新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その7~
・将軍東下と新選組の解散要求
「文久4年1月8日、将軍家茂は海路大阪に到着します。新選組はこれを出迎えるために大阪に出張し、天保山を警備しました。この頃の近藤は、いよいよ将軍に率いられて攘夷を実行する時が来たのだと、意気込んでいた様です。」
「近藤は、8・18の政変により幕府の足を引っ張っていた勢力が一掃され、将軍自らがその意思を朝廷に示す事が出来る様になったのだから、今度こそ攘夷を決行するに違いないと期待したのです。近藤にとっては、新選組はあくまで攘夷実行のための集団であり、市中の取り締まりはその時までの仮の任務に過ぎなかったのですからね。」
「ところが、せっかく上洛した将軍でしたが、わずかに横浜鎖港を確認しただけで後はほとんど何もせず、5月には江戸へ帰る事になってしまいます。これを知った近藤は、怒りと絶望のあまりに、新選組の解散を言い出しました。このまま攘夷が行われないのであれば、自分たちが京に居る理由が無い。新選組に解散を命じるか、個々に故郷に帰させるかどちらかにして欲しいと、会津藩を通して老中に訴え出たのです。」
「しかし老中は、幕府は攘夷を止めた訳ではなく、将軍が江戸に帰るのは長州への対応を図る為だなどと言い訳をして、近藤の慰留に努めました。さらには、近藤を引き留めるためでしょう、彼を与力上席に取り立てるという案まで出した様です。」
「近藤は与力上席に惹かれた訳では無いでしょうけれども、不本意ながら新選組を維持する道を選びます。その理由の一つには、長州藩の勢力が京都に潜入し、治安が極端に不安定になっているという事もあったのでしょうね。攘夷集団である事を留保しつつ、幕府の危機を救う為に京都の治安維持に全力を注ぐ事にしたのです。」
・相次ぐ脱走者
「ところが、攘夷を熱望して入隊した多くの新選組隊士達にとっては、幕府の優柔不断と近藤の方針転換は許し難いものだった様です。文久3年の秋には70数名を数えていた隊士が激減し、この頃には50名を切るところにまで来ていました。そして、池田屋騒動の直前にも隊士が脱走し、事件当日にはわずかに40名余りが残っていたに過ぎなかったのです。」
「池田屋騒動に出動した隊士は34名で、近藤は故郷に送った手紙の中で隊内には病人が多く、これだけしか出動出来なかったと書いているのですが、実態としては新選組に在籍していた隊士のほとんどだったのです。山南など数名の隊士は、本当に病気だったのか、あるいは屯所の警備の為に残さざるを得なかったのでした。」
「そして、隊内の風紀も相当に乱れていたようですね。近藤が故郷に送った手紙の中に、隊内で男色が流行しているとあり、新選組はまさに内憂外患の事態にあったのです。」
以下、明日に続きます。
(参考文献)
伊東成郎「閃光の新選組」、松浦令「新選組」、木村幸比古「新選組日記」、大石学「新選組」
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