新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その13~
(新選組血風録概要)
(浪士達が池田屋に集まった頃、近藤は池田屋周辺の町会所に隊士達を詰めさせ、会津藩兵の到着を待ちかねていた。しかし、祇園囃子が止む刻限になってもなかなか来ない。この日の新選組の兵力は、隊内に病人が多かったことから、出動しているのはわずか30人に過ぎなかった。)
(しかもその30人を2隊に分けており、近藤の手中にあるのはわずか10人に過ぎなかった。10人のうち外の固めに5人は要る。近藤は5人で討ち入れるものかと沖田に聞いてみた。すると沖田は、赤穂浪士の討ち入りは46人で目指す敵はたった一人だった、それからすると5人ではどんなものでしょう、と人を喰った様に答えた。不快そうに黙る近藤。)
・3つの分隊
「この日出動した隊士は30名ではなく34名、そして新選組が集結したのは池田屋周辺ではなく祇園会所です。祇園会所は現在の弥栄中学校や祇園石段下交番が建つあたりにあったと思われ、夕刻、三々五々と屯所を後にした隊士達は、ここを目標に続々と集まって来ました。」
「祇園会所を拠点としたのは、浪士達の会合が祇園から木屋町、そして三条にかけてのどこかで行われると予測されたためでした。怪しい場所はあらかじめ把握されていたのですが、それでも全部で20カ所にも及んだと言います。このため、近藤は会津藩からのドバイスに従い、隊を3つに分けて捜索にあたりました。(池田屋騒動に関する近藤の書簡はいくつか写しが現存しており、その中の一つに記されているそうです。)」
「3つに分けたというのは、まず近藤自身が率いる10名の本隊、そして土方が率いる24名の中に井上を長とする11名の分隊が存在し、随時土方隊と別れては捜索に当たったと考えられています。」
・そして池田屋へ
「新選組が捜索を開始したのは午後7時頃からでした。町はまだ宵の口で、周辺は祭りの熱気に包まれていた事でしょうね。近藤隊は鴨川の西、木屋町一帯を担当し、土方・井上隊は祇園を受け持ちました。共に四条から北上し、三条あたりで合流する予定だった様です。一方、会津藩もまた兵を出しており、こちらは二条から下り、やはり三条あたりで新選組と合流する手筈になっていました。」
「ところが、単独で当たりくじを引いてしまったのが近藤隊でした。近藤が浪士が集う池田屋に突入したのは偶然だったとも、捜索途中で情報が入ったのだとも言います。あるいは、浪士集結の時間と池田屋突入の時間が近接している事から、浪士達が池田屋に入るところを直に目撃したのかもしれないとも考えられています。」
「いずれにしても、会津藩はおろか土方隊の到着すら待てずに戦いになってしまったのは、近藤にとっては大きな誤算でした。なぜなら、少人数で多人数と闘う嵌めになり、多くの敵を逃してしまうと同時に、自らも大苦戦に陥ってしまったからです。」
以下、明日に続きます。
(参考文献)
伊東成郎「閃光の新選組」、子母澤寛「新選組始末記」、大石学「新選組」、松浦令「新選組」
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