の様な大橋ではなく、土橋程度の小橋が中洲を中心に2つ架かっていた。)

(駕籠が中洲に差しかかったとき、にわかに人の気配が動いた。近藤はとっさに駕籠の左に転げ落ち、立ち上がった時には虎徹を抜いている。)

(相手は10数人の剣客だった。壬生の近藤であると名乗ったが、黙殺されている。)

(近藤は逃げようとした。逃げながら目の前の相手の一人を袈裟懸けに斬った。ところが、手応えがおかしい。のみならず、相手は転がりもせずに刀を振り回して向かってくる。近藤は再度同じ肩を斬った。今度は相手は倒れたが、すぐに起き直って逃げ出した。)

(斬れぬと、近藤にしてはめずらしく逆上した。)

(敵の一人が槍で突いてきた。近藤はよけ損ない着物の袖がちぎられたが、巧みに相手の手元に付け入り、激しく相手の胸を突いた。しかし、相手は転ぶばかりで、死にはしない。)

(実は相手は鉢金を被り、鎖襦袢を着ていたからに過ぎないのだが、逆上している近藤にはそれが判らなかった。なぜ切れ味の鋭い日陰町虎徹を佩用しなかったかと悔いた。物切りの良さで知られる虎徹が切れないはずがない。とすれば、日陰町虎徹こそが本物で、鴻池虎徹は偽物という事になる。)

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(西の橋を渡り終わった時、最後の敵が襲ってきた。近藤は彼ならではの気組みで相手を圧倒して相手を怯ませ、その隙に土手を駆け上がった。土手の下は先斗町である。先斗町を駆け抜けて町会所に入った時には、いつもの近藤に戻っていた。)

(近藤は町役人に、壬生まで行って馬を寄越す様に言ってくれと頼み、自らは会所の奥で横になった。側には抜き身の刀が放り出してあった。)

(町役人が恐る恐る挨拶に来た時、近藤は珍しく冗談めかして、刀が鞘に嫌われて中に入れて貰えない、野立ちだと言ったという。しかし、やがて屯所に戻った頃には曲がった刀も元に戻り、鞘の中に収まっていた。)


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・山絹と近藤

「山絹という御茶屋については、「新選組始末記」にその名が見えます。真偽不明としながら、病死したはずの深雪太夫が実は生きていて、近藤勇の研究家であった鹿島淑男という人物に語り残したという話が掲載されており、その中に山絹の事が記されています。」

「山絹は祇園石段下にあり、近藤のみならず新選組幹部が出入りし、まるで寄り合いの様になっていました。その中で、近藤は山絹の養女であったお芳と良い仲になり、子供までもうけたと記されています。」

「余談ながら、近藤の女性関係については、島田魁の証言などから、三本木の駒野、植野、島原の金太夫、さらには深雪太夫の妹お孝などと関係があったと事が知られています。」

「新選組始末記に収録されている深雪太夫の逸話に依れば、これらの女性のうち、お芳、駒野、お孝に子供が出来、駒野の子は出家して僧侶に、お孝の子は芸者となって馬関に行き、伊藤博文などの贔屓を受けたとあります。」

「さらに余談になりますが、近藤の娘が晩年の永倉新八と出会ったという話も伝わっています。娘は女義太夫「山田音羽」といい、近藤の娘であると名乗って、永倉の下を訪れました。彼女は永倉が近藤の写真を所持していると聞き、その写真を接写させてもらうべく訪ねてきたのです。」

「音羽が近藤の娘であるという証拠は何も無かったのですが、永倉はその面差しが近藤と似ていた事からその話を信じ、写真を貸し与えました。後に音羽から写真が返却された時に自分の写真も同封していたらしく、今も杉村家(永倉の家系)に残されているそうです。この写真が平成16年8月19日付けの東京新聞に掲載されているのですが、確かにその目鼻立ちは近藤勇とよく似ていますね。」

「音羽の母親が誰であったかは不明とされていますが、もしかすると唯一消息の知れない山絹のお芳の子だったのかも知れません。ただ、深雪太夫の逸話そのものが真偽不明であるため、あくまで想像の域は出ないのですけどね。」

(作品の舞台の紹介)

・四条橋

「作品中では、四条橋は中洲を挟んだ二つの橋からなるとあります。確かに文久二年の古地図を見ると四条あたりの鴨川には大きな中洲があり、橋は二つに分かれています。たぶん作者はこの地図を見て、この作品に反映したのでしょうね。」

「しかし、調べてみると四条橋はその5年前の安政4年に架け替えられており、その時の絵図を見ると立派な一本の橋になっていて、中洲はありません。また、別の文久三年と記された古地図を見ると、やはり四条大橋は一本の橋として記されており、ここでも中洲は見あたりません。」

「どうやら文久二年の地図がちゃんと改訂されておらず、架け替え前の四条橋をそのまま載せていた可能性が高い様ですね。江戸時代のちょっとした手違いが後世の小説に影響を与えた訳ですが、場面設定としては非常にドラマチックになっており、好結果を産んだと言えそうです。そのぶん誤解も与えてしまっているので、結果オーライとも言い切れないのですけどね。」

・先斗町

「先斗町(ぽんとちょう)は元は鴨川の河原だった場所で、1670年(寛文十年)に護岸が築かれた事をきっかけに宅地化しました。東山を望む絶景の地であった事から水茶屋が建ち始め、やがて非合法の歓楽街となって行きます。何度となく取り締まりが行われたのですが、1859年(安政6年)に至って芸妓家業の公許が下り、晴れて花街として認められました。この作品の舞台となっている文久三年はその4年後にあたり、きっと華やかな新興歓楽街として賑わっていた事でしょうね。」

「先斗町の語源には諸説があるのですが、最もよく知られているものとしては、ポルトガル語で「先端」を意味するポンタから来ているとする説があります。すなわち、元は中洲で先が尖った様な地形であったことからポンタ町と呼ばれ始め、後にそれが先斗町になったと言います。」

「この町の特徴は道幅が狭い事にあり、他の花街とは際だって異なる先斗町独自の風情を形作っています。また、木屋町との間をつなぐ路地もあり、ちょっとした隠れ家気分も味わえますよ。ただこれだけ狭いと、大規模な災害が起こった時には、二次被害が怖い様な気もしますね。」

(参考文献)

子母澤寛「新選組始末記」、歴史読本2004年12月号「特集 新選組をめぐる女性たち」、光村推古書院「京都時代MAP」

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