新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その10~
(新選組血風録概要)
(古高は拷問の末、恐るべき計画を白状した。来る6月20日前後、烈風の日を選んで御所の四囲に放火し、参内する会津候を斬って軍神の血祭りとし、天子を奪って長州に動座する、という内容だった。そして、その下相談を5日の夜に池田屋で行うという。)
・古高の供述
「古高達が企んでいた計画とは、浪士文久報国記事に依れば、6月22日頃、強風の日を選んで御所に火を放ち、孝明天皇を奪って山口城に連れ去るという内容でした。小説の元となっている新選組始末記の記述もほぼ同様で、会津候を討つという点だけが抜け落ちていますね。」
「この計画の内容は事件後に幕府関係者から広く流布されたものらしいのですが、しかし、実際に古高が供述した内容は少し違っていた様です。」
「まず、不審の元になったのは、桝屋から押収された書簡の中に、「機会を逃さず」という一文を記したものが見つかった事でした。この書簡と桝屋で押収した武器類を突きつけ、古高を激しく責め立てて得られた供述は、8・18の政変の原動力となった中川宮を討つべく、木砲を用意したというものでした。」
「中川宮邸は御所の下立売御門の北側に位置し、当然ながら御所の九門の内側にありました。そこに向かって発砲すると言うのですから、御所に火を掛けると同義であると新選組はみなしたのです。」
「もっとも、それが何時行われるのか、どれだけの人数が参加するかなど、計画の詳細までは掴んで居なかった様です。恐らくは以前からあった「志士達が御所に火を放ち、その混乱に乗じて要人を殺害する企みがある」という噂と照らし合わせ、この計画こそそれを裏付けるものだと判断したものと思われます。」
「ただ、天皇を動座するという話は古高の供述にも、また書簡の中にも出てきませんので、後から付け加えたものなのかも知れません。あるいは、そういう噂もやはりあったのでしょうか。」
・池田屋の会合
「古高捕縛を知った浪士達は、直ちに長州藩邸に集まって前後策を講じた様です。今から壬生を襲い、古高を奪還しようという息巻く声が多い中、長州藩留守居役の乃美織江は軽挙をいましめ、宮部鼎蔵、吉田稔麿らに判断を仰いで、一旦会合を解散させました。そして場所と時間を改め、志士達の中の主立った者を集めて、再度協議を行おうとなったのです。それが池田屋の会合でした。」
「志士達が恐れたのは御所焼き討ちの計画が潰え去るという事よりも、自分たちのキーパーソンである古高が捕まった事により、京都における活動の全貌が明らかになってしまうという事だったと思われます。彼等の活動の眼目は長州藩の京都復権にあり、中川宮の襲撃はその計画の一部に過ぎなかったのですからね。彼等の会合の主題は古高奪還にあり、小説にあるように御所襲撃の下相談というものではありませんでした。ただし、話の流れとして、壬生屯所の襲撃は議題に上った事でしょうね。」
・小説の舞台の紹介
「上の写真は、古高の尋問が行われたという旧前川邸の東の蔵です。土方はこの蔵の二階の梁に古高を逆さづりにし、拷問を加えたと言われます。それは足の甲から裏にかけて五寸釘を打ち抜き、そこに百目蝋燭を立てて火を付け、流れ落ちる蝋が傷口に入る様にしたという酷いものでした。」
「さしもの古高もこれにはひとたまりも無かったといいますが、実はこれには異説があります。実際に足の裏に蝋燭を立ててみても蝋燭は斜めにしか立たず、蝋は床に落ちるばかりだと言うのです。これを検証してみようなどとは思いませんが、この拷問の場面については講談調に過ぎ、創作めいているという気はしますね。」
以下、明日に続きます。
(参考文献)
伊東成郎「閃光の新選組」、子母澤寛「新選組始末記」、別冊歴史読本「新選組を歩く」、大石学「新選組」
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