新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その8~
(新選組血風録概要)
(慶応2年9月28日の夕、観柳斎は近藤の自室に呼ばれた。部屋に入ると、土方を始め、伊東、沖田、藤堂、原田、それに斉藤が居た。)
(既に酒宴が始まっており、観柳斎は今日の正客であるとして上座に座らされた。近藤は観柳斎に向かって、近くこの屯所を去って薩摩屋敷に入られるそうである。めでたい事だと言い、隊士に命じて酒を注がせた。観柳斎は驚き弁解に努めたが、近藤は節を変ずるにはよほどの存念があったのであろうと言って聞かない。)
(観柳斎は覚悟を決めた。そこは新選組の一手を担ってきた男である。腹を据えてしまえば、人変わりがしたと思うほどに見事であった。さされる杯はことごとく受け、酔ったと思う頃合い、近藤が斉藤に声を掛けた。酔った観柳斎を薩摩屋敷にまで送る様にと命じる。観柳斎は手を振って断ろうとしたが、先に斉藤が部屋を出てしまっている。)
(屯所を出ると、良い月夜だった。小者が差し出す提灯を見て、斉藤が要るまいと観柳斎に笑いかける。観柳斎も渋い顔をして要らぬだろうと言って歩き始めた。)
(観柳斎は下京の街中を東に向かって歩いた。やがて河原町通に至り、これを北に向かえば薩摩藩邸だった。ところが、観柳斎はなおも東へと歩き続ける。ついに鴨川に架かる銭取橋にまで来た。これを渡れば竹田街道へと繋がる。)
(斉藤は業を煮やし、どこへ行くと声を掛けた。観柳斎は、故郷の出雲へ帰ると答える。斉藤は意外に思ったが、すぐに武田君、よろしいかと刀の柄に手を掛けた。心得ていると言うなり、抜き打ちで斬りかかる観柳斎。しかし、斉藤の刀の方が一瞬速く、観柳斎の逆胴を斬って、数間向こうに飛んでいた。観柳斎、即死。)
・観柳斎の死
「観柳斎が近藤に招かれ、酒宴の座上で薩摩への寝返りを暴かれたという筋書きは、新撰組始末記にあるとおりです。そして、送り狼となったのは作品中では斉藤一人ですが、始末記においては篠原泰之進も一緒だったとされています。篠原は観柳斎と懇意の仲でしたが、観柳斎を油断させるために同道させたのでした。」
「観柳斎は篠原を信頼しており、いざというときには助けてくれると思っていました。しかし、既に近藤から意を含められていた篠原にはその気はなく、斉藤がいつ手を下すかと注意深く見ていたのでした。そして、銭取橋で斉藤が観柳斎に斬りつけると、自らも観柳斎に一刀を浴びせています。」
「帰り道、斉藤と篠原は、それぞれの心中を語り合い、微笑しながら引き上げました。筆者の西村兼文はこの有様をして、親友であっても頼みに出来ない薄情さを嘆き、恐るべき時勢であったと振り返っています。」
「しかし、この観柳斎の最期は、同時代資料である「世態誌」の発見によって、大きく訂正される事になったのは以前に書いたとおりです。繰り返しになりますが、観柳斎が殺害されたのは慶応3年6月22日の事でした。この時、斉藤と篠原はすでに御陵衛士として分離しており、近藤の命を受けて観柳斎を殺害するという筋書きはいかにも不自然という事になるのです。」
「世態誌に拠れば、下手人は新選組の仲間、場所は銭取橋でした。この時観柳斎だけでなく、彼の死体をもらい受けに来た3人の人物もまた斬られています。さらにもう一人の同士が枚方で切腹し、5日後には観柳斎と意を通じていた善応という僧侶が殺害されています。」
「観柳斎が新選組を離脱してから半年あまりの間、どこで何をしていたのかは全く記録にありません。したがって想像するしか無いのですが、小さいながらも徒党を組んで勤王活動を行い、それが近藤の知るところとなって、裏切り者として始末されたのではないかと推測されています。」
「ここで、西村が記した慶応2年9月28日という日付に着目してみると、その前日と前々日は、伊東と篠原が近藤と土方を相手に分離論を説いたとされる日です。この時、近藤は渋々ながら分離を認めたといわれますが、実は時局論を戦わせただけだとする説もあります。」
「一方、新撰組金談一件の記述により、観柳斎の新選組の離脱はこの年の10月であったことが判っていますが、実は同じ時期に勘定方であった酒井兵庫もまた新選組を脱退しているのです。伊東一派が分離する事を明確にしたとされる慶応2年9月から10月にかけては、実は新選組が大きく揺らいでいた時期でもあったのです。」
「観柳斎や酒井の離脱が、伊東の分離論と関わりがあるのかどうかは判りません。もしかすると、伊東の御陵衛士と同じく、観柳斎もまた局外から新選組に協力するという名目で離脱したのかも知れません。そう考えると、伊東と近藤の談判の場には、観柳斎も同席していたのかも知れないですね。」
「ものすごく穿った見方をすれば、広島において近藤は新選組の限界を悟りました。その壁を打ち破るべく二人のブレーンを局外に独立させてフリーの立場に置き、勤王方に食い込んで情報を探らせる構想を立てた、という解釈も出来なくはないですね。(これはあくまで私見であって、何の根拠もないただの空想です。)いずれにしても9月28日という日付は偶然ではなく、その日に何かがあった事を示しているものと思われます。」
・作品の舞台の紹介
「銭取橋は実在した橋で、公設されたものではなく私設のものでした。文字通り通行銭を徴収した橋で、集めた金は伏見稲荷に寄進されていたと言われます。現在の橋名である勧進橋は、その事から来ているのでしょうね。」
「今は国道24号の橋として立派な4車線の道路となっています。しかし、幕末当時は追いはぎが出るという、きわめて治安の悪い場所でした。薩摩藩の飛脚が襲われて辛くも逃げ切ったと言いますから、相当なものだった様です。」
「その様な場所に観柳斎が一人で出向くというのも不自然であり、やはり新選組による作為があったのでしょうね。ここで思い出されるのが伊東の場合で、彼もまた近藤の妾宅に呼ばれ、酒宴の帰り道を襲撃されて命を落としました。西村の描く観柳斎の最期と見事に符号しており、これが新選組の常套手段だったという事なのでしょう。ついでに言えば、芹沢鴨もまた、酒宴の後に殺害されています。」
「こう考えると日付や斬った人物に錯誤こそあれ、観柳斎の最期の情景は西村が描いたものと大差がなかったのかも知れません。死体を受け取りに来た仲間を殺害したというのも、油小路事件と符号していますね。もしかしたら、油小路事件は、観柳斎とその一派を粛正した事を下敷きにして計画されたのかも知れません。」
「最後に、ここでも作品中の地理はおかしな事になっています。屯所から東に向かって河原町通にまで至るところまでは良いのですが、銭取橋に行くにはそこから南下しなければなりません。そのまま東に向かえば七条大橋に至る事になり、この下りを素直に受けて、銭取橋は七条大橋の事だと勘違いしている人も多いのではないでしょうか。」
「繰り返しますが、銭取橋は現在の勧進橋であり、九条通よりもさらに南に位置しています。近くには伏見稲荷大社、さらには高校ラグビーで有名な伏見工業高校があります。きっと知らないうちに通り過ぎている人も多いことでしょうね。」
参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」)、子母澤寛「新選組始末記」、伊東成郎「閃光の新選組」
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