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2007.06.25

新選組血風録の風景 ~虎徹その7~

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(新選組血風禄概要)

(刺客に襲われた翌日、近藤は斉藤を部屋に呼んだ。そして、鴻池虎徹を見せて、これは銘も切ってあって本物の様に見えるが、実は偽物だと言った。しかし斉藤が見るところでは、堂々たる真性の虎徹である。)

(近藤が言うには、斉藤が清麿と言った刀は骨に吸い込む様に切れたが、この刀は切れない。ゆえに清麿こそ虎徹で、この刀は偽物であるという。)

(近藤にすれば、彼の虎徹は既に京都の浮浪の間で知られ始めている。その宝剣が今さら切れないとあっては困るのである。だからこそ、清麿こそ虎徹であるという奇論を展開しているらしい。)

(斉藤はもう一度虎徹を見せてもらい、天眼鏡を取り寄せて子細に調べてみた。すると、小さな刃こぼれが無数に見つかった。)

(斉藤が、どうやら鎖を着た相手を斬られた様だと指摘すると、近藤はみるみる不機嫌になり、本来の虎徹ならば、鎖ごと切れるはずだと言い切った。)

(その後、近藤は日陰町虎徹と鴻池虎徹を交互に使った。しかし、なぜか鴻池虎徹を持っていると事故が多い。)

(近藤は土方に、やはり鴻池のは虎徹ではないと言った。土方は微笑で答えた。)

(これが近藤の思考法であった。虎徹が信仰であり、通常なら清麿の方が虎徹より切れるというところを、何が何でも切れる方を虎徹にしてしまわなければならないのである。)

(近藤の時勢眼もこれであった。徳川が信仰であり、その価値観を損なう者は容赦なく切り捨てる。)

(芹沢派が粛正され近藤が隊の実権を握った頃、土方は隊士募集のために江戸に戻った。)

(ある日、土方は相模屋伊助を呼んだ。使いを受けた伊助は仰天した。実は、あの刀は虎徹ではないと知りつつ、どこか姿が似ていると思い、客の無智につけ入って売り込んだのである。)

(伊助はすっかり覚悟を決め、家族と水杯を交わして土方の下を訪れた。ところが、意外な事に土方は良い刀を売ってくれたと礼を言い、伊助を酒肴でもてなしたばかりか、5両の礼金すら払った。)

(それから数日の内に、近藤の虎徹の雷名が江戸中に轟いた。広めたのは伊助である。彼は自家の宣伝の為に広めたのであるが、同時に新選組の宣伝にもなっている。土方はそこまで見抜いて芝居を打ったのであった。)

(土方が京都へ帰ると、斉藤が見慣れぬ刀を差していた。聞いてみると虎徹だという。)

(彼が言うには、二十日ばかり前に御旅所の前の夜店で見つけたらしい。錆は浮いているが、ただものでは無いと感じ、5両と言うところを3両にまで値切って買ったという。そして研ぎ屋に鑑定を依頼したところ、紛れもない虎徹であるという返事があった。)

(土方はその刀を近藤に渡す様に頼んだ。新選組の武威を高めるには、利剣虎徹は一つであった方が良いという判断からである。斉藤は素直に土方の依頼に従った。)

(近藤の虎徹は3本になったが、土方の助言により、斉藤の虎徹は鴻池虎徹と共に死蔵した。)

(元治元年6月5日の夜、新選組は三条小橋にある池田屋を襲撃した。この時、真っ先に屋内に飛び込んでいったのが近藤である。彼は浪士達が二階に居るとみるや、階段を一気に駆け上った。)

(この音に最初に気付いたのが土佐の北添佶磨であった。彼が何気なく階段を覗いた時、駆け上がってきた近藤と鉢合わせをしそうになった。次の瞬間、近藤の日陰町虎徹が一閃した。北添は頭を切られて、血まみれの肉塊となって階段を転げ落ちた。)

(斬れる、そう感じた近藤はさらに奥へと突き進んだ。彼は虎徹には憑きものがあると信じている。)

(池田屋事件の後で、近藤が故郷に送った手紙の一節にこう記されている。)

(永倉新八の刀折れ、沖田総司の刀は帽子折れ、藤堂平助の刀はささらのごとく、倅周平は槍を切り折られ、下拙刀は、虎徹故にや無事に御座候。)

・近藤の時勢眼

「この下りは、近藤ファンにはいささか評判が悪い様ですね。あたかも、近藤が少し脳の足りない愚物の様に見えなくもないからです。しかし、実際の近藤はそんなに単純な人物ではありませんでした。」

「この作者の一連の作品を読んでいると、新選組を引っ張っていたのは土方であったかの様な印象を受けますが、実際に大きく力を振るっていたのは近藤でした。尊皇攘夷派集団として出発した新選組は、やがて幕府護持のための尖兵へとその性格を変えていきますが、その流れを作ったのは他ならぬ近藤自身の思想的変化です。」

「池田屋事件を経て、新選組の地位は公武合体派の中において飛躍的に高まりました。当時はまだ単純攘夷の思想を捨てていなかった近藤でしたが、やがてそれが不可能である事を悟ります。しかし、そこで新選組を捨て去る事は許されない程に、彼と隊の地位は重みを増していました。新選組を維持していくためには、公武合体派の重鎮として、その尖兵たらざるを得なかったのですね。」

「近藤は佐幕派の最たる者と言われます。しかし、彼にすれば将軍を任命したのは朝廷であり、幕府に忠義を尽くす事は、同時に朝廷の権威を守る事でもありました。すなわち、誰にも増して尊皇派でもあったのですね。それは奇矯な思想でも何でもなく、当時としては筋の通った正論でした。彼は決して時勢が見えない愚か者ではなく、高潔な常識家であったと言うべきなのではないでしょうか。」

・斉藤の虎徹

「斉藤が近藤に虎徹を譲ったという下りは、新選組始末記にある記述に沿って書かれたものです。では、その記述の根拠となったものは何かと言えば、斉藤自身が語り残したものでした。明治43年から44年にかけて東京毎日新聞に掲載された「剣侠実伝 近藤勇」という読み物があるのですが、その第30回に斉藤の回想録が収録されているのです。」

「そこには、斉藤が古道具屋で買った無銘の刀を近藤に譲ったところ、その切れ味の良さから近藤自信が虎徹と鑑定し、愛用していたと記されています。新選組始末記とは微妙に異なりますが、虎徹の由来に諸説ある中で唯一出所がはっきりとしており、最も信憑性が高い様な気がします。大名道具と言われた虎徹を、近藤が持っていた理由も無理なく説明出来ますからね。」

・池田屋と虎徹

「北添の階段落ちについては、「池田屋異聞その15」で書いたとおり、全くのフィクションです。新選組は何十人もの志士を斬った様に言われますが、実際に確認出来るのは10数人に過ぎません。その中でも、出会い頭に問答無用で切り捨てたという例は皆無です。」

「池田屋事件における虎徹の無事を伝えるのは近藤の有名な書簡ですが、実は彼の刀も又、激戦に晒された結果、ささらのごとくになっていたという説もあります。真偽の程はともかく、この書簡の一節によって近藤の虎徹が有名になった事は確かでしょうね。」

「冒頭の写真は、平成18年の祇園祭の宵々々山における池田屋跡です。文久三年6月5日の夜、近藤はこの池田屋において、虎徹と共に勝敗不明の戦いを続けていたのでした。祭りの夜にこの地に立つと、今にも近藤の気合いが空から聞こえてくる様な気がします。」

(参考文献)
伊東成郎「閃光の新選組」、松浦玲「新選組」、子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組と沖田総司」

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