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2007年5月

2007.05.19

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その8~

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(新選組血風録概要)

(慶応2年9月28日の夕、観柳斎は近藤の自室に呼ばれた。部屋に入ると、土方を始め、伊東、沖田、藤堂、原田、それに斉藤が居た。)

(既に酒宴が始まっており、観柳斎は今日の正客であるとして上座に座らされた。近藤は観柳斎に向かって、近くこの屯所を去って薩摩屋敷に入られるそうである。めでたい事だと言い、隊士に命じて酒を注がせた。観柳斎は驚き弁解に努めたが、近藤は節を変ずるにはよほどの存念があったのであろうと言って聞かない。)

(観柳斎は覚悟を決めた。そこは新選組の一手を担ってきた男である。腹を据えてしまえば、人変わりがしたと思うほどに見事であった。さされる杯はことごとく受け、酔ったと思う頃合い、近藤が斉藤に声を掛けた。酔った観柳斎を薩摩屋敷にまで送る様にと命じる。観柳斎は手を振って断ろうとしたが、先に斉藤が部屋を出てしまっている。)

(屯所を出ると、良い月夜だった。小者が差し出す提灯を見て、斉藤が要るまいと観柳斎に笑いかける。観柳斎も渋い顔をして要らぬだろうと言って歩き始めた。)

(観柳斎は下京の街中を東に向かって歩いた。やがて河原町通に至り、これを北に向かえば薩摩藩邸だった。ところが、観柳斎はなおも東へと歩き続ける。ついに鴨川に架かる銭取橋にまで来た。これを渡れば竹田街道へと繋がる。)

(斉藤は業を煮やし、どこへ行くと声を掛けた。観柳斎は、故郷の出雲へ帰ると答える。斉藤は意外に思ったが、すぐに武田君、よろしいかと刀の柄に手を掛けた。心得ていると言うなり、抜き打ちで斬りかかる観柳斎。しかし、斉藤の刀の方が一瞬速く、観柳斎の逆胴を斬って、数間向こうに飛んでいた。観柳斎、即死。)

・観柳斎の死

「観柳斎が近藤に招かれ、酒宴の座上で薩摩への寝返りを暴かれたという筋書きは、新撰組始末記にあるとおりです。そして、送り狼となったのは作品中では斉藤一人ですが、始末記においては篠原泰之進も一緒だったとされています。篠原は観柳斎と懇意の仲でしたが、観柳斎を油断させるために同道させたのでした。」

「観柳斎は篠原を信頼しており、いざというときには助けてくれると思っていました。しかし、既に近藤から意を含められていた篠原にはその気はなく、斉藤がいつ手を下すかと注意深く見ていたのでした。そして、銭取橋で斉藤が観柳斎に斬りつけると、自らも観柳斎に一刀を浴びせています。」

「帰り道、斉藤と篠原は、それぞれの心中を語り合い、微笑しながら引き上げました。筆者の西村兼文はこの有様をして、親友であっても頼みに出来ない薄情さを嘆き、恐るべき時勢であったと振り返っています。」

「しかし、この観柳斎の最期は、同時代資料である「世態誌」の発見によって、大きく訂正される事になったのは以前に書いたとおりです。繰り返しになりますが、観柳斎が殺害されたのは慶応3年6月22日の事でした。この時、斉藤と篠原はすでに御陵衛士として分離しており、近藤の命を受けて観柳斎を殺害するという筋書きはいかにも不自然という事になるのです。」

「世態誌に拠れば、下手人は新選組の仲間、場所は銭取橋でした。この時観柳斎だけでなく、彼の死体をもらい受けに来た3人の人物もまた斬られています。さらにもう一人の同士が枚方で切腹し、5日後には観柳斎と意を通じていた善応という僧侶が殺害されています。」

「観柳斎が新選組を離脱してから半年あまりの間、どこで何をしていたのかは全く記録にありません。したがって想像するしか無いのですが、小さいながらも徒党を組んで勤王活動を行い、それが近藤の知るところとなって、裏切り者として始末されたのではないかと推測されています。」

「ここで、西村が記した慶応2年9月28日という日付に着目してみると、その前日と前々日は、伊東と篠原が近藤と土方を相手に分離論を説いたとされる日です。この時、近藤は渋々ながら分離を認めたといわれますが、実は時局論を戦わせただけだとする説もあります。」

「一方、新撰組金談一件の記述により、観柳斎の新選組の離脱はこの年の10月であったことが判っていますが、実は同じ時期に勘定方であった酒井兵庫もまた新選組を脱退しているのです。伊東一派が分離する事を明確にしたとされる慶応2年9月から10月にかけては、実は新選組が大きく揺らいでいた時期でもあったのです。」

「観柳斎や酒井の離脱が、伊東の分離論と関わりがあるのかどうかは判りません。もしかすると、伊東の御陵衛士と同じく、観柳斎もまた局外から新選組に協力するという名目で離脱したのかも知れません。そう考えると、伊東と近藤の談判の場には、観柳斎も同席していたのかも知れないですね。」

「ものすごく穿った見方をすれば、広島において近藤は新選組の限界を悟りました。その壁を打ち破るべく二人のブレーンを局外に独立させてフリーの立場に置き、勤王方に食い込んで情報を探らせる構想を立てた、という解釈も出来なくはないですね。(これはあくまで私見であって、何の根拠もないただの空想です。)いずれにしても9月28日という日付は偶然ではなく、その日に何かがあった事を示しているものと思われます。」

・作品の舞台の紹介

「銭取橋は実在した橋で、公設されたものではなく私設のものでした。文字通り通行銭を徴収した橋で、集めた金は伏見稲荷に寄進されていたと言われます。現在の橋名である勧進橋は、その事から来ているのでしょうね。」

「今は国道24号の橋として立派な4車線の道路となっています。しかし、幕末当時は追いはぎが出るという、きわめて治安の悪い場所でした。薩摩藩の飛脚が襲われて辛くも逃げ切ったと言いますから、相当なものだった様です。」

「その様な場所に観柳斎が一人で出向くというのも不自然であり、やはり新選組による作為があったのでしょうね。ここで思い出されるのが伊東の場合で、彼もまた近藤の妾宅に呼ばれ、酒宴の帰り道を襲撃されて命を落としました。西村の描く観柳斎の最期と見事に符号しており、これが新選組の常套手段だったという事なのでしょう。ついでに言えば、芹沢鴨もまた、酒宴の後に殺害されています。」

「こう考えると日付や斬った人物に錯誤こそあれ、観柳斎の最期の情景は西村が描いたものと大差がなかったのかも知れません。死体を受け取りに来た仲間を殺害したというのも、油小路事件と符号していますね。もしかしたら、油小路事件は、観柳斎とその一派を粛正した事を下敷きにして計画されたのかも知れません。」

「最後に、ここでも作品中の地理はおかしな事になっています。屯所から東に向かって河原町通にまで至るところまでは良いのですが、銭取橋に行くにはそこから南下しなければなりません。そのまま東に向かえば七条大橋に至る事になり、この下りを素直に受けて、銭取橋は七条大橋の事だと勘違いしている人も多いのではないでしょうか。」

「繰り返しますが、銭取橋は現在の勧進橋であり、九条通よりもさらに南に位置しています。近くには伏見稲荷大社、さらには高校ラグビーで有名な伏見工業高校があります。きっと知らないうちに通り過ぎている人も多いことでしょうね。」

参考文献

新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」)、子母澤寛「新選組始末記」、伊東成郎「閃光の新選組」

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2007.05.18

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その7~

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(新選組血風録概要)

(噂を聞いて驚いたのは観柳斎である。観柳斎は薩摩人に一人の知り合いもない。つまり全くの濡れ衣であったが、内心ぎくりとするところもあった。薩摩人を知りたい、そう思って薩摩の事情に明るいらしい伊東に慇懃を通じ始めたばかりである。)

(観柳斎は噂の出所を究明しようともしなかった。新選組にあっては噂が出てしまえばそれが最後である。間違いなく斬られる。)

(観柳斎は行動に出た。河原町四条にある薩摩藩御用達、薩摩屋善左衛門方を訪ねたのである。観柳斎は店に入るや両刀を脱して土間の隅に置き、あるじに会わせて頂きたいと、卑屈なまでに下手に出た。)

(善左衛門は簡単に会ってくれた。腹の据わった男らしく、観柳斎が新選組五番隊長であると知っても顔色すら変えない。観柳斎は懐から手紙を取り出して、これを中村半次郎殿に取り次いでもらいたいと、すがる様に頼み込んだ。善左衛門はそんな観柳斎の様子を哀れみ、通りを隔てた向かい側にある薩摩屋敷まで手紙を届けてくれた。)

(程なく善左衛門は戻って来て、屋敷まで来て欲しいという半次郎の伝言を伝えた。観柳斎は太刀を薩摩屋に預け、脇差だけを差して薩摩藩邸へと赴いた。)

(藩邸の長屋の一室で半次郎は会ってくれた。初対面のあいさつを交わすなり、半次郎は佩刀をどうされたと聞いた。初めての対面ゆえ、向かいの薩摩屋に置いてきたという観柳斎の言葉に、半ばあきれる半次郎。)

(観柳斎の手紙には、勤王の志を忘れた新選組とは相容れなくなったから今後薩摩藩に通謀したい、ついては幕府方の情報をもたらす代わりに、露見した暁には貴藩邸にてかくまってもらいたいと認めてあった。)

(半次郎は手紙を一読し、委細判かりましたと答えた。しかし、それ以上の事は言わない。観柳斎は気を揉んで、大小となく隊のことを語った。その都度、半次郎は興深げに相づちを打つ。別れ際、半次郎は時々遊びに来る様に、ただし、佩刀の事は気遣いは無用、それほど新選組を恐れてはいないからと言って、小さく笑う。痛烈な皮肉であったが観柳斎には判らない。天にも昇る気持ちで休息所へと帰った。)

(翌日、薩摩屋における観柳斎の振る舞いが山崎の下にもたらされた。餅屋治兵衛の女房が、たまたま餅を納めに薩摩屋を訪れていたのである。偶然に得た情報なだけに生々しく、観柳斎の挙動が手に取る様に判った。)

(山崎は観柳斎が罠にかかったとは言わず、ただ事実でしたと土方に報告した。やはりそうだったろうと、顔色も変えずに答える土方。)

・観柳斎転落

「観柳斎が転落する様子は、西村兼文の「新撰組始末記」に詳しく記されています。それに拠れば、観柳斎は近藤・土方の寵愛を受けていたものの、幕府がフランス流の調練を取り入れたのに倣い、新選組もまた長沼流軍学を廃した事を恨みに思っていました。」

「自らの地位が危うくなったと感じた観柳斎は、一転して伊東甲子太郎一派に接近を試みます。しかし、伊東は普段の言動から観柳斎を怪しみ、これを受け入れませんでした。そこで観柳斎は薩摩藩邸への通謀を試みたのです。」

「観柳斎のこうした動きはよほど目立ったのでしょう、彼に恨みを持つ者が近藤に密告したため、全てが白日の下に晒される事になります。」

「以上が西村が記す観柳斎転落の経過ですが、実は同時代資料と照らし合わせると、必ずしも真実を伝えているとは言えない様です。前出の「新撰組金談一件」には、観柳斎は慶応2年10月に新選組を出走したとあり、隊を抜けていた事を伝えています。」

「尾張藩士が残した世態誌にも観柳斎は元新選組と記されており、何らかの理由で脱退していた事は確実と思われます。その理由とはやはり長沼流軍学の廃止と関係があるのでしょうか。」

「新選組が洋式調練を取り入れた時期というのは、実は明確にはなっていません。西本願寺において大砲の調練を行い、その音に驚いた門主が腰を抜かしてしまったという記録がある事から概ね慶応2年の春から夏頃と考えられていますが、慶応3年に入ってからだとする説もあります。」

「以前から疑問だったのですが、洋式調練を取り入れたのは良いのですが、誰が指揮を執っていたのでしょうね?観柳斎に代わる人材が新選組に居たのでしょうか。順当に考えれば、観柳斎が洋式調練の研究をし、そのまま指揮にあたっていたと思われるのですが、どんなものなのでしょう?それとも教官が幕府から派遣されて来ていたのでしょうか?そんな記録は無いと思うのですが...。」

「観柳斎の脱退が円満なものであったのか、それとも出奔と呼ぶべきものだったのかは判りません。金談一件には出走とあり、脱走に近いものだった様な語感が感じられますが、これも確実なものではありません。」

「この様に観柳斎が新選組を離れる経過については疑問符ばかりが並ぶのですが、少なくとも「新撰組始末記」の記述には、西村の創作がかなり混じっている事は間違いない様です。」

・小説の舞台について

「「新選組血風録」には、薩摩藩河原町藩邸という記述が何度か出てきます。これを読むとあたかも河原町四条に薩摩藩邸があったかの様に思ってしまうのですが、実際の薩摩藩邸はずっと西の四条高倉の地にありました。河原町にあったのは土佐藩邸ですね。」

「なぜ司馬氏が河原町に藩邸を置いたのかは良く判りません。誰でもすぐに思い浮かぶ場所を出して、小説の世界に入り込みやすくしたのでしょうか。あるいは本当に勘違いをしていたのか。いずれにしても紛らわしい記述ではありますね。」


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2007.05.17

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その6~

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(新選組血風録概要)

(花が帰った後、誓願寺裏の床与の主人がやってきた。残念ながら当夜の藩邸の出入りは判らないと言う。しかし、その日の夕暮れ時、彼の女房が祇園石段下で中村半次郎とすれ違っていた。中村は安井天神の方角に歩いていったという。方角とすれば、三年坂に向かったとも言える。)

(これで狛野を斬ったのは中村で間違いないと言って良い。しかし、実は山崎にとっては狛野殺しの下手人が誰であるかはどうでも良かった。彼は観柳斎と薩摩藩を結びつける証拠が欲しいのである。)

(狛野は壬生墓地に埋められ、卒塔婆が石塔に変わった。彼の一件については何も進展がないまま、時間だけが過ぎていった。しかし、その間に時勢は大きく変わった。薩長同盟の締結をきっかけに流れは勤王派に傾き始め、第二次長州征伐における敗北によって幕府の屋台骨は大きく傾いた。京都政界もまた、勤王派が力を取り戻し始めたのである。)

(土方はこの情勢を眺めながら、必ず隊内から通敵する者が出て来ると見ていた。通敵する人物は始めから判っている。時勢に敏感な教養派である。名を挙げるとすれば二人しか居ない。伊東甲子太郎と武田観柳斎である。これは早めに始末する事だと土方は考えた。)

(しかし、この二人はなおも近藤の信頼を得ている。例えば、去年の暮れに近藤が広島に出張したとき、帯同したのは他ならぬこの二人だった。長州藩と交渉を行うにあたって、彼らの教養を頼りにしたのである。土方としては一工夫が必要だった。)

(山崎が長い大阪の探索から帰って来ると、土方に呼ばれた。土方は三年坂の一件を忘れてはいないかと山崎に問いかける。山崎があの狛野千蔵のと言いかけると、土方は武田観柳斎の一件だと巧みにすり替えてしまう。)

(山崎は、狛野殺しに観柳斎は無関係だと報告したはずだった。しかし、土方は最近別の噂を耳にしたという。やはり観柳斎は薩摩屋敷に出入りしているらしい。その噂が事実がどうかを五番隊士から聞き取るようにと山崎に命じた。しかし、監察である山崎が直接隊士の間を聞いて回るのは差し障りがある。そこで、土方は実際に聞き取りにあたるべき隊士を指名した。その名を藻谷連という。)

(山崎は不審に思った。藻谷は槍が少々使えるだけの、どこと言って取り柄の無い隊士である。おそらく、土方は直接藻谷と話した事も無いであろう。)

(不審を抱いたまま、山崎は藻谷を部屋に呼んだ。監察に呼ばれた藻谷はひどく怯えていた。普段は大言荘語する人物であるくせに、根は至って小心者らしい。そうと気づいた時、山崎は土方が藻谷を指名した理由を理解した。山崎は藻谷に観柳斎に関する噂を伝え、それとなく身辺を見張っていてもらいたいと命じた。)

(それから2、3日経った頃、観柳斎が薩摩藩に通じているという噂が隊内に広まった。中には薩摩藩邸から出てくる所を見たという者まで居るという。山崎は土方が仕掛けた罠の効果に驚いた。)

(小心な藻谷は事の重大さに耐えきれず、同僚に秘密を漏らしたのである。のみならず、大言荘語癖のあるこの男は、自慢げに隊内にその噂を広めて歩きさえした。このため、燎原の火のように噂が広まったのである。こうなる事を見越して、土方は藻谷を指名したのであった。)

・近藤の広島行

「近藤勇が広島へ赴くべく京都を発ったのは、慶応元年11月4日の事です。この頃幕府は第二次征長の軍を起こし、各大名に出陣を命じていました。しかし、朝廷の意向によってすぐに開戦とは行かず、まずは長州藩の言い分を聞いてから処分案を決めるという段取りになっていました。その長州藩への尋問使として派遣されたのが大目付の永井尚志です。近藤はその永井の従者という名目で同道し、広島で永井と分かれて長州に潜入して様子を探るという役目を帯びていました。」

「この時近藤は、「馬上ながら啓上致し候」で始まる有名な書簡を故郷に送っています。その中で近藤は、今度のお役目は萩城下にまで潜入するという大仕事を命じられたのであるが、長州人にとって自分は仇敵であり、とうてい生きては戻れそうにはないという見通しを語っています。その上で、自分は長州藩に対し青天白日の論議を仕掛けるつもりであり、それでも斬られてしまったのなら長州藩は余計に罪を重ねる事になるのだと、決死の覚悟である事を示しました。」

「さらにこの手紙の追伸において、後のことは全て土方に託してある事、自分に万一の事があれば天然理心流の宗家は沖田総司に譲りたいと考えている事などを認めています。この広島行きに賭ける近藤の意気込みは、並大抵のものではなかった事が窺える内容ですね。」

「この大切な広島行きに帯同した同士は8名であり、その筆頭に武田観柳斎の名前が出てきます。これは、軍師としての観柳斎に対する近藤の信頼の現れと言っても良いのでしょうね。以下、伊東甲子太郎に続いて山崎の名が3番目に記されており、彼もまた監察としての腕を見込まれいた事が窺えます。」

「これほどまでに意気込んでいた近藤でしたが、長州方にすぐに素性を見破られ、萩城はおろか、長州藩内に踏み込む事すら出来ずに終わってしまいます。近藤は失意の内に京都へと帰るのですが、山崎は吉村貫一郎と共に、探索の為に広島に残されました。以後、山崎達は周防方と呼ばれる事になります。」

「京都へ帰ってからひと月後、近藤は再び広島へと赴きます。ところが、今度は観柳斎は同道しませんでした。理由は良く判りませんが、観柳斎に変えて篠原泰之進に同道を命じたのです。」

「このあたり、先の広島行きに際して、観柳斎に何か失策があったのではないかと推測されています。しかし、三井家の「新選組金談一件」に拠れば、慶応2年9月の時点で、なおも観柳斎は新選組の中で有力者としての地位を保っていた様子です。このあたり、観柳斎がなぜ二度目の広島行きからはずされたのかは、全くの謎としか言い様が無い様です。」

「一方の山崎はその後も広島に滞在しつづけ、慶応2年6月に開戦した第二次長州征伐の戦況を京都に伝えています。山崎は7月に一度京都に戻った後再び広島に向かっていますので、この年の大半は京都に居なかった事になります。作品中で大阪での探索とあるのは、実は広島での探索と言うのが正しい様ですね。」

・作品の舞台の紹介

「中村半次郎が密偵の妻に目撃されたのは祇園石段下でした。彼は安井天神に向かって歩いて行ったと言いますから、現在の石段下でその様子を再現すると冒頭の写真の様な景色になります。この写真は、無論この小説の場面を想定して撮ったものですが、ご覧の様に特に絵になるものではないので、周囲の人からは何を撮っているのだろうと不思議そうに見られていたのを覚えています...。」

「ところで、ここで気になるのが安井天神という名称です。素直に受け止めれば現在の安井金比羅宮の事を指していると思えるのですが、しかし金比羅様と天神様は同一の神様ではありません。」

「普通「天神」と言えば菅原道真公の事を指します。京都なら北野天満宮が有名ですよね。では安井金比羅宮に道真公が祀られているかというと、そういう事実はありません。」

「安井金比羅宮の起源をたどれば、藤原鎌足が創建した、藤の花が美しかったという「藤寺」に至ります。のち、この藤を愛した崇徳天皇が堂宇を改修して寵姫烏丸殿を住まわせました。」

「保元の乱で破れた崇徳天皇が配流先の讃岐の地で崩御されたとき、烏丸殿は観音堂に自筆の御尊影を祀られました。下って後白河法皇の時代に、崇徳天皇が姿を現して往事の盛況を示すという奇瑞があり、法皇の詔によって光明院観勝寺が建てられました。この寺が今の神社の起源とされています。」

「その後変遷を経て、讃岐から金比羅宮をお招きして鎮守の神とし、明治以後は寺が廃されて鎮守だけが残り、安井神社となりました。安井金比羅宮と改称したのは戦後の事で、この様に神社の歴史をたどってみても天神と呼ばれた時期は無いのです。」

「では安井天神と呼ばれる神社は無いかと探してみると、大阪にありました。大阪夏の陣で活躍した真田幸村の最期の地として知られるところで、当然司馬遼太郎氏も知っていた事でしょう。(確か城塞という小説の中にも出てきたと思うのですが、今はその本が見つからないので確かめられません。)恐らくはこの小説を書くにあたって、京都の安井金比羅宮と大阪の安井天神の名称を混同したものと推測されます。」

「重箱の隅を突く様な話ではあるのですが、こういうディテールにこだわってみると、意外な事実が判ったりして結構面白いのですよね。あと天神=道真公とは限らないという話題もあるのですが、長くなりますのでまた機会を見つけてアップしたいと思います。」

(参考文献)

新人物往来社「新選組銘々伝」、子母澤寛「新選組始末記」、伊東成郎「閃光の新選組」、松浦玲「新選組」


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2007.05.16

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その5~

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(新選組血風録概要)

(山崎の踏んだとおり、下手人は薩摩人と見て間違いなさそうだった。あの凄まじい切り口は、薩摩御流儀である示源流のものである。)

(示源流は何よりも太刀行きの速さを尊ぶ。敵の出方には委細構わず、一瞬でも速く相手を斬撃する。見事にその初太刀が決まれば、相手は間違いなく即死する。新選組では、近藤、土方がこの剣法を研究し、初太刀だけは何としてもはずせ、はずしてしまえば二の太刀からは他流儀の方が勝っていると隊士に教えた。)

(事件から3日目に、山崎は土方の部屋を訪れた。この日も土方は餅を焼いていた。山崎が下手人は薩摩人であるらしいと報告すると、土方はやはりそうかと答えた。土方の見方も山崎と同じだったらしい。しかし、そのあと土方は驚くべき事を口にした。下手人は観柳斎だという。直接手を下したのは薩摩人でも、手引きをしたのは観柳斎だと断定するのである。)

(山崎は驚いた。ただし、観柳斎に対する同情からではなく、監察の知らないところで副長が新たな証拠を手に入れたかと、自らの失策が気になったのである。証拠はと訊ねる山崎に、土方は観柳斎の人柄そのものが証拠だと答える。)

(武田は天才的な阿諛屋で、近藤、土方には猫がじゃれる様な接近の仕方をするくせに、同僚や下僚に対しては氷のように冷たい男だった。傍目には近藤も土方も観柳斎におだてられて良い気になっている様に見えた。しかし、どうやら土方は違っていたらしい。)

(土方は山崎に観柳斎の調査に対する方針を尋ねた。山崎は内心、観柳斎は薩摩藩に内通しているのではないかと疑っていた。その線に沿って調べを進めるつもりではあったが、山崎なりの考えがあってあえて言わなかった。果たして土方は観柳斎は薩摩藩に通じていると山崎に助言した。この言葉に、山崎はわざと驚いて見せた。山崎なりの土方に対する阿諛である。)

(その日の午後、花が山崎を訪ねてきた。話を聞いてみると、観柳斎はあけぼの亭の古くからの馴染み客であり、一元客として薩摩人に連れられてきたというのは花の勘違いであったという。花は奥勤めであり、常連客の事は実は良く知らないと言うのである。)

(しかし、そのあけぼの亭に来た薩摩人の事は、同僚から聞き出してくれていた。その男とは中村半次郎であるという。その名を聞いて山崎は驚いた。名うての人斬りである。)

(その上、かつて新選組を襲うという計画を立てた事もある男であった。当時は薩摩藩としても会津藩との協調を必要としていた時期であったため西郷が止めたが、倒幕色を露わにし始めた今となっては、中村をして新選組の切り崩しをさせたとしても不思議は無いのである。)

(山崎は花に念を押して確かめたが、観柳斎と中村が一緒に来た事は一度も無いと言う。これで観柳斎の薩摩臭は抜けた事になる。観柳斎が下手人であると決めつけている土方に何と言えばよいかと山崎は途方に暮れた。)

・観柳斎の評価

「観柳斎が近藤の信頼を得ていた事は既に触れたとおりですが、単なる阿諛の徒ではなく、確かな腕と頭脳に裏打ちされた一廉の人物だったからでした。阿諛だけの人物を重用するほど近藤はお人好しではありません。」

「ただ、観柳斎が尊大な人物であった事も確からしく、その事が観柳斎の後世の評価を曇らせている様ですね。また、何かと芝居がかった演出をする傾向があり、永倉はそのあたりが気に入らなかった様子です。一介の浪人が世に出るためには自らを大きく見せる必要があったのでしょうけれども、そのせいでせっかくの才能が評価される事無く埋もれてしまったのは惜しい気がしますね。」

・あけぼの亭について

「現在の明保野亭は三年坂の中程にあり、この小説でも狛野が斬られていた場所から推測すると、今の明保野亭を念頭に置いて書かれた様です。しかし、当時のあけぼの亭は現在の清龍苑の付近にあり、冒頭の写真にある茅葺きの門が当時の面影を今に伝えているとされています。」

「このあけぼの亭と観柳斎との間には深い因縁があります。池田屋事件から程ない時期に起こった「あけぼの亭事件」の時、新選組を率いていたのが観柳斎だったのです。この事件では罪無き土佐藩士と会津藩士が切腹して果てるという痛ましい結末を迎えるのですが、指揮官であった観柳斎は会津藩士柴司の葬儀に参列し、一首の弔歌を残しています。」

「司馬氏がこの事件の事を知らなかったはずは無いと思うのですが、あえて触れる事無くスルーしていますね。主題とは関わりないと判断したものか、この事件を踏まえてあけぼの亭を舞台としたのかは判りません。龍馬が行くでもあけぼの亭は出てきますから、司馬氏が幕末の主要な舞台として捉えていた事は間違いない様ですね。」

「歴史的には関係が無いとはいえ、三年坂と明保野亭は絶好のロケーションにあり、維新史を語るにはこの上ない舞台装置であると言えそうです。」

(参考文献)

新人物往来社「新選組銘々伝」、子母澤寛「新選組始末記」、伊東成郎「閃光の新選組」、永倉新八「新撰組顛末記」

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2007.05.15

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その4~

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(新選組血風録概要)

(翌日、山崎は誓願寺裏の髪結「床与」の主人と河原町四条の餅屋治兵衛を呼び出し、事件当夜に河原町の薩摩藩邸で人の出入りがあったかどうか調べる様に命じた。二人とも新選組の密偵を勤める人物である。)

(夕刻、三年坂で調査を命じた同心から2つの報告があった。一つは当夜三年坂の界隈では武士の会合は一件も無かった事、もう一つは死んだ狛野のなじみであったらしい女が居る事であった。女の名は花といい、高台寺下の借家で暮らしているという。)

(山崎は花の家を訪ねた。花は30を過ぎたばかりの京美人であった。突然の山崎の訪問にしばらく呆然としていた花だったが、問われるままに狛野との馴れ初めを語り始めた。)

(花は三年坂近くにあるあけぼの亭という茶屋に手伝いに通っているのだが、狛野はそこの客であった。狛野ははじめ観柳斎に連れられて来たのだが、次は一人で現れたという。どうやら花が目当てであったらしい。花も狛野を憎からず思っており、二人は自然と結ばれる事になった。)

(山崎は観柳斎の事を訊ねた。花の話に拠れば観柳斎も一元の客だったらしい。彼を案内して来た人物は誰かと重ねて聞くと、彼女は店の奥に勤める下働きだからはっきりとは知らないが、大男で目鼻立ちのくっきりとしたいい男だという。そして、男は薩摩なまりを持っていた。)

・新選組の密偵

「新選組が使っていた密偵の消息については、新選組物語に登場する床伝のエピソードが知られています。床伝は東本願寺近くで床屋を営んでいたとされる人物で、天才的と言われた剃刀の腕を生かして、勤王派の根拠地であった東坊に髪結いとして出入りする事に成功します。そして、巧みな話術を駆使しては勤王派の情報を聞き出していました。」

「床伝の娘「みの」もまた、父を助けて密偵として活躍していました。彼女は女としての体を張って志士達に近づき、寝物語に情報を聞き出していたのです。床伝がもたらす情報は新選組にとって大いに利益になるりものばかりでした。」

「しかし、ある日ついに床伝の素性が知れる日が来ました。勤王派の間でも、みのに近づいた志士達から機密が漏れているらしい事に気づいたのです。彼らは罠を張り、わざと偽りの情報をみのに漏らしました。その情報どおりに幕府方が動いた事を確認した志士達は、すぐに床伝を襲ってその首を刎ねました。そしてみのを河原に呼び出し、みのの眼前に彼女と関係した志士達が勢揃いしてこれを辱めたのです。」

「この話を後世に伝えたのは、東房の住職の娘であり篠原泰之進の二度目の妻となったチマだとされます。このエピソードは長く創作された物語だと思われていたのですが、床伝は和泉屋伝吉という実在の人物だった事を示す資料が見つかり、意外にも事実を伝えているらしい事が判りました。この話をすべて鵜呑みには出来ないでしょうけれども、新選組が髪結いを密偵として使っていたという事実はあったと考えても良いのでしょう。」

・物語の舞台について

「花が住んでいたとされるのは、高台寺下の長屋とされています。高台寺は広大な境内を持っていた大寺でしたが、明治以後は廃仏毀釈の洗礼を受け、さらには土地に課せられる税金を逃れるために、次々と土地を手放して行きました。その土地が民間の手に渡って開発され、貸家などが多く建てられています。その一つが石塀小路で、料亭や貸座敷を念頭に置いた高級貸家街として、計画的な開発が行われました。」

「庶民に向けた長屋も建てられており、その面影は維新の道への登り口付近に残っています。「暗夜行路」で描かれた貸し家を巡る情景は、このあたりを舞台にしていたものと思われます。こうして明治から大正にかけて開発が進み、今の町並みが形成されました。」

「花が住んでいた幕末はというと、二年坂界隈(桝屋町)は江戸時代の半ばに開発されており、また古写真を見ると下河原あたりにも家が建ち並んでいた事が判ります。高台寺の周辺は明治以前においても相当に開発が進んでいた事が窺えるのですが、明治以後はそこに高台寺の境内であった土地が加わって、さらなる広がりを見せたという事なのでしょう。」

「これからすると、花が住んでいたのは下河原界隈という事になるでしょうか。現在の景観から石塀小路や祇園閣、霊山観音や護国神社の鳥居などを除いていくと、当時の情景が浮かび出てくるかも知れないですね。むろん道はアスファルトではなく地道だったでしょうけど、狭い道を挟んだ低い町並みの向こう側に八坂の塔が見えている情景は、今とさほどの違いは無かったものと思われます。」

(参考文献)
子母澤寛「新選組物語」、歴史読本2004年12月号「新選組をめぐる女性たち」

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2007.05.14

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その3~

Sannensaka0606172


(新選組血風録概要)

(観柳斎が5番隊の隊士を連れて出発した後、山崎は土方の部屋に呼ばれた。土方は餅を焼きながら、狛野を頭から一太刀で惨殺したという相手の腕に感心してみせる。そして、この件について手を出してみろと謎の様な言葉を吐く。不審に思いながらも、観柳斎より先回りをしろという土方の命に従って、三年坂まで馬を飛ばす山崎。)

(三年坂の現場では、二人の奉行所同心が番をしていた。彼らに向かって新選組の山崎蒸であると名乗り、馬から飛び降りる山崎。彼は同心達に必要な質問をしつつ、死体の傷口をあらためた。その切り口を子細に検分すればするほど、相手の剣の凄まじさが判る。)

(山崎は同心達に向かって、この付近の料亭を調べ、今夜は武士の会合がなったか確かめる様に指示した。併せて、近くに若い女が住んでいないか、居れば狛野が通っていなかったかも調べるようにも命じた。さらに、この事は奉行所の同僚にも、また後から狛野の死体を引き取りに来る新選組の隊士にも内密にするようにと釘を刺した。)

「山崎が三年坂に着いたのは、小説の流れからすると午後10時頃の事になるでしょうか。現在の三年坂は、花灯路などの特別のイベントがある時を除いて、清水寺の門が閉まると同時に人気が無くなり、夜はごく寂しい場所になります。人知れず隊士が殺されていたとしても、不思議では無い場所ですね。」

「一方、幕末の頃はどうだったかと言うと、このあたりには清水新地と呼ばれる遊郭がありました。二年坂にある阿古屋茶屋が当時の面影を残していると言われますが、このあたりの町並みが全体として雅なのは、かつて花街であった名残なのでしょう。」

「ですから夜に関して言えば今よりもずっと賑やかでした。そんな場所で斬り合いがあれば、きっと大騒ぎになった事でしょうね。今から見れば事件の舞台としてふさわしく見える三年坂ですが、時代をさかのぼってみると今とはまるで違った貌を持っていたのですね。」

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2007.05.13

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その2~

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(壬生寺)


(新選組血風録概要)

(山崎は狛野の所属隊長である武田観柳斎の部屋に駆け込んだ。部屋ではすでに知らせを受けていたらしい観柳斎が、外出の支度をしていた。)

(山崎は観柳斎に、狛野は外出届を出していたかと確かめた。しかし、観柳斎は知らぬと言う。山崎はそれではあなたの隊士取り扱いの不行き届きになると追求したが、観柳斎は隊士が勝手に抜け出していく先をいちいち見張る事などできないと切り返す。)

(実はこの二人は仲が良くなかった。二人は8・18の政変後、新選組が公式に発足した直後に行われた募集に応じて採用された同期である。この時採用された者は71名いたが、この二人は群を抜いて出色の方であった。山崎が諸士取締役兼監察に抜擢されたのに対し、観柳斎は五番隊長に登用されている。特に観柳斎については長沼流の軍学の素養があり、その事で近藤の信任を得て隊士一同に調練を施す立場に立った。)

(観柳斎は近藤のために軍配を誂えて、これを献上した。そしてその軍配を調練の為に必要であると言って借り受け、同士に向かっては近藤の権威の象徴として最大限に利用した。観柳斎は隊士一同を壬生寺の境内に集めて調練を行い、その軍配を振るっては近藤の下知であると言って、同格の隊士達をびしびしと叱りつけたのである。)

(ほどなく観柳斎は兵学師範に登用され、隊内での地位は揺るぎのないものとなった。しかし、やがて彼の権威が墜ちる時が来た。幕府がフランス流軍学を取り入れた事に倣い、新選組でも長沼流軍学を廃止したのである。隊士一同はざまを見ろと溜飲を下げたが、しかし観柳斎は依然として五番隊長として隊の大幹部であり、巧みに近藤に取り入っては隊士の告げ口を行うため密かに恐れられていた。)

「武田観柳斎の経歴については、以前にまとめた記事があるのでそちらを参照して頂く事として、今回は詳細を省きます。ここではその後知り得た情報として、「新選組金談一件」において記述されている観柳斎について紹介したいと思います。この資料は「新選組血風録の風景 ~長州の間者その5~」においても引用していますが、この中に観柳斎の人物像を知る上で興味深い記述があるのです。」

「新選組金談一件は、新選組からの借金を申し入れられた三井家が、苦心惨憺の末にこれを回避するまでの経緯を綴った記録です。その過程において、三井の組頭が本願寺の寺侍である西村兼文(新撰組始末記の作者)に、新選組の隊内に協力を依頼出来る人物が居ないかと打診を行っているのですが、それに対する西村からの回答の中に観柳斎の名前が登場してきます。」

「西村は、まず観柳斎が伊東甲子太郎と並ぶ武芸の達人である事、そして弟子まで持っていると紹介しています。伊東は北辰一刀流の免許皆伝者であり、道場まで開いていた一流の剣客であった事は周知の事実ですが、観柳斎がその伊東と並び称される程の武芸者であったことは、これまでほとんど知られていませんでした。観柳斎が実戦で剣を振るった事は、池田屋事件で一人の浪士を斬った事などいくつかの事例が確認出来ますが、それが彼の剣の評価とは結びついていなかったのです。これはちょっと意外な事実ですね。」

「そして、西村が観柳斎を近藤への仲介者としての候補に挙げているという事は、とりもなおさず隊内での発言力を有していた、とりわけ近藤への影響力が大きかったという事を裏付けています。彼が近藤の広島行きへの随行者として選ばれたのは、伊達ではなかったのですね。」

「その一方で西村は、もし観柳斎に頼んだとしたら、彼は欲深な性格なので多額の礼金が必要となるであろうとも警告しています。後年になって著した「新撰組始末記」の中で、観柳斎を「すこぶる世智に賢い」と評した西村は、当時(慶応2年9月頃)からあまり快くは思っていなかった様ですね。」

「これらを総合すると、剣の達人にして軍学者という優れた一面を持つ一方で、世智に長けていて欲深い性格を持つという、なかなか複雑な人物像が出来上がります。「武田観柳斎」という通称名(本名は福田広)からしてはったりの臭いがしており、実際に会えばその素養に惚れ込むか、うさん臭さを感じて敬遠するか、評価が二分してしまう様な人物だったのかも知れません。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)

新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」)、子母澤寛「新選組始末記」、伊東成郎「閃光の新選組」

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2007.05.12

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋~

Sannensaka0606171


(新選組血風録概要)

(五番隊士、狛野千蔵が斬られた。出羽庄内の脱藩で、心形刀流の達人と言われた男だった。斬られた場所は清水産寧坂。時刻は酉の下刻(午後7時頃)と思われる。寒い夜で、うっすらと霜が橋板に降りていた。狛野の血がその霜を溶かしていた。)

(狛野の死体は辻番によって見つけられ、町奉行所を通して新選組に知らされた。その時には、発見から一刻(2時間)を経過していた。)

(不動堂村の屯所でこの知らせを受けたのは、月番に当たっていた監察の山崎蒸であった。月番とは6人の監察がひと月ごとに2人づつ宿営する宿直の事を指す。隊内でも十指に入るという狛野の腕を知る山崎は、彼が斬られたと聞いて驚きを隠せなかった。)

・三年坂の板橋

「この作品の冒頭に登場する狛野千蔵という隊士ですが、現存するどの名簿にも該当する名前は無く、司馬氏によって創作された架空の人物です。しかし、型破りな事に「狛野千蔵」という名前だけが冒頭の一行に掲げられており、読み手は強烈な存在感を持って意識させられる事になります。これは司馬氏が持つ、一流の小説のテクニックですね。」

「架空と言えば監察の月番という制度もそうで、いかにもありそうではありますが、資料からは確認する事はできません。恐らくは大阪や江戸にあった、東西町奉行の月番制度から思いついた虚構ではないかと思われます。でも、きっとこれも事実と信じている人が多い事でしょうね。」

「さらに屯所の場所が不動堂村となっているのですが、新選組が不動堂村に移ったのは慶応3年6月の事で、その頃には後で登場する武田観柳斉は脱退した後で、隊には在籍していませんでした。そして、その半年後には新選組そのものが伏見奉行所へと退いているので、この小説の様な長い展開があるはずも無いのです。」

「この様に最初から虚構で始まっているのが今回の作品なのですが、意外なところで思わぬ事実を伝えています。それが三年坂の板橋です。」

「現在の三年坂は冒頭の写真の様に石畳から石段へと続いており、どこを探しても板橋など存在していません。ではこれも虚構かと言うと、実はこの坂の登り口にかつて板橋が存在していた可能性が高いのです。その鍵となるのが道の真ん中にあるマンホール。」

「以前「近藤勇の首塚考その3」で、清水川という川が存在する事をお伝えしましたが、その川が三年坂を横切るのが丁度この場所にあたるのです。それを示しているのがマンホール(暗渠化した川のメンテナンス用と思われます)というわけで、直接的な証拠はありませんが、幕末期に板橋があったとしても不思議ではないのです。」

「司馬氏がこの事実を知っていたのか偶然なのかは判りません。でも、霜が降りた板橋の描写によって、狛野惨殺の光景がありありと浮かび上がってくるのですよね。虚構の中に事実を混ぜるのが小説に真実味を持たせる技法の一つなのですが、およそ誰も気づかないであろうこの板橋を持ってきた事に、正直驚きを隠せないでいます。もしかすると古図の中に板橋を描いたものがあったのかも知れませんね。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
子母澤寛「新選組始末記」、伊藤成郎「閃光の新選組」

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