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2007年6月

2007.06.25

新選組血風録の風景 ~虎徹その7~

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(新選組血風禄概要)

(刺客に襲われた翌日、近藤は斉藤を部屋に呼んだ。そして、鴻池虎徹を見せて、これは銘も切ってあって本物の様に見えるが、実は偽物だと言った。しかし斉藤が見るところでは、堂々たる真性の虎徹である。)

(近藤が言うには、斉藤が清麿と言った刀は骨に吸い込む様に切れたが、この刀は切れない。ゆえに清麿こそ虎徹で、この刀は偽物であるという。)

(近藤にすれば、彼の虎徹は既に京都の浮浪の間で知られ始めている。その宝剣が今さら切れないとあっては困るのである。だからこそ、清麿こそ虎徹であるという奇論を展開しているらしい。)

(斉藤はもう一度虎徹を見せてもらい、天眼鏡を取り寄せて子細に調べてみた。すると、小さな刃こぼれが無数に見つかった。)

(斉藤が、どうやら鎖を着た相手を斬られた様だと指摘すると、近藤はみるみる不機嫌になり、本来の虎徹ならば、鎖ごと切れるはずだと言い切った。)

(その後、近藤は日陰町虎徹と鴻池虎徹を交互に使った。しかし、なぜか鴻池虎徹を持っていると事故が多い。)

(近藤は土方に、やはり鴻池のは虎徹ではないと言った。土方は微笑で答えた。)

(これが近藤の思考法であった。虎徹が信仰であり、通常なら清麿の方が虎徹より切れるというところを、何が何でも切れる方を虎徹にしてしまわなければならないのである。)

(近藤の時勢眼もこれであった。徳川が信仰であり、その価値観を損なう者は容赦なく切り捨てる。)

(芹沢派が粛正され近藤が隊の実権を握った頃、土方は隊士募集のために江戸に戻った。)

(ある日、土方は相模屋伊助を呼んだ。使いを受けた伊助は仰天した。実は、あの刀は虎徹ではないと知りつつ、どこか姿が似ていると思い、客の無智につけ入って売り込んだのである。)

(伊助はすっかり覚悟を決め、家族と水杯を交わして土方の下を訪れた。ところが、意外な事に土方は良い刀を売ってくれたと礼を言い、伊助を酒肴でもてなしたばかりか、5両の礼金すら払った。)

(それから数日の内に、近藤の虎徹の雷名が江戸中に轟いた。広めたのは伊助である。彼は自家の宣伝の為に広めたのであるが、同時に新選組の宣伝にもなっている。土方はそこまで見抜いて芝居を打ったのであった。)

(土方が京都へ帰ると、斉藤が見慣れぬ刀を差していた。聞いてみると虎徹だという。)

(彼が言うには、二十日ばかり前に御旅所の前の夜店で見つけたらしい。錆は浮いているが、ただものでは無いと感じ、5両と言うところを3両にまで値切って買ったという。そして研ぎ屋に鑑定を依頼したところ、紛れもない虎徹であるという返事があった。)

(土方はその刀を近藤に渡す様に頼んだ。新選組の武威を高めるには、利剣虎徹は一つであった方が良いという判断からである。斉藤は素直に土方の依頼に従った。)

(近藤の虎徹は3本になったが、土方の助言により、斉藤の虎徹は鴻池虎徹と共に死蔵した。)

(元治元年6月5日の夜、新選組は三条小橋にある池田屋を襲撃した。この時、真っ先に屋内に飛び込んでいったのが近藤である。彼は浪士達が二階に居るとみるや、階段を一気に駆け上った。)

(この音に最初に気付いたのが土佐の北添佶磨であった。彼が何気なく階段を覗いた時、駆け上がってきた近藤と鉢合わせをしそうになった。次の瞬間、近藤の日陰町虎徹が一閃した。北添は頭を切られて、血まみれの肉塊となって階段を転げ落ちた。)

(斬れる、そう感じた近藤はさらに奥へと突き進んだ。彼は虎徹には憑きものがあると信じている。)

(池田屋事件の後で、近藤が故郷に送った手紙の一節にこう記されている。)

(永倉新八の刀折れ、沖田総司の刀は帽子折れ、藤堂平助の刀はささらのごとく、倅周平は槍を切り折られ、下拙刀は、虎徹故にや無事に御座候。)

・近藤の時勢眼

「この下りは、近藤ファンにはいささか評判が悪い様ですね。あたかも、近藤が少し脳の足りない愚物の様に見えなくもないからです。しかし、実際の近藤はそんなに単純な人物ではありませんでした。」

「この作者の一連の作品を読んでいると、新選組を引っ張っていたのは土方であったかの様な印象を受けますが、実際に大きく力を振るっていたのは近藤でした。尊皇攘夷派集団として出発した新選組は、やがて幕府護持のための尖兵へとその性格を変えていきますが、その流れを作ったのは他ならぬ近藤自身の思想的変化です。」

「池田屋事件を経て、新選組の地位は公武合体派の中において飛躍的に高まりました。当時はまだ単純攘夷の思想を捨てていなかった近藤でしたが、やがてそれが不可能である事を悟ります。しかし、そこで新選組を捨て去る事は許されない程に、彼と隊の地位は重みを増していました。新選組を維持していくためには、公武合体派の重鎮として、その尖兵たらざるを得なかったのですね。」

「近藤は佐幕派の最たる者と言われます。しかし、彼にすれば将軍を任命したのは朝廷であり、幕府に忠義を尽くす事は、同時に朝廷の権威を守る事でもありました。すなわち、誰にも増して尊皇派でもあったのですね。それは奇矯な思想でも何でもなく、当時としては筋の通った正論でした。彼は決して時勢が見えない愚か者ではなく、高潔な常識家であったと言うべきなのではないでしょうか。」

・斉藤の虎徹

「斉藤が近藤に虎徹を譲ったという下りは、新選組始末記にある記述に沿って書かれたものです。では、その記述の根拠となったものは何かと言えば、斉藤自身が語り残したものでした。明治43年から44年にかけて東京毎日新聞に掲載された「剣侠実伝 近藤勇」という読み物があるのですが、その第30回に斉藤の回想録が収録されているのです。」

「そこには、斉藤が古道具屋で買った無銘の刀を近藤に譲ったところ、その切れ味の良さから近藤自信が虎徹と鑑定し、愛用していたと記されています。新選組始末記とは微妙に異なりますが、虎徹の由来に諸説ある中で唯一出所がはっきりとしており、最も信憑性が高い様な気がします。大名道具と言われた虎徹を、近藤が持っていた理由も無理なく説明出来ますからね。」

・池田屋と虎徹

「北添の階段落ちについては、「池田屋異聞その15」で書いたとおり、全くのフィクションです。新選組は何十人もの志士を斬った様に言われますが、実際に確認出来るのは10数人に過ぎません。その中でも、出会い頭に問答無用で切り捨てたという例は皆無です。」

「池田屋事件における虎徹の無事を伝えるのは近藤の有名な書簡ですが、実は彼の刀も又、激戦に晒された結果、ささらのごとくになっていたという説もあります。真偽の程はともかく、この書簡の一節によって近藤の虎徹が有名になった事は確かでしょうね。」

「冒頭の写真は、平成18年の祇園祭の宵々々山における池田屋跡です。文久三年6月5日の夜、近藤はこの池田屋において、虎徹と共に勝敗不明の戦いを続けていたのでした。祭りの夜にこの地に立つと、今にも近藤の気合いが空から聞こえてくる様な気がします。」

(参考文献)
伊東成郎「閃光の新選組」、松浦玲「新選組」、子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組と沖田総司」

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2007.06.24

新選組血風録の風景 ~虎徹その6~

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(新選組血風禄概要)

(近藤が鴻池虎徹を始めて実戦で使ったのは、文久3年の夏であった。)

(その頃、近藤は祇園石段下の茶屋「山絹」に通う様になっていた。たいていは、お忍びで一人で行く。)

(帰路は駕籠である。四条橋に差し掛かったとき、前方に人影がさした様に思えたが、姿は確かめられない。近藤は念のために刀の鯉口を切った。)

(当時の四条橋は現在の様な大橋ではなく、土橋程度の小橋が中洲を中心に2つ架かっていた。)

(駕籠が中洲に差しかかったとき、にわかに人の気配が動いた。近藤はとっさに駕籠の左に転げ落ち、立ち上がった時には虎徹を抜いている。)

(相手は10数人の剣客だった。壬生の近藤であると名乗ったが、黙殺されている。)

(近藤は逃げようとした。逃げながら目の前の相手の一人を袈裟懸けに斬った。ところが、手応えがおかしい。のみならず、相手は転がりもせずに刀を振り回して向かってくる。近藤は再度同じ肩を斬った。今度は相手は倒れたが、すぐに起き直って逃げ出した。)

(斬れぬと、近藤にしてはめずらしく逆上した。)

(敵の一人が槍で突いてきた。近藤はよけ損ない着物の袖がちぎられたが、巧みに相手の手元に付け入り、激しく相手の胸を突いた。しかし、相手は転ぶばかりで、死にはしない。)

(実は相手は鉢金を被り、鎖襦袢を着ていたからに過ぎないのだが、逆上している近藤にはそれが判らなかった。なぜ切れ味の鋭い日陰町虎徹を佩用しなかったかと悔いた。物切りの良さで知られる虎徹が切れないはずがない。とすれば、日陰町虎徹こそが本物で、鴻池虎徹は偽物という事になる。)

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(西の橋を渡り終わった時、最後の敵が襲ってきた。近藤は彼ならではの気組みで相手を圧倒して相手を怯ませ、その隙に土手を駆け上がった。土手の下は先斗町である。先斗町を駆け抜けて町会所に入った時には、いつもの近藤に戻っていた。)

(近藤は町役人に、壬生まで行って馬を寄越す様に言ってくれと頼み、自らは会所の奥で横になった。側には抜き身の刀が放り出してあった。)

(町役人が恐る恐る挨拶に来た時、近藤は珍しく冗談めかして、刀が鞘に嫌われて中に入れて貰えない、野立ちだと言ったという。しかし、やがて屯所に戻った頃には曲がった刀も元に戻り、鞘の中に収まっていた。)


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・山絹と近藤

「山絹という御茶屋については、「新選組始末記」にその名が見えます。真偽不明としながら、病死したはずの深雪太夫が実は生きていて、近藤勇の研究家であった鹿島淑男という人物に語り残したという話が掲載されており、その中に山絹の事が記されています。」

「山絹は祇園石段下にあり、近藤のみならず新選組幹部が出入りし、まるで寄り合いの様になっていました。その中で、近藤は山絹の養女であったお芳と良い仲になり、子供までもうけたと記されています。」

「余談ながら、近藤の女性関係については、島田魁の証言などから、三本木の駒野、植野、島原の金太夫、さらには深雪太夫の妹お孝などと関係があったと事が知られています。」

「新選組始末記に収録されている深雪太夫の逸話に依れば、これらの女性のうち、お芳、駒野、お孝に子供が出来、駒野の子は出家して僧侶に、お孝の子は芸者となって馬関に行き、伊藤博文などの贔屓を受けたとあります。」

「さらに余談になりますが、近藤の娘が晩年の永倉新八と出会ったという話も伝わっています。娘は女義太夫「山田音羽」といい、近藤の娘であると名乗って、永倉の下を訪れました。彼女は永倉が近藤の写真を所持していると聞き、その写真を接写させてもらうべく訪ねてきたのです。」

「音羽が近藤の娘であるという証拠は何も無かったのですが、永倉はその面差しが近藤と似ていた事からその話を信じ、写真を貸し与えました。後に音羽から写真が返却された時に自分の写真も同封していたらしく、今も杉村家(永倉の家系)に残されているそうです。この写真が平成16年8月19日付けの東京新聞に掲載されているのですが、確かにその目鼻立ちは近藤勇とよく似ていますね。」

「音羽の母親が誰であったかは不明とされていますが、もしかすると唯一消息の知れない山絹のお芳の子だったのかも知れません。ただ、深雪太夫の逸話そのものが真偽不明であるため、あくまで想像の域は出ないのですけどね。」

(作品の舞台の紹介)

・四条橋

「作品中では、四条橋は中洲を挟んだ二つの橋からなるとあります。確かに文久二年の古地図を見ると四条あたりの鴨川には大きな中洲があり、橋は二つに分かれています。たぶん作者はこの地図を見て、この作品に反映したのでしょうね。」

「しかし、調べてみると四条橋はその5年前の安政4年に架け替えられており、その時の絵図を見ると立派な一本の橋になっていて、中洲はありません。また、別の文久三年と記された古地図を見ると、やはり四条大橋は一本の橋として記されており、ここでも中洲は見あたりません。」

「どうやら文久二年の地図がちゃんと改訂されておらず、架け替え前の四条橋をそのまま載せていた可能性が高い様ですね。江戸時代のちょっとした手違いが後世の小説に影響を与えた訳ですが、場面設定としては非常にドラマチックになっており、好結果を産んだと言えそうです。そのぶん誤解も与えてしまっているので、結果オーライとも言い切れないのですけどね。」

・先斗町

「先斗町(ぽんとちょう)は元は鴨川の河原だった場所で、1670年(寛文十年)に護岸が築かれた事をきっかけに宅地化しました。東山を望む絶景の地であった事から水茶屋が建ち始め、やがて非合法の歓楽街となって行きます。何度となく取り締まりが行われたのですが、1859年(安政6年)に至って芸妓家業の公許が下り、晴れて花街として認められました。この作品の舞台となっている文久三年はその4年後にあたり、きっと華やかな新興歓楽街として賑わっていた事でしょうね。」

「先斗町の語源には諸説があるのですが、最もよく知られているものとしては、ポルトガル語で「先端」を意味するポンタから来ているとする説があります。すなわち、元は中洲で先が尖った様な地形であったことからポンタ町と呼ばれ始め、後にそれが先斗町になったと言います。」

「この町の特徴は道幅が狭い事にあり、他の花街とは際だって異なる先斗町独自の風情を形作っています。また、木屋町との間をつなぐ路地もあり、ちょっとした隠れ家気分も味わえますよ。ただこれだけ狭いと、大規模な災害が起こった時には、二次被害が怖い様な気もしますね。」

(参考文献)

子母澤寛「新選組始末記」、歴史読本2004年12月号「特集 新選組をめぐる女性たち」、光村推古書院「京都時代MAP」

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2007.06.23

新選組血風録の風景 ~虎徹その5~


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(新選組血風禄概要)

(その日の午後、鴻池京都別邸から使いが来て、主人の善右衛門が御礼をしたいという。大名ですらあいさつに出向くという鴻池の主人が、わざわざ京都まで足を運んで来るというので近藤も悪い気はしなかった。)

(近藤は、土方、山南、沖田、山崎、それに平隊士数人を供代わりにつれて鴻池別邸を訪れた。宴は無事に済み、なお大阪にてというあいさつだったから、近藤は日を改めて大阪に下った。)

(振る舞い茶屋にて饗宴に興じたあと、本邸に呼ばれた。鴻池では近藤に対し、刀を贈るという。続々と運ばれてくる刀にしきりと目移りしていた近藤だったが、箱書きに長曽禰虎徹入道興里と書かれた一本に眼が止まった。)

(抜いてみると、なるほど斉藤が言った様に、刀身に丸い数珠玉が浮かんでいる。近藤は天にも昇る気持ちで、この刀を受け取った。)

(こののち、新選組と鴻池の縁が深くなり、数度に渡り多額の献金が贈られた。近藤と鴻池の繋がりの深さを示すエピソードとして、後藤象二郎との逸話がある。)

(大政奉還の直前に後藤と会った近藤は、すっかり後藤の人柄が気に入り、天下の財物を動かす気概があるのなら、大阪の富商に面識があるので、周旋してあげても良いと語った。後藤はまさか新選組局長からそんな言葉を聞くとは思わなかったから、内心ひどく驚いたという。)

・鴻池と虎徹

「近藤が鴻池に押し入った不逞浪士を斬り、その御礼として虎徹を貰ったという話には幾つかの類型があります。以下、主なものを並べてみます。」

・新選組始末記

「土方(あるいは沖田)と共に大阪の夜を巡察中だった近藤は、鴻池本邸に押し入った4人の浪士を斬った。鴻池はその御礼として、ありったけの刀を並べ、好きな物を選んで欲しいと言った。近藤は武骨な虎徹を選び、武州生まれの武士が、武州の刀を差して奮闘するのは本懐であると喜んだ。」

・両雄士伝

「浪士から強請られた鴻池は巧みに日延べをし、その間に新選組に助けを求めた。近藤は土方と山南を大阪に派遣したところ、彼らは見事に期待に応えた。鴻池からは感謝の印として、各自に名刀一振りづつが贈られた。」

・剣侠実伝・近藤勇

「近藤と山南は、鴻池京都別邸に押し入った5人の賊を相手に戦った。このとき、山南は刀を折られてしまったまのだが、小刀を抜いて応戦し、見事に相手を倒した。たまたま京都に来ていた鴻池の主人は、二人に厚く礼を言って供応した。そして、山南の刀が折れた事を気の毒に思い、蔵から洗いざらいの刀を出して、好きな物を選ぶ様にと言った。このとき、近藤の目に止まったのが虎徹であった。どうしてもこの刀が欲しくなった近藤は、自分の差料を山南に与え、自らは虎徹を受け取った。」

・聞きがき新選組

「(近藤と山南が鴻池京都別邸で賊と戦ったところまでは前記と同じ。)後日、近藤は鴻池に招かれて供応を受けた。そのとき、山南の刀が折れた事が話題に上り、鴻池が刀を贈る事になった。(以下前記に同じ)。」

「この作品が下敷にしたのは、舞台と敵の人数が一致する「剣侠実伝・近藤勇」あたりでしょうか。ただ、これらの記述はすべて後年になってから書かれたもので、そのまま事実として認めるには無理があります。」

「では同時代資料ではどうかというと、「聞集録」にこの話の原型となったと思われる事件の記述がありました。」

「文久3年6月下旬に、尽忠報国の士と偽る石塚岩雄という人物が、大阪の鴻池を相手に3千両の押し借りを働こうとしました。鴻池では5両を出して石塚を追い返したのですが、石塚はそのまま長町の旅館に引き上げます。これに気付いた鴻池では、丁度大阪に来ていた壬生浪士組に通報しました。これを受けた浪士組では隊から3名の隊士を派遣し、見事石塚を召し捕らえたとあります。(7月2日)」

「この事件に呼応する様に、壬生浪士組は30両を鴻池から借りています。後の新選組と鴻池の繋がりは、この事件をきっかれに始まったと言えるでしょう。ただ、この事件からは虎徹のエピソードが出てきません。」

「実はこの鴻池事件とほぼ同じ時期に起こったと思われるもう一つの事件があります。それが岩城升屋事件と呼ばれる事件で、山南が愛刀「赤心沖光」を折った事で知られています。」

「岩城升屋は大阪船場高麗橋にあった呉服太物商で、江戸にも支店を持つという大店でした。多摩の小島家に残る記録に依ると、山南はこの店に押し入った浪士と戦い、佩刀を折られながらもこれを討ち取り、会津候から褒美として八両を受け取ったとあります。」

「鴻池と岩城升屋で相次いで起きた事件を合わせると、先に紹介したいくつかの虎徹のエピソードとほぼ重なる形ができあがります。恐らくはこの二つの事件が混同されて、山南の折れた刀の代わりとして、鴻池から虎徹が贈られたというストーリーが形作られたのではないでしょうか。」

「そうなると虎徹は実は岩城升屋からの贈り物だったという可能性が出てきますが、残念ながらそこまで証明できる資料はありません。」

(作品の舞台の紹介)

「作品によると鴻池京都別邸は、四条烏丸西入る南側にあった事になっています。しかし、古地図を見ると、その区画には阿波蜂須加藩邸が位置しており、とても巨邸が入るだけの余地はありません。一方、やはり虎徹のエピソードを伝える資料として大正時代に発行された維新史蹟図説があるのですが、そこには鴻池京都別邸は四条烏丸西入る北側にあったと記されています。」

「冒頭の写真は現在(と言っても1年前ですが)の四条烏丸の様子です。烏丸通は明治以後に大幅に拡幅されており、江戸期には現在の東の歩道幅程度の道であったろうと思われます。それを念頭に置くと、四条烏丸西入る北側とは現在の交差点の西北隅にあたり、写真の右側のビルの位置がそれにあたると考えられます。」

「ここはかつて三和銀行(鴻池銀行の後身)京都支店があった場所であり、鴻池京都別邸の跡地と考えるには最も無理の無い場所と言えそうですね。史実としては壬生浪士組が戦ったのは大阪である可能性が高いのですが、文久三年の春の夜に、月明かりを頼りに近藤、沖田、山南がここで戦った、そしてそこには虎徹があったと想像してみるのも一興かも知れません。」

(参考文献)
子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、光村推古書院「京都時代MAP」


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2007.06.22

新選組血風録の風景 ~虎徹その4~

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(新選組血風禄概要)

(新選組を結成してから程なく、斉藤一が江戸から駆けつけて来て、加盟した。)

(斉藤は試衛館の食客で抜群に腕が立ち、流派こそ違ったが、近藤は沖田と共に直門同然に可愛がった。)

(父が明石浪人であった事から、自らも明石浪人と称している。入隊後は三番隊隊長を務め、新選組の主な戦闘のほとんどに参加した。近藤の死後は土方に従って函館まで行き、敗勢確実となった時、土方の説得を受けて脱出した。維新後は山口五郎と改名して、お茶の水師範学校の剣術教師を勤めた。)

(この斉藤は刀剣に目が利き、しょっちゅう古道具あさりをしていた。鴻池の事件の後、近藤は斉藤を自室に呼び、上機嫌で虎徹を見せた。)

(斉藤は手にとって、鞘から刀を抜いた。なるほど、近藤が惚れ込むだけあって、持っているだけでもぞくぞくしてくるほど使い心地が良さそうな刀である。しかし彼が見るところ、この刀は虎徹ではなさそうであった。)

(斉藤が言うには、虎徹ならば数珠玉と呼ばれる丸い焼刃が出ているはずだが、この刀にはそれがない。おそらくは源清麿だろうという。)

(清麿とは幕末きっての名工と言われた刀鍛冶で、つい数年前の嘉永末年に死んでいる。この人物は尊皇思想を持っており、幕臣のためには刀を打たなかったと言われている。一時長州に身を潜めていた事があり、尊攘派志士の間ではこの刀を持つ事が流行しているらしい。)

(近藤は内心騙された事に気が付いた。しかし、表情は変えずに、これは虎徹だと言い切った。)

(近藤が言うには、この刀はすでに新選組の虎徹として世間に広まりつつある。日ならずして、誰一人知らぬ者は居ないという事になるだろう。いわば新選組の宝刀であり、虎徹ではないかも知れぬが、虎徹として生き始めている。要は生かし方である。)

(そう語る一方で、尾張藩邸の松井老人を思った。あの老人は刀の知識はあっても、生かし様を知らない。)

・斉藤一について

「斉藤一は江戸で結成された浪士組には参加しておらず、京都で加盟したものと考えられています。では作品にある様に新選組(壬生浪士組)結成直後に江戸から駆けつけたのかとういうと、そうでも無いようです。彼は近藤達よりも先に京都に来ていた可能性が高いと考えられています。」

「斉藤が試衛館の食客であったらしい事は、浪士文久報国記事にその旨が記されていることから、ほぼ間違いないとされています。流派については一刀流、無外流、太子流などの諸説があり、残念ながら断定出来るほど明確にはなっていません。」

「出自については、彼の父は元は明石藩の足軽だったのですが、その家督を妹婿に譲り、自らは江戸に出て御家人株を買い、幕臣となっています。ですから、明石浪人というのは半ば本当、正しくは御府内浪人というべきなのでしょうか。」

「斉藤家に伝わる文書に依ると、彼は19歳の時に誤って旗本を殺してしまい、ほとぼりを冷ますために京都へ逃れたとあります。京都では父親のしるべであった吉田という人物が経営する道場に寄宿し、その腕を買われて代稽古などをしていた様です。」

「京都にあっても江戸との文通があったのか、近藤達の京都残留が決まるや、すぐに同志として加盟した様です。このあたりの事情があいまいなのですが、それ以後は三番隊組長として活躍した事は周知のとおりです。」

「この作品において、斉藤に関する略歴がメモ書き程度に記されているのですが、その中にある函館まで行ったとする記述は明らかな誤りです。同じ作者の小説「燃えよ剣」でも同様の設定になっているのですが、斉藤が新選組と行動を共にしたのは会津までであり、蝦夷地には渡っていません。」

「恐らくこれは、斉藤一諾斎という良く似た名前の別人をヒントに、作者が創作したストーリーではないかと考えられます。一諾斎は慶応4年に江戸で加盟した人で、一説には土方に従って会津から蝦夷にかけて転戦し、最後は松前藩主夫人を護送する様に土方から命じられて江戸に戻ったと言われています。実際には蝦夷には渡っておらず仙台で捕らえられた様なのですが、作者はこのエピソードを元に、斉藤一が改名して土方に従ったというストーリーを創作したものと思われます。あるいは単純に両者を混同していただけなのかも判りませんが...。」

「燃えよ剣の中に面白い一説があります。土方に斉藤が改名の由来を説明するのですが、「何でもあんたの言う事を聞く、だから一諾斎」と付けたとあります。これなど、事実を下敷きにした見事な創作というべきでしょうね。」

「一方、斉藤がその晩年に東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に奉職していたという事は事実です。ただし、役職は剣術教師ではなく、庶務係兼会計係でした。およそ新選組副長助勤当時からは想像も付かない、恐ろしく地味なポストですね。斉藤のデスクワーク姿というのはちょっと想像出来ないのですが、さぞかし融通の利かない、恐ろしい事務方だった事でしょう...。」

・源清麿について

「源清麿は信州の人で、本名を山浦環と言いました。郷士の次男として産まれた環は、理想の刀を造ろうとする兄の影響を受けて、自らも刀を打つ様になり正行と名乗ります。やがて江戸に出て幕臣の窪田清音の後援を受け、自立を果たしました。そして、清音が主催した武器講(刀一振りにつき三両という触れ込みで出資者を募って資金をプールし、その資金を元に正行が打った刀をくじ引きで出資者に渡すという仕組み。)に従事しますが、なぜかこの武器講を突然中断して、一時長州に逃れました。」

「武器講を中断した理由は様々に語られますが、

・武器講の金を飲みつぶしてしまった。

・芸術家肌の正行には武器講という量産体制は耐えられなかった。

・出資者や後援者が勤皇家であり、その影響で長州に走った。

などが主な説です。ただ、この時期の長州にはまだ勤皇思想という流行は無く、最後の説は後世のこじつけである可能性が高そうですね。現在では、天保の改革による倹約令の影響で、武器講そのものが成り立たなくなったのではないかとする説が有力視されている様です。」

「やがて江戸に帰った正行は清音にわびを入れて許しを乞い、清麿と名乗りを改めています。そして四谷正宗の異名を取るほどに腕を上げたのですが、1854年(嘉永7年)に謎の自殺を遂げ、その短い一生を終えました。時に42歳の働き盛りでした。」

「この自殺の原因として、従来は彼は過激な尊皇思想を持っており、幕府の厳しい追求を受けたためと言われていましたが、安政の大獄よりも遙かに前の時期であり、ちょっとあり得ない説ですね。」

「現在では清麿=勤皇家説そのものが否定されている様です。有力な説としては、彼は大酒家であり、そのせいで体が不自由になって、思う様に刀が打てなくなった事を苦にしたのではないかと言われています。」

「現代においてもっとも人気がある刀工は、実はこの清麿だそうですね。これは吉川英治や隆慶一郎の小説によってその波乱に富んだ人生が紹介された事が一因だそうですが、もしかするとこの作品もその人気の一翼を担っているのかも知れません。」

(参考文献)
新人物往来社「新選組銘々伝」、赤間倭子「斉藤一の謎」、司馬遼太郎「燃えよ剣」

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2007.06.21

新選組血風録の風景 ~虎徹その3~

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(新選組血風禄概要)

(巡察は続く。蛸薬師の筋を一巡し、尾張藩邸で休息した。藩邸では公用人の間に通され、酒肴でもてなされた。接待に出たのは公用方の松井助五郎という老人である。)

(老人は刀の鑑定が出来た。自然、話題は刀剣の事になる。老人の話では、薩長土の尊攘過激派の間では村正が流行しているらしい。村正は代々徳川家に不吉な事件をもたらした妖刀として忌まれてきたが、ことさらにこれを買い求めて腰に帯びているという事実は、彼らが内心倒幕の意思を持っている証に他ならないという。)

(近藤は村正には興味が無かった。自分の佩刀を老人に渡し、虎徹ですが鑑定願いたいと言った。老人は受け取り刀身を一瞥したが、眼福ですと言っただけで特に批評を漏らさなかった。近藤も何も言わなかったが、腹の中では何の評語も言わない老人の不遜な態度を憎悪した。)

(藩邸を出ると、東山の上に十五夜の月が出ていた。4人は月に向かって歩いた。烏丸筋にまで出たとき、あちこちで犬が鳴き始めた。その声を聞いて沖田は妙だと言う。一匹だけ必死な声がするという沖田の言葉に、一同は烏丸筋を南に歩き始めた。)

(四条通にまで来たとき、沖田は四ツ辻に立ち止まった。西の角の二軒入った南側に土蔵造りの巨邸がある。鴻池の京都別邸である。犬は鴻池の邸内で鳴いているという。)

(近藤は山南を屋敷の西角、沖田を東角に潜ませ、自らは門前に立ち、ご用改めである、開門されよと呼ばわった。三度目の声に応じる様に、塀の内側から人影が現れた。全部で五つ。最初の二人が路上に飛び降りたとき、近藤は何者かと言いながら詰め寄った。)

(相手は、攘夷御用金を受け取り退散するところだ、邪魔立てするなと言う。近藤は新選組であると名乗り、不審があるから屯所まで同道せよと命じた。相手は応じるはずもなく、一斉に斬り掛かって来る。近藤はたちまちの内に二人を倒した。近藤の刀の切れ味は素晴らしく、ほとんど手応えさえ無かった。撃ちの凄まじさは胴田貫に似ている。)

(沖田と山南もそれぞれ一人づつを倒したが、この後山南の刀は刀身が曲がって鞘に収まらなかった。新選組が洛中で人を斬り始めたのはこの事件が最初である。)

・村正について

「村正と言えば、刀に興味の無い人でもその名を知っているという程有名な刀です。ロールプレイングのゲームにおいても高性能のアイテムとして登場する事があり、その世界で知った人も多いのではないでしょうか。そういえば、名探偵コナン「迷宮のクロスロード」において、服部平次が土壇場で手にした刀も村正でしたね。」

「村正は美濃出身の刀鍛冶で、後に伊勢に移って一流を開きました。村正は三代続き、特に二代が優れているとされますが、名工ではあるものの、他を押しのけて第一席に擬されるという程ではない様です。ではなぜ村正が有名かと言えば、妖刀という伝説に彩られて来たからに他なりません。」

「村正が妖刀と忌み嫌われてきたのは、別にこの刀が摩訶不思議な出来事を起こしたという訳ではなく、一重に徳川家にまつわるエピソードに因ります。」

「まず、家康の祖父清康と父の広忠は共に家臣の謀反によって殺害されているのですが、この時使われた刀がどちらも村正でした。次いで、家来が槍を落とした拍子に家康が怪我をした事があったのですが、この時の槍が村正でした。そして、嫡男信康が信長から謀反の嫌疑を掛けられ死罪となった時に、介錯に使われた刀がまた村正でした。この様に村正は家康にとって不吉をもたらす、忌み嫌うべき刀となったのですね。」

「以来、諸侯においても村正を所持する事は徳川家に逆意を持つ印と疑われかねないため、これを手放すか、銘を削って所有するという慣習が出来たのです。もっとも、中には在銘のまま所有していた鍋島氏の様な例外もあったようですね。」

「逆に、家康に敵対する武将にとっては、またとない差料となりました。その代表格が大阪の陣で豊臣方の武将として活躍した真田幸村です。また、幕末期には西郷隆盛が所有していたそうですね。しかし、それぞれ非業の最期を遂げており、かえって村正妖刀説を裏付けてしまっているのかも知れません。」

・同田貫とは

「また、胴田貫とあるのは、これも刀の名の一つです。正しくは同田貫といい、肥後の刀鍛冶の集団が作った刀の事を指します。この同田貫という名は地名から来ているそうで、幅広く堅牢な造りであり、実戦向きの刀として知られていました。一般には時代劇「三匹が斬る」で知られる様になり、さらに劇画「子連れ狼」の拝一刀の愛刀(胴田貫)として有名になっています。」

「胴田貫の名の由来として、死体を田圃に横たえてこれを斬ると、死体を両断した後もなお田を切り下げるという程の切れ味を示す事に因るという俗説があります。これは後世のこじつけらしいのですが、それほど強烈な威力を持った刀として世間に認識されていたという事なのでしょうね。」

「抜群の切れ味を示す同田貫ですが、美術的にはさして優れているとは言えず、現在の刀剣界ではあまり人気が無いそうです。子連れ狼の刀といえば売れそうなものですが、それは素人が考える事なのかも知れないですね。」

(作品の舞台の紹介)

「尾張藩京都藩邸は、作品中ではあたかも蛸薬師通に面しているかの様な印象を受けますが、実際には一筋南の錦小路に面していました。京都風の地名で言えば錦小路室町西入るの場所にあり、四方又は二方を通りで囲まれた大きな藩邸が多い中、一つの区画の3分1程度しかないという比較的小規模な藩邸だった様です。」

「現在で言えば、祇園祭の霰天神山がある界隈といえば比較的通りが良いでしょうか。付近に尾張藩邸があったという石碑の類は一切見あたりませんが、祇園祭に行く事があれば、近藤達が松井老人と話しをしたのはこのあたりだったのかなと思い浮かべてみて下さい。もっとも、あまりに賑やかすぎてとても小説の様な雰囲気にはなれないでしょうけどね...。」

光村推古書院「京都時代MAP」、新人物往来社「新選組を歩く」、子母澤寛「新選組始末記」

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2007.06.20

新選組血風録の風景 ~虎徹その2~

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(新選組血風禄概要)

(新選組が幕府の公認でかつ官製によらない団体(松平肥後守御預浪士組)として発足したのは、文久3年3月の事である。発足当時局長は3名で、筆頭が芹沢で新見がこれに次ぎ、近藤はさらにその次席であった。この頃には近藤の立場も軽く、また隊士も少なかったので、自ら隊士を連れて市中巡察に出る事も多かった。)

(この日の巡察には、山南、沖田、それに下僕の忠助が従っていた。夕刻、祇園会所で町役人から付近の出来事を聞き、河原町御池の長州藩邸の前を通って河原町通を南下し、土州藩邸前まで来たとき、町が昏くなった。)

(忠助が提灯に灯を入れようと燧石を打ったが、どうした訳か上手くいかない。そこで沖田が土州屋敷のはす向かいにある寿司屋で火を貰おうと、格子戸を開けて店の中に入った。)

(店の中には5人の武士が居た。彼らはいきなり入ってきた沖田に驚いたらしく、一斉に振り向いた。沖田は表の蒸籠にはすでに火が無いのに、5人の武士が寿司の出来上がりを待っている事に不審を抱いた。)

(彼らの内の一人が居丈高に沖田に誰何した。沖田が提灯の付け火を貰いに来ただけですと答えると、さらに何藩だと畳みかけて来る。やむなく新選組副長助勤沖田総司と答えると、彼らは一斉に刀を引きつけた。沖田は店の迷惑になるから表で相手をすると言うと、5人の中の年がしらの人物が仲間を眼で押さえ、御無礼したと頭を下げた。判って貰えばそれで良いですと言い捨てて、店を出る沖田。)

(沖田は路上で提灯に灯を入れつつ、たった今の一件を近藤に報告した。そして、近藤に近くの辻番所で待つ様にと言い、自らは彼らの動向を見張るべく後に残った。近藤は錦小路の辻番所へと入った。)

(間もなく沖田が駆け戻ってきて、散ったらしいですと報告した。今夜こそ浮浪を狩れるかと思っていた近藤は、不快な顔をしてみせた。まだ京に上って日が浅く、これまで人を斬る機会に恵まれていなかったのである。)

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・御預の意味とは

「新選組発足当時の法的位置づけはかなり曖昧なもので、松平肥後守御預というものでした。松平肥後守とは京都守護職である松平容保の事ですが、彼が近藤達の身柄を預かるとはどういう意味なのでしょう。」

「松浦玲氏の「新選組」に依れば、御預の「御」とは将軍に対する敬語であり、将軍が集めた浪士組の一部を松平容保が預かるという意味であるとあります。つまりは法規に基づく官製の部隊である浪士組から外れた近藤達を、容保が法規に依らずに預かり置くという理解になるのでしょうか。すると、作者が記した公認ではあるが官製ではないという表現は、初期新選組(壬生浪士組)の微妙な法的地位を端的に表した言葉と言えるのかも知れません。」

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・壬生浪士組の任務

「近藤達が京都に残るに当たって容保にまで提出した建白書に依れば、彼らは将軍警護の為に残るのであり、当面の役割として二条城周辺の夜回りでも申しつけて貰えればありがたいと記されていました。これに対して守護職からは、奸物を誅戮する様にという内命を受けたと近藤の書簡にあり、非公式ながらも彼らが市中巡察を行う根拠となっています。ただし、彼らが正式に市中巡察を命じられるのは8・18の政変以後の事であり、それ以前にどこまで権限を委ねられていたかは定かではありません。」

「記録に残るこの時期の警察活動としては、大阪において不逞浪士を捕縛したという事件があります。6月2日に大阪に天下浪士と称する者が乱暴を働いているとの報に接した壬生浪士組はさっそく下阪し、翌3日朝に二人の浪士を捕らえて大阪町奉行所に引き渡しています。この後、大阪角力とのけんか騒ぎを引き起こすのですが、その詳細は「芹沢鴨の暗殺その10」に記したとおりです。」

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(作品の舞台の紹介)

「新選組初期の巡察区域は判っていませんが、見廻組発足以後は主として四条通から南側を担当していました。この作品における巡察区域は作者によって創作されたものですが、4人で廻るにはかなり広いですね。」

・祇園会所跡

「写真は作品中に出てくるポイントを追ったもので、最初の一枚は祇園会所跡です。いわゆる祇園石段下にあたり、正面の通りが四条通、左右の通りが東大路通になります。会所があったとされるのは交差点の左上隅のあたりで、この写真だとローソンの看板が目立ちますね。その向こうの三角屋根が交番で、そこから隣の弥栄中学にかけての範囲に会所があったのではないかと考えられています。」

「町会所とは町の自治のために設けられた施設であり、町内の会合などに使われるほか、普段は管理人として町用人が詰めていました。官設ではないものの町内共有の公の場所であり、その後に交番や学校を作ったというのは、まさにふさわしい跡地利用だったと言えそうですね。」

・長州藩邸跡

「次いで、近藤達は長州藩邸の前を南下しています。祇園から河原町御池までは距離がありすぎて描写が不自然なのですが、縄手通あるいは木屋町通を北上して二条にまで至ったものなのでしょうか。いずれにしてもこのあたりは尊攘派の巣窟と言われた地帯であり、巡視経路としてはふさわしいものの、たった四人で巡察を行うのはかなり危険な行為だった様に思われます。」

「長州藩邸跡は現在の京都ホテルオークラが建つ場所にあたり、現地には写真の石碑と共に長州藩邸の概要を記したプレートが設置されています。ただ、この石碑は植え込みの中に埋もれているので、むしろ桂小五郎の銅像の方が目印としては向いているかも知れないですね。」

・土佐藩邸跡

「土佐藩邸跡は旧立誠小学校にあたり、木屋町通に石碑があります。あたりの地形は全く変わっていますが、当時を偲ばせるものとして、かつて藩邸内にあったとされる土佐稲荷・岬神社があります。」

「作品に描かれた河原町通の現状は最後の写真のとおりで、京都きっての繁華街となっています。当時の道幅は現在の東の歩道程度であったと推定されており、この写真の車道部分はすべて家屋が建っていたものと思われます。」

・寿司屋の蒸籠

「この作品中に寿司屋が出てきますが、現状に当てはめるとすると「ひさご寿司」がそれに該当します。無論、これは作者による創作であり現実の店とは無関係であるとは思われますが、もしかすると実際に河原町通を歩いたときにひさご寿司に気づいていて、作品に取り入れたのかも判りません。」

「この中で寿司屋の店先に蒸籠があると描写されているのですが、これは関西特有の蒸し寿司のための蒸籠と思われます。おそらく関東の人にはぴんと来ないでしょうけど、蒸籠で蒸して暖ためてから食べる「ぬくずし」というものがあって、主として寒い季節の食べ物として好まれます。今でもひさご寿司のメニューの中に、冬季限定ながらちゃんと残っていますね。」

「でも京都に来て間もない沖田が蒸籠の火が落ちている事に不審を抱いた訳ですから、もしかしたら関東にも普通にあるものなのでしょうか。このあたりは私にとってちょっとした謎です。」

(参考文献)
松浦玲「新選組」、光村推古書院「京都時代MAP」、新人物往来社「新選組を歩く」、木村幸比古「新選組日記」

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2007.06.19

新選組血風録の風景 ~虎徹~

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(新選組血風録概要)

(文久3年正月のある日、愛宕下の日陰町にある相模屋伊助の店に、一人の武士が入ってきた。年は30前後、丸に二ツ引両の紋所の羽織を着たその武士は、虎徹はないかと訊ねてきた。あいにく店には置いてなかったが、伊助は取り寄せるつもりで、その武士の心積もりを聞いてみた。武士は20両と言う。いまどき20両で虎徹があるはずも無かったのだが、伊助は顔には出さずに注文を受けて届け先を聞いた。武士は試衛館の近藤と名乗り、火急にと念を押して去った。)

(伊助はすぐに同業者に手配して、虎徹を探し始めた。しかし、その値頃の虎徹は容易に見つからない。)

(虎轍は、正しくは長曽禰虎徹入道興里といい、越前の人である。元は優れた甲冑師であったが、大阪の陣が終わって甲冑の需要が無くなると、甲冑師に見切りを付けて刀鍛冶に転向した。これが50歳の時で、それから亡くなる70余歳までの間に前人未踏の境地を開いて、名人と呼ばれるまでに至っている。)

(虎轍の姿は、実はあまり良くない。しかし、鋭利な事では平安・鎌倉の古鍛冶も及ばないとされ、中でも「石灯籠切」と呼ばれる名品は、石灯籠を切っても刃こぼれ一つ起こさなかったと言われている。)

(江戸期を通じて虎轍の評判は高く、心掛けのある武士は争って虎轍を求めた。その需要の高さにつけ込んだ偽物も多く作刀され、今の世に至るまで横行している。)

(近藤が虎轍を求めたのは、浪士組に応募した事がきっかけであった。その支度金としてあてがわれた20両を使って、名のある名刀を買おうとしたのである。近藤に虎轍を勧めたのは山南であった。山南は虎轍の試し切りの話を伝え聞いており、その切れ味の凄まじさを近藤に教えたのである。)

(正月も半ば過ぎた頃、伊助が虎轍と称する刀を持ってきた。鞘から抜くと、二尺三寸五分という近藤の為に誂えた様な寸法である。朴強な中に、骨までかじりつきそうな凄みを秘めたその刀は、どこか近藤に似た感じがした。すっかり気に入った近藤は伊助に20両を与え、その刀を携えて上洛の途についた。文久3年2月8日の事である。)

・近藤家の紋所

「この作品は、冒頭からおかしな事が書かれています。それは近藤の紋所の事で、丸に二ツ引両とあるのですが、実際には丸に三つ引き(又は丸の内に三つ引き)でした。新選組始末記の記述にあるのですが、天寧寺の墓には丸に三つ引き、竜源寺の墓には丸の内に三つ引き(丸の内側に縁が付いている)の家紋が刻まれており、間違いはないと思われます。この部分は作品の伏線という程のものでもなく、恐らくは作者の単純な思い違いなのでしょうね。」

・虎徹について

「長曽禰虎轍入道興里は、正確には近江国佐和山の生まれで、幼少期に関ヶ原の戦いがあり、戦乱を逃れて越前(金沢とも)に移りました。作品にあるとおり、始めは甲冑師として身を立てていたのですが、50歳の時に刀鍛冶を志して江戸に出たとされます。」

「当時としては老齢と言うべき年齢での転向でしたが、元々甲冑師として鉄の鍛錬の技術を持っていたからでしょう、刀鍛冶として次第に頭角を現し、遂には名人と謳われる境地にまで達します。彼は古い鉄を溶かして刀の原料としたことから、始めは古鉄と名乗ったとされます。さらに年を追うごとに虎徹(はねとら)、乕徹(はことら)と銘に使う文字を変えています。」

「虎徹は、公儀御様御用(刀の試し切り役)の山田朝衛門が定めた刀鍛冶のランキング「懐宝剣尺」において、最上大業物の筆頭とされた事から人気が沸騰し、需要が逼迫したため偽物が多く作られました。虎徹を見たら偽と思えとは作品中にもある言葉ですが、今でも市場に出回る虎徹の多くは贋作なのだそうですね。」

「近藤が虎徹と称する刀を使っていた事は、池田屋事件を伝える彼の書簡の一節にある事から事実と思われますが、一介の道場主に過ぎなかった近藤が大名道具に等しい本物の虎徹を買えるはずもなく、おそらくは偽物であったろうと言われています。このあたりは物語が進むにつれて触れていく事になります。」

・浪士組の支度金

「ところで、作品中では浪士組の支度金が20両となっていますが、実際には10両であったと言われています。これは当初50両の支度金で50名を集める予定で2500両の予算を組んでいたところ、実際に集まったのは250名に達したためでした。予定の5倍の人数になってしまったために、支度金も5分の1にせざるを得なかったという訳ですね。」

「これには異説もあり、当初から10両の予定だったとする説もあります。坂本龍馬が勝海舟の談話として伝えたもので、2人扶持で金10両を支給するとして浪人を募集したところ、たちまち4、50人が集まったとあります。ちなみに同じ談話の中で海舟は浪士組の結成に反対しており、これは松平春嶽の大失策であるとまで批判しています。海舟は新選組に対してあまり好意的とは言えなかったのですが、その感情は浪士組結成の当初から萌芽していたと言えるのかも知れません。」

(作品の舞台の紹介)

「浪士組が江戸を出立したのは文久3年2月8日の事でした。それから中山道を通って京都に着いたのは2月23日の事です。当時、京都に入って最初に渡るのがこの三条大橋でした。」

「この日の前日、等持院にある足利将軍家の木像の首が持ち去られ、翌23日の未明に三条河原に晒されるという「足利三代木像梟首事件」が起きています。」

「新選組!では、近藤達が入京した時に三条大橋でこの事件を目撃するという設定になっていましたが、浪士組はその日の朝に大津を出立しており、タイミング的にはそういう事があってもおかしくはなかったのですね。」

「この事件は在京浪士による関東浪士団に対する挑発とも言われており、さらに言えば幕府側に付いたとも受け取れる清河八郎に対するメッセージだったのかも知れません。」

「一方で、松平容保がそれまでの穏健路線を捨てて浪士弾圧に乗り出したのはこの事件が引き金になったとされており、その意味では新選組誕生のきっかけの一つとなった事件でもありました。もしもこの事件が無かったらまだ暫くは容保の穏健路線が続いており、新選組の誕生も無かったかも知れません。近藤達がこの木像と出会っていたとしたら、極めて運命的なシーンだったと言えるのでしょうね。」

(参考文献)

木村幸比古「新選組全史」、「新選組と沖田総司」、子母澤寛「新選組始末記」

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