新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その6~
(新選組血風録概要)
(花が帰った後、誓願寺裏の床与の主人がやってきた。残念ながら当夜の藩邸の出入りは判らないと言う。しかし、その日の夕暮れ時、彼の女房が祇園石段下で中村半次郎とすれ違っていた。中村は安井天神の方角に歩いていったという。方角とすれば、三年坂に向かったとも言える。)
(これで狛野を斬ったのは中村で間違いないと言って良い。しかし、実は山崎にとっては狛野殺しの下手人が誰であるかはどうでも良かった。彼は観柳斎と薩摩藩を結びつける証拠が欲しいのである。)
(狛野は壬生墓地に埋められ、卒塔婆が石塔に変わった。彼の一件については何も進展がないまま、時間だけが過ぎていった。しかし、その間に時勢は大きく変わった。薩長同盟の締結をきっかけに流れは勤王派に傾き始め、第二次長州征伐における敗北によって幕府の屋台骨は大きく傾いた。京都政界もまた、勤王派が力を取り戻し始めたのである。)
(土方はこの情勢を眺めながら、必ず隊内から通敵する者が出て来ると見ていた。通敵する人物は始めから判っている。時勢に敏感な教養派である。名を挙げるとすれば二人しか居ない。伊東甲子太郎と武田観柳斎である。これは早めに始末する事だと土方は考えた。)
(しかし、この二人はなおも近藤の信頼を得ている。例えば、去年の暮れに近藤が広島に出張したとき、帯同したのは他ならぬこの二人だった。長州藩と交渉を行うにあたって、彼らの教養を頼りにしたのである。土方としては一工夫が必要だった。)
(山崎が長い大阪の探索から帰って来ると、土方に呼ばれた。土方は三年坂の一件を忘れてはいないかと山崎に問いかける。山崎があの狛野千蔵のと言いかけると、土方は武田観柳斎の一件だと巧みにすり替えてしまう。)
(山崎は、狛野殺しに観柳斎は無関係だと報告したはずだった。しかし、土方は最近別の噂を耳にしたという。やはり観柳斎は薩摩屋敷に出入りしているらしい。その噂が事実がどうかを五番隊士から聞き取るようにと山崎に命じた。しかし、監察である山崎が直接隊士の間を聞いて回るのは差し障りがある。そこで、土方は実際に聞き取りにあたるべき隊士を指名した。その名を藻谷連という。)
(山崎は不審に思った。藻谷は槍が少々使えるだけの、どこと言って取り柄の無い隊士である。おそらく、土方は直接藻谷と話した事も無いであろう。)
(不審を抱いたまま、山崎は藻谷を部屋に呼んだ。監察に呼ばれた藻谷はひどく怯えていた。普段は大言荘語する人物であるくせに、根は至って小心者らしい。そうと気づいた時、山崎は土方が藻谷を指名した理由を理解した。山崎は藻谷に観柳斎に関する噂を伝え、それとなく身辺を見張っていてもらいたいと命じた。)
(それから2、3日経った頃、観柳斎が薩摩藩に通じているという噂が隊内に広まった。中には薩摩藩邸から出てくる所を見たという者まで居るという。山崎は土方が仕掛けた罠の効果に驚いた。)
(小心な藻谷は事の重大さに耐えきれず、同僚に秘密を漏らしたのである。のみならず、大言荘語癖のあるこの男は、自慢げに隊内にその噂を広めて歩きさえした。このため、燎原の火のように噂が広まったのである。こうなる事を見越して、土方は藻谷を指名したのであった。)
・近藤の広島行
「近藤勇が広島へ赴くべく京都を発ったのは、慶応元年11月4日の事です。この頃幕府は第二次征長の軍を起こし、各大名に出陣を命じていました。しかし、朝廷の意向によってすぐに開戦とは行かず、まずは長州藩の言い分を聞いてから処分案を決めるという段取りになっていました。その長州藩への尋問使として派遣されたのが大目付の永井尚志です。近藤はその永井の従者という名目で同道し、広島で永井と分かれて長州に潜入して様子を探るという役目を帯びていました。」
「この時近藤は、「馬上ながら啓上致し候」で始まる有名な書簡を故郷に送っています。その中で近藤は、今度のお役目は萩城下にまで潜入するという大仕事を命じられたのであるが、長州人にとって自分は仇敵であり、とうてい生きては戻れそうにはないという見通しを語っています。その上で、自分は長州藩に対し青天白日の論議を仕掛けるつもりであり、それでも斬られてしまったのなら長州藩は余計に罪を重ねる事になるのだと、決死の覚悟である事を示しました。」
「さらにこの手紙の追伸において、後のことは全て土方に託してある事、自分に万一の事があれば天然理心流の宗家は沖田総司に譲りたいと考えている事などを認めています。この広島行きに賭ける近藤の意気込みは、並大抵のものではなかった事が窺える内容ですね。」
「この大切な広島行きに帯同した同士は8名であり、その筆頭に武田観柳斎の名前が出てきます。これは、軍師としての観柳斎に対する近藤の信頼の現れと言っても良いのでしょうね。以下、伊東甲子太郎に続いて山崎の名が3番目に記されており、彼もまた監察としての腕を見込まれいた事が窺えます。」
「これほどまでに意気込んでいた近藤でしたが、長州方にすぐに素性を見破られ、萩城はおろか、長州藩内に踏み込む事すら出来ずに終わってしまいます。近藤は失意の内に京都へと帰るのですが、山崎は吉村貫一郎と共に、探索の為に広島に残されました。以後、山崎達は周防方と呼ばれる事になります。」
「京都へ帰ってからひと月後、近藤は再び広島へと赴きます。ところが、今度は観柳斎は同道しませんでした。理由は良く判りませんが、観柳斎に変えて篠原泰之進に同道を命じたのです。」
「このあたり、先の広島行きに際して、観柳斎に何か失策があったのではないかと推測されています。しかし、三井家の「新選組金談一件」に拠れば、慶応2年9月の時点で、なおも観柳斎は新選組の中で有力者としての地位を保っていた様子です。このあたり、観柳斎がなぜ二度目の広島行きからはずされたのかは、全くの謎としか言い様が無い様です。」
「一方の山崎はその後も広島に滞在しつづけ、慶応2年6月に開戦した第二次長州征伐の戦況を京都に伝えています。山崎は7月に一度京都に戻った後再び広島に向かっていますので、この年の大半は京都に居なかった事になります。作品中で大阪での探索とあるのは、実は広島での探索と言うのが正しい様ですね。」
・作品の舞台の紹介
「中村半次郎が密偵の妻に目撃されたのは祇園石段下でした。彼は安井天神に向かって歩いて行ったと言いますから、現在の石段下でその様子を再現すると冒頭の写真の様な景色になります。この写真は、無論この小説の場面を想定して撮ったものですが、ご覧の様に特に絵になるものではないので、周囲の人からは何を撮っているのだろうと不思議そうに見られていたのを覚えています...。」
「ところで、ここで気になるのが安井天神という名称です。素直に受け止めれば現在の安井金比羅宮の事を指していると思えるのですが、しかし金比羅様と天神様は同一の神様ではありません。」
「普通「天神」と言えば菅原道真公の事を指します。京都なら北野天満宮が有名ですよね。では安井金比羅宮に道真公が祀られているかというと、そういう事実はありません。」
「安井金比羅宮の起源をたどれば、藤原鎌足が創建した、藤の花が美しかったという「藤寺」に至ります。のち、この藤を愛した崇徳天皇が堂宇を改修して寵姫烏丸殿を住まわせました。」
「保元の乱で破れた崇徳天皇が配流先の讃岐の地で崩御されたとき、烏丸殿は観音堂に自筆の御尊影を祀られました。下って後白河法皇の時代に、崇徳天皇が姿を現して往事の盛況を示すという奇瑞があり、法皇の詔によって光明院観勝寺が建てられました。この寺が今の神社の起源とされています。」
「その後変遷を経て、讃岐から金比羅宮をお招きして鎮守の神とし、明治以後は寺が廃されて鎮守だけが残り、安井神社となりました。安井金比羅宮と改称したのは戦後の事で、この様に神社の歴史をたどってみても天神と呼ばれた時期は無いのです。」
「では安井天神と呼ばれる神社は無いかと探してみると、大阪にありました。大阪夏の陣で活躍した真田幸村の最期の地として知られるところで、当然司馬遼太郎氏も知っていた事でしょう。(確か城塞という小説の中にも出てきたと思うのですが、今はその本が見つからないので確かめられません。)恐らくはこの小説を書くにあたって、京都の安井金比羅宮と大阪の安井天神の名称を混同したものと推測されます。」
「重箱の隅を突く様な話ではあるのですが、こういうディテールにこだわってみると、意外な事実が判ったりして結構面白いのですよね。あと天神=道真公とは限らないという話題もあるのですが、長くなりますのでまた機会を見つけてアップしたいと思います。」
(参考文献)
新人物往来社「新選組銘々伝」、子母澤寛「新選組始末記」、伊東成郎「閃光の新選組」、松浦玲「新選組」
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