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2007.03.01

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その5~

Yume0703011
(京都・円山公園 「夢」の石碑)

(新選組血風録概要)

(山崎は、新選組入隊後、数ヶ月で助勤格に上げられ、諸士取締役兼監察を命じられるという異数の立身をした。その理由の一つに、大阪の商家に顔が利いた事が上げられるという。隊で金が入り用になった時には、山崎の案内で幹部が大阪に下った。中には、山崎が立身したのは、ただこの金持ちの案内をした為だと言う者すらあった。)

(大阪育ちのくせにどこか土臭い山崎は近藤から愛され、山崎もその期待に応えるべく何度も大阪へ下った。実家の患者には富者の身内が多く、そのつてを頼って商家に出入りしていたのである。)

(実家では父が亡くなり、兄が赤壁を継いでいた。ある時、その兄に、奥野将監とは赤壁の患者の一軒かと聞いてみた。すると兄は顔色を変え、どこで聞いたと問い返した。山崎が忠兵衛の一件を話すと遂に観念し、真実を話してくれた。)

(奥野将監とは、赤穂断絶の折り、大石、大野に次ぐ重臣だった。大野が早くから脱落したのに対し、奥野は大石を良く助け、仲間からも一目を置かれていた。ところが、いざ敵討ちとなった時に仲間から脱落し、行方知れずとなってしまった。)

(その後、名を変えて大阪にまで流れ着き、医者を開業したのが赤壁の始まりであるという。四十七士以外の赤穂藩士の末路は悲惨なもので、義挙に加わらなかった犬畜生と世間から指弾され、米、味噌までも売って貰えない事すらあった。赤壁でも実の子にも言わず、ひたすら隠し通してきた。父は死の間際になって初めて、兄にその素性を明かしたのである。)

(しかし、世間では存外赤壁の素性に気付いていた。山崎の師匠などは特に良く知っているという。師匠の娘が山崎にことさら冷たかったのは、その事に原因があるらしい。)

(兄は、忠兵衛が義士の子孫であるというだけで尊崇を受ける世の中であり、奥野の子孫である事が知れたらどんな侮りを受けるか判らない、決して漏らすなと言った。それを聞いた山崎は、誰よりも新選組の掟を守り、勇猛になろうと誓った。それだけが世間の冷たい目に対する復讐だと思った。)

・山崎と大阪商人

「山崎が大阪商人に顔が利いたという話は、新選組始末記に八木為三郎の話として出てきます。この小説でもその下りが引用されており、「また大阪に一稼ぎに行ってくる」と言っていた山崎の姿が紹介されています。」

「新選組の資金源の一つが大阪の商家にあった事は周知の事実で、文久3年4月に平野屋五兵衛から100両を借りたのを皮切りに、鴻池、加島屋などの豪商から次々と資金を借り上げています。中でも元治元年12月には、鴻池ほか21の商家から、7万1千両という大金を引き出しました。」

「この資金調達の方法は芹沢鴨が先鞭を付け、以後近藤達がそれに倣ったとされています。ただし、新選組!に描かれた芹沢の様に、金を出さなければ暴れるという様な事はせず、貸して呉れるまでひたすら日参を続けるといった具合だった様ですね。」

「山崎がこの資金繰りに直接係わったという証拠は無い様ですが、あるいは商家への橋渡し位は勤めていたのかも知れません。監察としての情報網も役に立った事でしょうね。」

・奥野将監と山崎の関わりについて

「奥野将監とは、赤穂浅野藩において、一千石の禄高を有していた組頭です。浅野家断絶の折りには大石内蔵助を良く助け、赤穂開城に尽力しました。義盟にも最初から加わっており、大石の右腕として内匠頭舎弟の大学の取り立て運動に力を尽くしています。」

「しかし、浅野大学が広島本家への永のお預けとなり、「円山会議」において上野介への敵討ちが決められると、俄に同士から脱落してしまいます。残った同士からは「不義の泥水にまみれた裏切り者」と呼ばれ、不忠者の極みとされました。」

「将監の脱盟は、実は大石の討ち入りが失敗に終わった場合に備えての二番手となるためだった、あるいは内匠頭の隠し子を育てるためだったなどという説もあります。世間では敵役の一人とされてきましたが、実は謂われのない濡れ衣だったのかも知れません。」

「肝心の山崎との関係ですが、将監の子孫は赤穂に帰って新田の開発に従事したとされており、鍼医になったという話は伝わっていない様ですね。山崎の側にもそういった伝承は無く、どうやら作者に依る創作の様です。」

「池田屋騒動の現場に大高源五の子孫と自称する志士が居た事に着目し、事件で最も活躍したとされる山崎をその敵役の子孫とする事で、ストーリーを脹らませたものなのでしょう。しかし、一部では事実と受け取られているらしく、この作品のリアルさが判るというものですね。」

・「夢」の石碑について

「写真の石碑は、大石内蔵助が開いた「円山会議」の舞台である円山公園にあります。寺井玄渓という赤穂の御殿医を勤めていた人が建てたもので、世の無常を表したものと言われます。」

「玄渓は常に大石内蔵助と行動を共にしていた人で、吉良邸討ち入りにも参加しようとしました。しかし、高齢である事、そして人を救うべき医者である事を理由に認められませんでした。その後、大石達の切腹を聞き、人生の無常を感じた玄渓は、家の近くにあったこの石に「夢」という字を刻んだと伝えられます。」

「このあたりは新選組の巡察区域だった時期もあり、あるいは山崎がこの石碑を見た事があったかも知れませんね。その時、山崎は何を思ったでしょうか。まさか自分が赤穂浪士の関係者として描かれるとは、夢にも思わなかった事だけは確かでしょうね。」

「円山会議があったのは安養寺六阿弥の一つ「重阿弥」だったとされており、この石碑から少し東寄りにあったものと思われます。付近には六阿弥の一つである左阿弥という料亭が現存しており、当時の面影を偲ぶ事が出来ます。」

以下、明日に続きます。

子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、大石学「新選組」

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