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2007.05.18

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その7~

Fudoudoumuratonsyo0606281

(新選組血風録概要)

(噂を聞いて驚いたのは観柳斎である。観柳斎は薩摩人に一人の知り合いもない。つまり全くの濡れ衣であったが、内心ぎくりとするところもあった。薩摩人を知りたい、そう思って薩摩の事情に明るいらしい伊東に慇懃を通じ始めたばかりである。)

(観柳斎は噂の出所を究明しようともしなかった。新選組にあっては噂が出てしまえばそれが最後である。間違いなく斬られる。)

(観柳斎は行動に出た。河原町四条にある薩摩藩御用達、薩摩屋善左衛門方を訪ねたのである。観柳斎は店に入るや両刀を脱して土間の隅に置き、あるじに会わせて頂きたいと、卑屈なまでに下手に出た。)

(善左衛門は簡単に会ってくれた。腹の据わった男らしく、観柳斎が新選組五番隊長であると知っても顔色すら変えない。観柳斎は懐から手紙を取り出して、これを中村半次郎殿に取り次いでもらいたいと、すがる様に頼み込んだ。善左衛門はそんな観柳斎の様子を哀れみ、通りを隔てた向かい側にある薩摩屋敷まで手紙を届けてくれた。)

(程なく善左衛門は戻って来て、屋敷まで来て欲しいという半次郎の伝言を伝えた。観柳斎は太刀を薩摩屋に預け、脇差だけを差して薩摩藩邸へと赴いた。)

(藩邸の長屋の一室で半次郎は会ってくれた。初対面のあいさつを交わすなり、半次郎は佩刀をどうされたと聞いた。初めての対面ゆえ、向かいの薩摩屋に置いてきたという観柳斎の言葉に、半ばあきれる半次郎。)

(観柳斎の手紙には、勤王の志を忘れた新選組とは相容れなくなったから今後薩摩藩に通謀したい、ついては幕府方の情報をもたらす代わりに、露見した暁には貴藩邸にてかくまってもらいたいと認めてあった。)

(半次郎は手紙を一読し、委細判かりましたと答えた。しかし、それ以上の事は言わない。観柳斎は気を揉んで、大小となく隊のことを語った。その都度、半次郎は興深げに相づちを打つ。別れ際、半次郎は時々遊びに来る様に、ただし、佩刀の事は気遣いは無用、それほど新選組を恐れてはいないからと言って、小さく笑う。痛烈な皮肉であったが観柳斎には判らない。天にも昇る気持ちで休息所へと帰った。)

(翌日、薩摩屋における観柳斎の振る舞いが山崎の下にもたらされた。餅屋治兵衛の女房が、たまたま餅を納めに薩摩屋を訪れていたのである。偶然に得た情報なだけに生々しく、観柳斎の挙動が手に取る様に判った。)

(山崎は観柳斎が罠にかかったとは言わず、ただ事実でしたと土方に報告した。やはりそうだったろうと、顔色も変えずに答える土方。)

・観柳斎転落

「観柳斎が転落する様子は、西村兼文の「新撰組始末記」に詳しく記されています。それに拠れば、観柳斎は近藤・土方の寵愛を受けていたものの、幕府がフランス流の調練を取り入れたのに倣い、新選組もまた長沼流軍学を廃した事を恨みに思っていました。」

「自らの地位が危うくなったと感じた観柳斎は、一転して伊東甲子太郎一派に接近を試みます。しかし、伊東は普段の言動から観柳斎を怪しみ、これを受け入れませんでした。そこで観柳斎は薩摩藩邸への通謀を試みたのです。」

「観柳斎のこうした動きはよほど目立ったのでしょう、彼に恨みを持つ者が近藤に密告したため、全てが白日の下に晒される事になります。」

「以上が西村が記す観柳斎転落の経過ですが、実は同時代資料と照らし合わせると、必ずしも真実を伝えているとは言えない様です。前出の「新撰組金談一件」には、観柳斎は慶応2年10月に新選組を出走したとあり、隊を抜けていた事を伝えています。」

「尾張藩士が残した世態誌にも観柳斎は元新選組と記されており、何らかの理由で脱退していた事は確実と思われます。その理由とはやはり長沼流軍学の廃止と関係があるのでしょうか。」

「新選組が洋式調練を取り入れた時期というのは、実は明確にはなっていません。西本願寺において大砲の調練を行い、その音に驚いた門主が腰を抜かしてしまったという記録がある事から概ね慶応2年の春から夏頃と考えられていますが、慶応3年に入ってからだとする説もあります。」

「以前から疑問だったのですが、洋式調練を取り入れたのは良いのですが、誰が指揮を執っていたのでしょうね?観柳斎に代わる人材が新選組に居たのでしょうか。順当に考えれば、観柳斎が洋式調練の研究をし、そのまま指揮にあたっていたと思われるのですが、どんなものなのでしょう?それとも教官が幕府から派遣されて来ていたのでしょうか?そんな記録は無いと思うのですが...。」

「観柳斎の脱退が円満なものであったのか、それとも出奔と呼ぶべきものだったのかは判りません。金談一件には出走とあり、脱走に近いものだった様な語感が感じられますが、これも確実なものではありません。」

「この様に観柳斎が新選組を離れる経過については疑問符ばかりが並ぶのですが、少なくとも「新撰組始末記」の記述には、西村の創作がかなり混じっている事は間違いない様です。」

・小説の舞台について

「「新選組血風録」には、薩摩藩河原町藩邸という記述が何度か出てきます。これを読むとあたかも河原町四条に薩摩藩邸があったかの様に思ってしまうのですが、実際の薩摩藩邸はずっと西の四条高倉の地にありました。河原町にあったのは土佐藩邸ですね。」

「なぜ司馬氏が河原町に藩邸を置いたのかは良く判りません。誰でもすぐに思い浮かぶ場所を出して、小説の世界に入り込みやすくしたのでしょうか。あるいは本当に勘違いをしていたのか。いずれにしても紛らわしい記述ではありますね。」


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