新選組血風録の風景 ~虎徹その4~
(新選組血風禄概要)
(新選組を結成してから程なく、斉藤一が江戸から駆けつけて来て、加盟した。)
(斉藤は試衛館の食客で抜群に腕が立ち、流派こそ違ったが、近藤は沖田と共に直門同然に可愛がった。)
(父が明石浪人であった事から、自らも明石浪人と称している。入隊後は三番隊隊長を務め、新選組の主な戦闘のほとんどに参加した。近藤の死後は土方に従って函館まで行き、敗勢確実となった時、土方の説得を受けて脱出した。維新後は山口五郎と改名して、お茶の水師範学校の剣術教師を勤めた。)
(この斉藤は刀剣に目が利き、しょっちゅう古道具あさりをしていた。鴻池の事件の後、近藤は斉藤を自室に呼び、上機嫌で虎徹を見せた。)
(斉藤は手にとって、鞘から刀を抜いた。なるほど、近藤が惚れ込むだけあって、持っているだけでもぞくぞくしてくるほど使い心地が良さそうな刀である。しかし彼が見るところ、この刀は虎徹ではなさそうであった。)
(斉藤が言うには、虎徹ならば数珠玉と呼ばれる丸い焼刃が出ているはずだが、この刀にはそれがない。おそらくは源清麿だろうという。)
(清麿とは幕末きっての名工と言われた刀鍛冶で、つい数年前の嘉永末年に死んでいる。この人物は尊皇思想を持っており、幕臣のためには刀を打たなかったと言われている。一時長州に身を潜めていた事があり、尊攘派志士の間ではこの刀を持つ事が流行しているらしい。)
(近藤は内心騙された事に気が付いた。しかし、表情は変えずに、これは虎徹だと言い切った。)
(近藤が言うには、この刀はすでに新選組の虎徹として世間に広まりつつある。日ならずして、誰一人知らぬ者は居ないという事になるだろう。いわば新選組の宝刀であり、虎徹ではないかも知れぬが、虎徹として生き始めている。要は生かし方である。)
(そう語る一方で、尾張藩邸の松井老人を思った。あの老人は刀の知識はあっても、生かし様を知らない。)
・斉藤一について
「斉藤一は江戸で結成された浪士組には参加しておらず、京都で加盟したものと考えられています。では作品にある様に新選組(壬生浪士組)結成直後に江戸から駆けつけたのかとういうと、そうでも無いようです。彼は近藤達よりも先に京都に来ていた可能性が高いと考えられています。」
「斉藤が試衛館の食客であったらしい事は、浪士文久報国記事にその旨が記されていることから、ほぼ間違いないとされています。流派については一刀流、無外流、太子流などの諸説があり、残念ながら断定出来るほど明確にはなっていません。」
「出自については、彼の父は元は明石藩の足軽だったのですが、その家督を妹婿に譲り、自らは江戸に出て御家人株を買い、幕臣となっています。ですから、明石浪人というのは半ば本当、正しくは御府内浪人というべきなのでしょうか。」
「斉藤家に伝わる文書に依ると、彼は19歳の時に誤って旗本を殺してしまい、ほとぼりを冷ますために京都へ逃れたとあります。京都では父親のしるべであった吉田という人物が経営する道場に寄宿し、その腕を買われて代稽古などをしていた様です。」
「京都にあっても江戸との文通があったのか、近藤達の京都残留が決まるや、すぐに同志として加盟した様です。このあたりの事情があいまいなのですが、それ以後は三番隊組長として活躍した事は周知のとおりです。」
「この作品において、斉藤に関する略歴がメモ書き程度に記されているのですが、その中にある函館まで行ったとする記述は明らかな誤りです。同じ作者の小説「燃えよ剣」でも同様の設定になっているのですが、斉藤が新選組と行動を共にしたのは会津までであり、蝦夷地には渡っていません。」
「恐らくこれは、斉藤一諾斎という良く似た名前の別人をヒントに、作者が創作したストーリーではないかと考えられます。一諾斎は慶応4年に江戸で加盟した人で、一説には土方に従って会津から蝦夷にかけて転戦し、最後は松前藩主夫人を護送する様に土方から命じられて江戸に戻ったと言われています。実際には蝦夷には渡っておらず仙台で捕らえられた様なのですが、作者はこのエピソードを元に、斉藤一が改名して土方に従ったというストーリーを創作したものと思われます。あるいは単純に両者を混同していただけなのかも判りませんが...。」
「燃えよ剣の中に面白い一説があります。土方に斉藤が改名の由来を説明するのですが、「何でもあんたの言う事を聞く、だから一諾斎」と付けたとあります。これなど、事実を下敷きにした見事な創作というべきでしょうね。」
「一方、斉藤がその晩年に東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に奉職していたという事は事実です。ただし、役職は剣術教師ではなく、庶務係兼会計係でした。およそ新選組副長助勤当時からは想像も付かない、恐ろしく地味なポストですね。斉藤のデスクワーク姿というのはちょっと想像出来ないのですが、さぞかし融通の利かない、恐ろしい事務方だった事でしょう...。」
・源清麿について
「源清麿は信州の人で、本名を山浦環と言いました。郷士の次男として産まれた環は、理想の刀を造ろうとする兄の影響を受けて、自らも刀を打つ様になり正行と名乗ります。やがて江戸に出て幕臣の窪田清音の後援を受け、自立を果たしました。そして、清音が主催した武器講(刀一振りにつき三両という触れ込みで出資者を募って資金をプールし、その資金を元に正行が打った刀をくじ引きで出資者に渡すという仕組み。)に従事しますが、なぜかこの武器講を突然中断して、一時長州に逃れました。」
「武器講を中断した理由は様々に語られますが、
・武器講の金を飲みつぶしてしまった。
・芸術家肌の正行には武器講という量産体制は耐えられなかった。
・出資者や後援者が勤皇家であり、その影響で長州に走った。
などが主な説です。ただ、この時期の長州にはまだ勤皇思想という流行は無く、最後の説は後世のこじつけである可能性が高そうですね。現在では、天保の改革による倹約令の影響で、武器講そのものが成り立たなくなったのではないかとする説が有力視されている様です。」
「やがて江戸に帰った正行は清音にわびを入れて許しを乞い、清麿と名乗りを改めています。そして四谷正宗の異名を取るほどに腕を上げたのですが、1854年(嘉永7年)に謎の自殺を遂げ、その短い一生を終えました。時に42歳の働き盛りでした。」
「この自殺の原因として、従来は彼は過激な尊皇思想を持っており、幕府の厳しい追求を受けたためと言われていましたが、安政の大獄よりも遙かに前の時期であり、ちょっとあり得ない説ですね。」
「現在では清麿=勤皇家説そのものが否定されている様です。有力な説としては、彼は大酒家であり、そのせいで体が不自由になって、思う様に刀が打てなくなった事を苦にしたのではないかと言われています。」
「現代においてもっとも人気がある刀工は、実はこの清麿だそうですね。これは吉川英治や隆慶一郎の小説によってその波乱に富んだ人生が紹介された事が一因だそうですが、もしかするとこの作品もその人気の一翼を担っているのかも知れません。」
(参考文献)
新人物往来社「新選組銘々伝」、赤間倭子「斉藤一の謎」、司馬遼太郎「燃えよ剣」
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