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2007.06.20

新選組血風録の風景 ~虎徹その2~

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(新選組血風禄概要)

(新選組が幕府の公認でかつ官製によらない団体(松平肥後守御預浪士組)として発足したのは、文久3年3月の事である。発足当時局長は3名で、筆頭が芹沢で新見がこれに次ぎ、近藤はさらにその次席であった。この頃には近藤の立場も軽く、また隊士も少なかったので、自ら隊士を連れて市中巡察に出る事も多かった。)

(この日の巡察には、山南、沖田、それに下僕の忠助が従っていた。夕刻、祇園会所で町役人から付近の出来事を聞き、河原町御池の長州藩邸の前を通って河原町通を南下し、土州藩邸前まで来たとき、町が昏くなった。)

(忠助が提灯に灯を入れようと燧石を打ったが、どうした訳か上手くいかない。そこで沖田が土州屋敷のはす向かいにある寿司屋で火を貰おうと、格子戸を開けて店の中に入った。)

(店の中には5人の武士が居た。彼らはいきなり入ってきた沖田に驚いたらしく、一斉に振り向いた。沖田は表の蒸籠にはすでに火が無いのに、5人の武士が寿司の出来上がりを待っている事に不審を抱いた。)

(彼らの内の一人が居丈高に沖田に誰何した。沖田が提灯の付け火を貰いに来ただけですと答えると、さらに何藩だと畳みかけて来る。やむなく新選組副長助勤沖田総司と答えると、彼らは一斉に刀を引きつけた。沖田は店の迷惑になるから表で相手をすると言うと、5人の中の年がしらの人物が仲間を眼で押さえ、御無礼したと頭を下げた。判って貰えばそれで良いですと言い捨てて、店を出る沖田。)

(沖田は路上で提灯に灯を入れつつ、たった今の一件を近藤に報告した。そして、近藤に近くの辻番所で待つ様にと言い、自らは彼らの動向を見張るべく後に残った。近藤は錦小路の辻番所へと入った。)

(間もなく沖田が駆け戻ってきて、散ったらしいですと報告した。今夜こそ浮浪を狩れるかと思っていた近藤は、不快な顔をしてみせた。まだ京に上って日が浅く、これまで人を斬る機会に恵まれていなかったのである。)

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・御預の意味とは

「新選組発足当時の法的位置づけはかなり曖昧なもので、松平肥後守御預というものでした。松平肥後守とは京都守護職である松平容保の事ですが、彼が近藤達の身柄を預かるとはどういう意味なのでしょう。」

「松浦玲氏の「新選組」に依れば、御預の「御」とは将軍に対する敬語であり、将軍が集めた浪士組の一部を松平容保が預かるという意味であるとあります。つまりは法規に基づく官製の部隊である浪士組から外れた近藤達を、容保が法規に依らずに預かり置くという理解になるのでしょうか。すると、作者が記した公認ではあるが官製ではないという表現は、初期新選組(壬生浪士組)の微妙な法的地位を端的に表した言葉と言えるのかも知れません。」

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・壬生浪士組の任務

「近藤達が京都に残るに当たって容保にまで提出した建白書に依れば、彼らは将軍警護の為に残るのであり、当面の役割として二条城周辺の夜回りでも申しつけて貰えればありがたいと記されていました。これに対して守護職からは、奸物を誅戮する様にという内命を受けたと近藤の書簡にあり、非公式ながらも彼らが市中巡察を行う根拠となっています。ただし、彼らが正式に市中巡察を命じられるのは8・18の政変以後の事であり、それ以前にどこまで権限を委ねられていたかは定かではありません。」

「記録に残るこの時期の警察活動としては、大阪において不逞浪士を捕縛したという事件があります。6月2日に大阪に天下浪士と称する者が乱暴を働いているとの報に接した壬生浪士組はさっそく下阪し、翌3日朝に二人の浪士を捕らえて大阪町奉行所に引き渡しています。この後、大阪角力とのけんか騒ぎを引き起こすのですが、その詳細は「芹沢鴨の暗殺その10」に記したとおりです。」

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(作品の舞台の紹介)

「新選組初期の巡察区域は判っていませんが、見廻組発足以後は主として四条通から南側を担当していました。この作品における巡察区域は作者によって創作されたものですが、4人で廻るにはかなり広いですね。」

・祇園会所跡

「写真は作品中に出てくるポイントを追ったもので、最初の一枚は祇園会所跡です。いわゆる祇園石段下にあたり、正面の通りが四条通、左右の通りが東大路通になります。会所があったとされるのは交差点の左上隅のあたりで、この写真だとローソンの看板が目立ちますね。その向こうの三角屋根が交番で、そこから隣の弥栄中学にかけての範囲に会所があったのではないかと考えられています。」

「町会所とは町の自治のために設けられた施設であり、町内の会合などに使われるほか、普段は管理人として町用人が詰めていました。官設ではないものの町内共有の公の場所であり、その後に交番や学校を作ったというのは、まさにふさわしい跡地利用だったと言えそうですね。」

・長州藩邸跡

「次いで、近藤達は長州藩邸の前を南下しています。祇園から河原町御池までは距離がありすぎて描写が不自然なのですが、縄手通あるいは木屋町通を北上して二条にまで至ったものなのでしょうか。いずれにしてもこのあたりは尊攘派の巣窟と言われた地帯であり、巡視経路としてはふさわしいものの、たった四人で巡察を行うのはかなり危険な行為だった様に思われます。」

「長州藩邸跡は現在の京都ホテルオークラが建つ場所にあたり、現地には写真の石碑と共に長州藩邸の概要を記したプレートが設置されています。ただ、この石碑は植え込みの中に埋もれているので、むしろ桂小五郎の銅像の方が目印としては向いているかも知れないですね。」

・土佐藩邸跡

「土佐藩邸跡は旧立誠小学校にあたり、木屋町通に石碑があります。あたりの地形は全く変わっていますが、当時を偲ばせるものとして、かつて藩邸内にあったとされる土佐稲荷・岬神社があります。」

「作品に描かれた河原町通の現状は最後の写真のとおりで、京都きっての繁華街となっています。当時の道幅は現在の東の歩道程度であったと推定されており、この写真の車道部分はすべて家屋が建っていたものと思われます。」

・寿司屋の蒸籠

「この作品中に寿司屋が出てきますが、現状に当てはめるとすると「ひさご寿司」がそれに該当します。無論、これは作者による創作であり現実の店とは無関係であるとは思われますが、もしかすると実際に河原町通を歩いたときにひさご寿司に気づいていて、作品に取り入れたのかも判りません。」

「この中で寿司屋の店先に蒸籠があると描写されているのですが、これは関西特有の蒸し寿司のための蒸籠と思われます。おそらく関東の人にはぴんと来ないでしょうけど、蒸籠で蒸して暖ためてから食べる「ぬくずし」というものがあって、主として寒い季節の食べ物として好まれます。今でもひさご寿司のメニューの中に、冬季限定ながらちゃんと残っていますね。」

「でも京都に来て間もない沖田が蒸籠の火が落ちている事に不審を抱いた訳ですから、もしかしたら関東にも普通にあるものなのでしょうか。このあたりは私にとってちょっとした謎です。」

(参考文献)
松浦玲「新選組」、光村推古書院「京都時代MAP」、新人物往来社「新選組を歩く」、木村幸比古「新選組日記」

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コメント

私は長崎のしっぽく料理の店で蒸し寿司をいただきました。
暖かいおすしは珍しいとおもったのですが、京都にもあったんですね。

京都にはまだまだ知らないことがたくさんありそう♪(^◇^)

投稿: Milk | 2007.06.20 23:58

Milkさん、コメントありがとうございます。

私はまた関西特有の寿司かと思っていたのですが、
長崎にもあるのですね。

蒸し寿司を扱う店は、まだ他にもあったと思います。
どこも冬季限定とは思いますが、
長崎の味と比べてみるのも良いかも知れないですよ。

投稿: なおくん | 2007.06.21 22:26

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