近藤勇の首塚考その3
近藤の首塚が東山山中にあると伝えたのは、勇の義兄弟であった小島鹿之助の四男、小島誠之進でした。
誠之進は明治29年の夏に京都に旅行した時、当地の友人である本田退庵の案内によって、近藤の首塚を訪ねたとされています。これは誠之進が東京朝日新聞の記者に語った話で、昭和12年6月25日付けの紙面に記事として掲載されました。
それに依れば、本田退庵はかねてより近藤の首級の行方を捜していた人物であり、近藤に縁のある誠之進に首塚への案内を申し出ました。誠之進は、画家の田中柏蔭を伴い、退庵に従って近藤の首塚と対面しています。そこには、2尺程度の石碑があり、表には「近藤勇の墓」、裏には「近藤勇首級を埋む」と刻まれていました。また、近くには勇の別当の墓もあったと言います。田中がこの墓を写し取り、誠之進がその絵に詩を書いたと言いますが、残念ながらその絵は現存していません。
この記事に関連して、小島資料館に、田中の絵を写したと思われる近藤の墓の絵が残されています。また、誠之進の兄である守政は、弟が近藤の墓を京都で見つけて来たと明治30年に記しており、誠之進の話が事実であるらしい事を裏付けています。
さて、肝心のその場所ですが、関係者の話をまとめると次の様になります。
本田退庵の話
・清水谷の近くに近藤の首が埋めてある。
小島誠之進の話
・大きな寺の裏山を登った所にあったが、その寺の名は忘れた。
小島守政の記述
・近藤昌宣の墓は京都霊山の山腹にある。
小島資料館に残された資料
・東大谷の傍、京都黒谷の上の山、霊山と申す山の中腹。(墓の絵の写しに添えて書かれています。)
これらを総合すれば場所が特定出来そうなものですが、残念ながらそうは行きません。それぞれに言っている事がばらばらで、一カ所には絞りきれない為です。
まず「清水谷」という地名ですが、これが在りそうで実は無いのですね。
次に、黒谷と言えば普通は金戒光明寺の事を指しますが、東大谷や霊山とはかけ離れた場所にあり、どう考えても繋がらないのです。
この様にまともに考えると途方に暮れるばかりなのですが、そこをあえて推理してみました。
1.清水寺裏山説
「清水谷」という地名が見あたらない事は先に書いたとおりですが、候補が全く無いのかと言えばそうでもないのです。その候補地とは、三年坂を降りた所から東へと続く谷の事です。現在はコンクリートで舗装された道となり、両側には家が建ち並らぶ地域なのですが、かつては清水川という川が流れる谷筋でした。
清水川は、清水寺の放生池と成就院の裏山を水源地とし、三年坂の下から清水小学校の北側を通って、やがて鴨川へと合流します。現在は大半が暗渠化されており、その存在を知る人はほとんど居ないと思われますが、地図を良く眺めるとその流路の痕跡が見えてきます。
清水谷とは地元でも言わないと思いますが、現地を歩くと参道がある清水道を見上げる事になり、ここが谷底である事が判ります。道の突き当たりは清水寺の境内との境となる山裾であり、現在はフェンスがあって入る事は出来ませんが、大きな寺の裏山という条件にはぴったりと当てはまります。
霊山とは山続きであり、少し北寄りに上れば霊山の中腹という条件も満たす事になります。ただ、この説では「黒谷の上の山」という一節が、どうにも説明出来ないのですよね...。
2.黒谷の裏山説
もう一つの説として考えた場所が、黒谷の裏山です。まず「清水谷」ですが、これを京都人が読めば「きよみずだに」となります。しかし、世間的には「しみずだに」の方が一般的な読み方でしょう。「しみずだに」という地名も実は無いのですが、良く似た音の地名に「ししがたに」があります。関東から来た誠之進が、聞き慣れない「鹿ケ谷」を「清水谷」と間違えたという事はあり得なくもありません。
「鹿ケ谷」という地名は「鹿ケ谷の変」で有名ですが、東山から黒谷の東側までの広い範囲を指し、退庵の言う条件を満たす事になります。
次いで東大谷の傍という一節ですが、実は黒谷の南に江戸時代から続く東本願寺の別院があるのです。黒谷の上という条件は元より満たしており、大きな寺とは金戒光明寺という事で説明が付きますね。
難題は霊山で、黒谷の東には広大な墓地が広がっていますが、霊山という地名は無い様です。あまたの霊が眠る地である事から霊山と呼んでもおかしくはないと思いますが、ちょっと苦しいですねえ...。
ただ、ここは会津藩縁の地であり、近藤の首を埋めるには、ふさわしい場所である事は言うまでもありません。少なくとも、近藤によって斬られた志士達の霊が眠る霊山よりも、ずっと可能性が高い様に思えるのですが...。
以上、私のつたない推理を書いてみましたが、どちらも現地を踏査した訳ではありません。もしも、どちらかが当たっていたとしても、現状は土に埋もれているか、あるいは誰かによって破却されたかのいずれかと思われます。何となれば、共に人家近くの里山であり、戦前までは多くの人が薪採りなどで入り込んでいた場所ですから、判りやすい形で残っていれば、とっくに見つけられていたはずだからです。
私の場合は推理と言うより言葉遊びに過ぎませんが、近藤の首が東山のどこかに埋まっている可能性は高いと思われます。何時の日か、それが明らかになる時が来ると信じたいですね。
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