新選組血風録の風景 ~虎徹~
(新選組血風録概要)
(文久3年正月のある日、愛宕下の日陰町にある相模屋伊助の店に、一人の武士が入ってきた。年は30前後、丸に二ツ引両の紋所の羽織を着たその武士は、虎徹はないかと訊ねてきた。あいにく店には置いてなかったが、伊助は取り寄せるつもりで、その武士の心積もりを聞いてみた。武士は20両と言う。いまどき20両で虎徹があるはずも無かったのだが、伊助は顔には出さずに注文を受けて届け先を聞いた。武士は試衛館の近藤と名乗り、火急にと念を押して去った。)
(伊助はすぐに同業者に手配して、虎徹を探し始めた。しかし、その値頃の虎徹は容易に見つからない。)
(虎轍は、正しくは長曽禰虎徹入道興里といい、越前の人である。元は優れた甲冑師であったが、大阪の陣が終わって甲冑の需要が無くなると、甲冑師に見切りを付けて刀鍛冶に転向した。これが50歳の時で、それから亡くなる70余歳までの間に前人未踏の境地を開いて、名人と呼ばれるまでに至っている。)
(虎轍の姿は、実はあまり良くない。しかし、鋭利な事では平安・鎌倉の古鍛冶も及ばないとされ、中でも「石灯籠切」と呼ばれる名品は、石灯籠を切っても刃こぼれ一つ起こさなかったと言われている。)
(江戸期を通じて虎轍の評判は高く、心掛けのある武士は争って虎轍を求めた。その需要の高さにつけ込んだ偽物も多く作刀され、今の世に至るまで横行している。)
(近藤が虎轍を求めたのは、浪士組に応募した事がきっかけであった。その支度金としてあてがわれた20両を使って、名のある名刀を買おうとしたのである。近藤に虎轍を勧めたのは山南であった。山南は虎轍の試し切りの話を伝え聞いており、その切れ味の凄まじさを近藤に教えたのである。)
(正月も半ば過ぎた頃、伊助が虎轍と称する刀を持ってきた。鞘から抜くと、二尺三寸五分という近藤の為に誂えた様な寸法である。朴強な中に、骨までかじりつきそうな凄みを秘めたその刀は、どこか近藤に似た感じがした。すっかり気に入った近藤は伊助に20両を与え、その刀を携えて上洛の途についた。文久3年2月8日の事である。)
・近藤家の紋所
「この作品は、冒頭からおかしな事が書かれています。それは近藤の紋所の事で、丸に二ツ引両とあるのですが、実際には丸に三つ引き(又は丸の内に三つ引き)でした。新選組始末記の記述にあるのですが、天寧寺の墓には丸に三つ引き、竜源寺の墓には丸の内に三つ引き(丸の内側に縁が付いている)の家紋が刻まれており、間違いはないと思われます。この部分は作品の伏線という程のものでもなく、恐らくは作者の単純な思い違いなのでしょうね。」
・虎徹について
「長曽禰虎轍入道興里は、正確には近江国佐和山の生まれで、幼少期に関ヶ原の戦いがあり、戦乱を逃れて越前(金沢とも)に移りました。作品にあるとおり、始めは甲冑師として身を立てていたのですが、50歳の時に刀鍛冶を志して江戸に出たとされます。」
「当時としては老齢と言うべき年齢での転向でしたが、元々甲冑師として鉄の鍛錬の技術を持っていたからでしょう、刀鍛冶として次第に頭角を現し、遂には名人と謳われる境地にまで達します。彼は古い鉄を溶かして刀の原料としたことから、始めは古鉄と名乗ったとされます。さらに年を追うごとに虎徹(はねとら)、乕徹(はことら)と銘に使う文字を変えています。」
「虎徹は、公儀御様御用(刀の試し切り役)の山田朝衛門が定めた刀鍛冶のランキング「懐宝剣尺」において、最上大業物の筆頭とされた事から人気が沸騰し、需要が逼迫したため偽物が多く作られました。虎徹を見たら偽と思えとは作品中にもある言葉ですが、今でも市場に出回る虎徹の多くは贋作なのだそうですね。」
「近藤が虎徹と称する刀を使っていた事は、池田屋事件を伝える彼の書簡の一節にある事から事実と思われますが、一介の道場主に過ぎなかった近藤が大名道具に等しい本物の虎徹を買えるはずもなく、おそらくは偽物であったろうと言われています。このあたりは物語が進むにつれて触れていく事になります。」
・浪士組の支度金
「ところで、作品中では浪士組の支度金が20両となっていますが、実際には10両であったと言われています。これは当初50両の支度金で50名を集める予定で2500両の予算を組んでいたところ、実際に集まったのは250名に達したためでした。予定の5倍の人数になってしまったために、支度金も5分の1にせざるを得なかったという訳ですね。」
「これには異説もあり、当初から10両の予定だったとする説もあります。坂本龍馬が勝海舟の談話として伝えたもので、2人扶持で金10両を支給するとして浪人を募集したところ、たちまち4、50人が集まったとあります。ちなみに同じ談話の中で海舟は浪士組の結成に反対しており、これは松平春嶽の大失策であるとまで批判しています。海舟は新選組に対してあまり好意的とは言えなかったのですが、その感情は浪士組結成の当初から萌芽していたと言えるのかも知れません。」
(作品の舞台の紹介)
「浪士組が江戸を出立したのは文久3年2月8日の事でした。それから中山道を通って京都に着いたのは2月23日の事です。当時、京都に入って最初に渡るのがこの三条大橋でした。」
「この日の前日、等持院にある足利将軍家の木像の首が持ち去られ、翌23日の未明に三条河原に晒されるという「足利三代木像梟首事件」が起きています。」
「新選組!では、近藤達が入京した時に三条大橋でこの事件を目撃するという設定になっていましたが、浪士組はその日の朝に大津を出立しており、タイミング的にはそういう事があってもおかしくはなかったのですね。」
「この事件は在京浪士による関東浪士団に対する挑発とも言われており、さらに言えば幕府側に付いたとも受け取れる清河八郎に対するメッセージだったのかも知れません。」
「一方で、松平容保がそれまでの穏健路線を捨てて浪士弾圧に乗り出したのはこの事件が引き金になったとされており、その意味では新選組誕生のきっかけの一つとなった事件でもありました。もしもこの事件が無かったらまだ暫くは容保の穏健路線が続いており、新選組の誕生も無かったかも知れません。近藤達がこの木像と出会っていたとしたら、極めて運命的なシーンだったと言えるのでしょうね。」
(参考文献)
木村幸比古「新選組全史」、「新選組と沖田総司」、子母澤寛「新選組始末記」
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