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2007.03.17

近藤勇の首塚考その2

京都における近藤の首級の行方には、次の三通りの説があります。

1.粟田口刑場
2.西の仕置場
3.東山山中

では、これらを順番に検証していく事としましょうか。

1.粟田口刑場

この説は、西村兼文の新撰組始末記にある記述が元となっています。原文では「刑場に首を投ず」とあり、埋葬されたと言うより、無造作に捨てられたという印象を受けますね。

この刑場は平安時代から存在したとされ、通算で1万5千人が処刑されたと伝えられます。その刑死人の千人に一つの割合で供養塔が建てられたと言われ、全部で15基の供養塔が存在していました。近藤の首は、その中の一つに入れられてしまったという事なのでしょうか。

もしここに近藤の首が葬られたのだとしたら、その場所を特定する事はもはや不可能だと言えます。なぜなら、刑場の跡そのものが、どこにあったか判らなくなっているからです。

粟田口の刑場は、旧東海道が京都盆地に入る蹴上の手前、九条山の付近にあったと推定されています。しかし、明治に入って刑場が廃止されると、急激な変化に晒されました。その原因は度重なる土木工事と廃仏毀釈にあります。

その土木工事とは、旧東海道の拡幅、琵琶湖疎水と浄水場の建設、鉄道の建設などでした。そして、刑場にあった供養塔は廃仏毀釈のあおりを受けて破壊され、道路の擁壁などに転用されたと伝えられます。その後さらに宅地開発も行われており、当時の面影は全くと言って良いほど残されていません。したがって、たとえ現地に行ったとしても、首塚を見つける事など出来るはずも無いのです。

わずかな可能性としては、かつて近藤の名を記した供養塔があったと仮定した場合にですが、どこかの道路の際にある擁壁の中にその石が見つかるかも知れません。普段何気なく走っている道の側に供養塔があったとしたら、それは何とも凄い事ですよね。

2.西の仕置場

2.西の仕置場とは、二条城の西の地にあった刑場の事です。ここに近藤の首が葬られたとするのは松村巌で、土佐史談に掲載した「新撰組長芹沢鴨」の中に記されています。原文には二条城の西に埋めたとあるだけで西の仕置き場とは書かれていないのですが、「但馬・大和の義挙、その他国事に倒れし者の屍は、皆ここに埋めたるなり」とある事から、場所を特定する事が出来ます。

西の仕置場があったのは西大路太子町付近と推定され、西の京刑場または西土手刑場とも呼ばれていました。蛤御門の変の際、火の手が迫った六角獄舎では、平野国臣ら生野義挙に係わった志士達、天誅組に係わった志士達が、逃亡の恐れ有りとの理由で、裁きを待つことなく処刑されました。その遺骸が捨てられたのが西の仕置場だったとされています。

この刑場も明治に入ると廃止され、数年の間に荒廃して塵芥置き場になってしまったと言われます。現在はその一部が墓地として残されているとされ、無縁仏となった墓があるそうです。ここも土地の改変が激しく、近藤の首塚を見つけるのは不可能と言えるでしょう。ただ、ほんのわずかですが、上京区にある竹林寺に葬られている可能性が考えられます。

竹林寺には「平野國臣外三十餘士之墓」があるのですが、これは明治10年頃に、すっかり荒廃していた西の仕置場から掘り出された遺骨を改葬したものだと伝えられます。現場からは名前を朱書きした瓦が同時に出土しており、平野国臣らの遺骨と推定されているのですが、もしかしたらその中に近藤の首が混じっていた可能性も無くはありません。遺体は無造作にまとめて葬られていたらしい事から、どれが誰の骨とも特定された訳では無い様ですからね。

なお、紙屋川沿いに残るとされるその墓地には、側を通ると「ついてきて!」と呼ぶ声が聞こえるという伝説があるそうです。

3の東山山中については、明日検証する事とします。


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