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2007.05.12

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋~

Sannensaka0606171


(新選組血風録概要)

(五番隊士、狛野千蔵が斬られた。出羽庄内の脱藩で、心形刀流の達人と言われた男だった。斬られた場所は清水産寧坂。時刻は酉の下刻(午後7時頃)と思われる。寒い夜で、うっすらと霜が橋板に降りていた。狛野の血がその霜を溶かしていた。)

(狛野の死体は辻番によって見つけられ、町奉行所を通して新選組に知らされた。その時には、発見から一刻(2時間)を経過していた。)

(不動堂村の屯所でこの知らせを受けたのは、月番に当たっていた監察の山崎蒸であった。月番とは6人の監察がひと月ごとに2人づつ宿営する宿直の事を指す。隊内でも十指に入るという狛野の腕を知る山崎は、彼が斬られたと聞いて驚きを隠せなかった。)

・三年坂の板橋

「この作品の冒頭に登場する狛野千蔵という隊士ですが、現存するどの名簿にも該当する名前は無く、司馬氏によって創作された架空の人物です。しかし、型破りな事に「狛野千蔵」という名前だけが冒頭の一行に掲げられており、読み手は強烈な存在感を持って意識させられる事になります。これは司馬氏が持つ、一流の小説のテクニックですね。」

「架空と言えば監察の月番という制度もそうで、いかにもありそうではありますが、資料からは確認する事はできません。恐らくは大阪や江戸にあった、東西町奉行の月番制度から思いついた虚構ではないかと思われます。でも、きっとこれも事実と信じている人が多い事でしょうね。」

「さらに屯所の場所が不動堂村となっているのですが、新選組が不動堂村に移ったのは慶応3年6月の事で、その頃には後で登場する武田観柳斉は脱退した後で、隊には在籍していませんでした。そして、その半年後には新選組そのものが伏見奉行所へと退いているので、この小説の様な長い展開があるはずも無いのです。」

「この様に最初から虚構で始まっているのが今回の作品なのですが、意外なところで思わぬ事実を伝えています。それが三年坂の板橋です。」

「現在の三年坂は冒頭の写真の様に石畳から石段へと続いており、どこを探しても板橋など存在していません。ではこれも虚構かと言うと、実はこの坂の登り口にかつて板橋が存在していた可能性が高いのです。その鍵となるのが道の真ん中にあるマンホール。」

「以前「近藤勇の首塚考その3」で、清水川という川が存在する事をお伝えしましたが、その川が三年坂を横切るのが丁度この場所にあたるのです。それを示しているのがマンホール(暗渠化した川のメンテナンス用と思われます)というわけで、直接的な証拠はありませんが、幕末期に板橋があったとしても不思議ではないのです。」

「司馬氏がこの事実を知っていたのか偶然なのかは判りません。でも、霜が降りた板橋の描写によって、狛野惨殺の光景がありありと浮かび上がってくるのですよね。虚構の中に事実を混ぜるのが小説に真実味を持たせる技法の一つなのですが、およそ誰も気づかないであろうこの板橋を持ってきた事に、正直驚きを隠せないでいます。もしかすると古図の中に板橋を描いたものがあったのかも知れませんね。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
子母澤寛「新選組始末記」、伊藤成郎「閃光の新選組」

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