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2007年3月

2007.03.18

近藤勇の首塚考その3

近藤の首塚が東山山中にあると伝えたのは、勇の義兄弟であった小島鹿之助の四男、小島誠之進でした。

誠之進は明治29年の夏に京都に旅行した時、当地の友人である本田退庵の案内によって、近藤の首塚を訪ねたとされています。これは誠之進が東京朝日新聞の記者に語った話で、昭和12年6月25日付けの紙面に記事として掲載されました。

それに依れば、本田退庵はかねてより近藤の首級の行方を捜していた人物であり、近藤に縁のある誠之進に首塚への案内を申し出ました。誠之進は、画家の田中柏蔭を伴い、退庵に従って近藤の首塚と対面しています。そこには、2尺程度の石碑があり、表には「近藤勇の墓」、裏には「近藤勇首級を埋む」と刻まれていました。また、近くには勇の別当の墓もあったと言います。田中がこの墓を写し取り、誠之進がその絵に詩を書いたと言いますが、残念ながらその絵は現存していません。

この記事に関連して、小島資料館に、田中の絵を写したと思われる近藤の墓の絵が残されています。また、誠之進の兄である守政は、弟が近藤の墓を京都で見つけて来たと明治30年に記しており、誠之進の話が事実であるらしい事を裏付けています。

さて、肝心のその場所ですが、関係者の話をまとめると次の様になります。

本田退庵の話

・清水谷の近くに近藤の首が埋めてある。

小島誠之進の話

・大きな寺の裏山を登った所にあったが、その寺の名は忘れた。

小島守政の記述

・近藤昌宣の墓は京都霊山の山腹にある。

小島資料館に残された資料

・東大谷の傍、京都黒谷の上の山、霊山と申す山の中腹。(墓の絵の写しに添えて書かれています。)

これらを総合すれば場所が特定出来そうなものですが、残念ながらそうは行きません。それぞれに言っている事がばらばらで、一カ所には絞りきれない為です。

まず「清水谷」という地名ですが、これが在りそうで実は無いのですね。

次に、黒谷と言えば普通は金戒光明寺の事を指しますが、東大谷や霊山とはかけ離れた場所にあり、どう考えても繋がらないのです。

この様にまともに考えると途方に暮れるばかりなのですが、そこをあえて推理してみました。

1.清水寺裏山説

「清水谷」という地名が見あたらない事は先に書いたとおりですが、候補が全く無いのかと言えばそうでもないのです。その候補地とは、三年坂を降りた所から東へと続く谷の事です。現在はコンクリートで舗装された道となり、両側には家が建ち並らぶ地域なのですが、かつては清水川という川が流れる谷筋でした。

清水川は、清水寺の放生池と成就院の裏山を水源地とし、三年坂の下から清水小学校の北側を通って、やがて鴨川へと合流します。現在は大半が暗渠化されており、その存在を知る人はほとんど居ないと思われますが、地図を良く眺めるとその流路の痕跡が見えてきます。

Kiyomizugawa0606171
(清水川 清水寺境内からの流出口)

清水谷とは地元でも言わないと思いますが、現地を歩くと参道がある清水道を見上げる事になり、ここが谷底である事が判ります。道の突き当たりは清水寺の境内との境となる山裾であり、現在はフェンスがあって入る事は出来ませんが、大きな寺の裏山という条件にはぴったりと当てはまります。

霊山とは山続きであり、少し北寄りに上れば霊山の中腹という条件も満たす事になります。ただ、この説では「黒谷の上の山」という一節が、どうにも説明出来ないのですよね...。

2.黒谷の裏山説

もう一つの説として考えた場所が、黒谷の裏山です。まず「清水谷」ですが、これを京都人が読めば「きよみずだに」となります。しかし、世間的には「しみずだに」の方が一般的な読み方でしょう。「しみずだに」という地名も実は無いのですが、良く似た音の地名に「ししがたに」があります。関東から来た誠之進が、聞き慣れない「鹿ケ谷」を「清水谷」と間違えたという事はあり得なくもありません。

「鹿ケ谷」という地名は「鹿ケ谷の変」で有名ですが、東山から黒谷の東側までの広い範囲を指し、退庵の言う条件を満たす事になります。

次いで東大谷の傍という一節ですが、実は黒谷の南に江戸時代から続く東本願寺の別院があるのです。黒谷の上という条件は元より満たしており、大きな寺とは金戒光明寺という事で説明が付きますね。

難題は霊山で、黒谷の東には広大な墓地が広がっていますが、霊山という地名は無い様です。あまたの霊が眠る地である事から霊山と呼んでもおかしくはないと思いますが、ちょっと苦しいですねえ...。

ただ、ここは会津藩縁の地であり、近藤の首を埋めるには、ふさわしい場所である事は言うまでもありません。少なくとも、近藤によって斬られた志士達の霊が眠る霊山よりも、ずっと可能性が高い様に思えるのですが...。

以上、私のつたない推理を書いてみましたが、どちらも現地を踏査した訳ではありません。もしも、どちらかが当たっていたとしても、現状は土に埋もれているか、あるいは誰かによって破却されたかのいずれかと思われます。何となれば、共に人家近くの里山であり、戦前までは多くの人が薪採りなどで入り込んでいた場所ですから、判りやすい形で残っていれば、とっくに見つけられていたはずだからです。

私の場合は推理と言うより言葉遊びに過ぎませんが、近藤の首が東山のどこかに埋まっている可能性は高いと思われます。何時の日か、それが明らかになる時が来ると信じたいですね。

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2007.03.17

近藤勇の首塚考その2

京都における近藤の首級の行方には、次の三通りの説があります。

1.粟田口刑場
2.西の仕置場
3.東山山中

では、これらを順番に検証していく事としましょうか。

1.粟田口刑場

この説は、西村兼文の新撰組始末記にある記述が元となっています。原文では「刑場に首を投ず」とあり、埋葬されたと言うより、無造作に捨てられたという印象を受けますね。

この刑場は平安時代から存在したとされ、通算で1万5千人が処刑されたと伝えられます。その刑死人の千人に一つの割合で供養塔が建てられたと言われ、全部で15基の供養塔が存在していました。近藤の首は、その中の一つに入れられてしまったという事なのでしょうか。

もしここに近藤の首が葬られたのだとしたら、その場所を特定する事はもはや不可能だと言えます。なぜなら、刑場の跡そのものが、どこにあったか判らなくなっているからです。

粟田口の刑場は、旧東海道が京都盆地に入る蹴上の手前、九条山の付近にあったと推定されています。しかし、明治に入って刑場が廃止されると、急激な変化に晒されました。その原因は度重なる土木工事と廃仏毀釈にあります。

その土木工事とは、旧東海道の拡幅、琵琶湖疎水と浄水場の建設、鉄道の建設などでした。そして、刑場にあった供養塔は廃仏毀釈のあおりを受けて破壊され、道路の擁壁などに転用されたと伝えられます。その後さらに宅地開発も行われており、当時の面影は全くと言って良いほど残されていません。したがって、たとえ現地に行ったとしても、首塚を見つける事など出来るはずも無いのです。

わずかな可能性としては、かつて近藤の名を記した供養塔があったと仮定した場合にですが、どこかの道路の際にある擁壁の中にその石が見つかるかも知れません。普段何気なく走っている道の側に供養塔があったとしたら、それは何とも凄い事ですよね。

2.西の仕置場

2.西の仕置場とは、二条城の西の地にあった刑場の事です。ここに近藤の首が葬られたとするのは松村巌で、土佐史談に掲載した「新撰組長芹沢鴨」の中に記されています。原文には二条城の西に埋めたとあるだけで西の仕置き場とは書かれていないのですが、「但馬・大和の義挙、その他国事に倒れし者の屍は、皆ここに埋めたるなり」とある事から、場所を特定する事が出来ます。

西の仕置場があったのは西大路太子町付近と推定され、西の京刑場または西土手刑場とも呼ばれていました。蛤御門の変の際、火の手が迫った六角獄舎では、平野国臣ら生野義挙に係わった志士達、天誅組に係わった志士達が、逃亡の恐れ有りとの理由で、裁きを待つことなく処刑されました。その遺骸が捨てられたのが西の仕置場だったとされています。

この刑場も明治に入ると廃止され、数年の間に荒廃して塵芥置き場になってしまったと言われます。現在はその一部が墓地として残されているとされ、無縁仏となった墓があるそうです。ここも土地の改変が激しく、近藤の首塚を見つけるのは不可能と言えるでしょう。ただ、ほんのわずかですが、上京区にある竹林寺に葬られている可能性が考えられます。

竹林寺には「平野國臣外三十餘士之墓」があるのですが、これは明治10年頃に、すっかり荒廃していた西の仕置場から掘り出された遺骨を改葬したものだと伝えられます。現場からは名前を朱書きした瓦が同時に出土しており、平野国臣らの遺骨と推定されているのですが、もしかしたらその中に近藤の首が混じっていた可能性も無くはありません。遺体は無造作にまとめて葬られていたらしい事から、どれが誰の骨とも特定された訳では無い様ですからね。

なお、紙屋川沿いに残るとされるその墓地には、側を通ると「ついてきて!」と呼ぶ声が聞こえるという伝説があるそうです。

3の東山山中については、明日検証する事とします。


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2007.03.16

近藤勇の首塚考その1

慶応4年4月25日、近藤勇は板橋において斬首に処せられました。享年35歳。

彼の首は板橋で晒された後京都に送られ、三条河原において再び晒されました。場所は三条大橋の南50mほどの地点とされており、夏ともなれば多くの夕涼み客で賑わう所ですね。しかし、どれほどの人が、かつてその場所に近藤の首が晒されていた事を知っているのでしょうか。

彼の首級は三たび大阪の千日前で晒された後、粟田口の刑場に埋められたとも、行方知れずになったとも伝えられています。ここでは、その首級の行方を追ってみたいと思います。

まずは、近藤の墓所とされている場所を探ってみましょうか。近藤の墓とされるものは、全国に6カ所もあるのですね。


1 JR板橋駅前(東京都北区)
2 龍源寺(東京都三鷹市)
3 天寧寺(福島県会津若松市)
4 円通寺(東京都荒川区)
5 法蔵寺(愛知県岡崎市)
6 高国寺(山形県米沢市)

では、これらを個々に見ていく事にします。

1.板橋

ここにある墓は永倉新八等の奔走によって建立されたもので、石碑には近藤と土方のほか新選組隊士の名が列挙されています。ここは近藤終焉の地であり、最初に近藤の遺体が埋められた場所でもありました。その事から、永倉は近藤と新選組の供養の場としてふさわしいと考えたのでしょう。ですから、これは墓と言うより供養塔であり、ここには誰の骨も埋まってはいないはずです。

2.龍源寺

龍源寺は近藤家の菩提寺であり、近藤勇の名を刻んだ墓も現存しています。この墓は勇の甥であり、後に養子となった近藤勇五郎等によって掘り出された、首のない近藤の遺体が葬られていると伝えられます。ここは真性の勇の墓と言っても良いのでしょうけれども、残念ながら首塚ではあり得ません。

3.天寧寺

ここは「新選組!!土方歳三最後の一日」ですっかり有名になった場所ですね。山本耕史がドラマの撮影に先立ち参拝した時に、ここには何か埋まっていると感じたと言い、またドラマでは斉藤が容保候から与えられたミッションを果たし、持ち帰った近藤の首を埋めた場所の様に描かれていました。

実際には会津藩を取り巻く戦雲が急を告げる中、容保候の許可を得て土方が建立したもので、とても京都から近藤の首を取り戻してくる余裕は無かったものと思われます。

4.円通寺

ここの墓は三河屋幸三郎が建立したもので、「戦士墓」と「死節墓」があります。このうち、「戦士墓」は上野の戦いで散った彰義隊の隊士達を葬った墓で、「死節墓」は鳥羽伏見の戦い以来亡くなった幕臣を供養するための墓です。ここには幕臣の名が列挙されており、近藤、土方の名もありますが、だれかが埋葬されているという事は無い様です。

5.法蔵寺

ここは、今までの墓とは違って、近藤の首塚として広く知られる場所です。昭和33年に風雨によって土砂が流され、土方の名が刻まれた墓の台石が発見されました。そして、そこには土方の他に数多くの人名が刻まれており、恐らくは新選組隊士の変名ではないかと考えられました。そして、新選組隊士に支えられたこの墓主こそ近藤に違いないと断定されたのです。一説には京都の誓願寺から近藤の供養を頼まれ、ここにその首を葬ったとも伝えられている様です。

しかし、その後、墓に刻まれた名は土方と行動を共にした伝習隊員のものである事が判りました。このため、ここが本当に近藤の墓であるかどうかは疑問視される様になっています。

6.高国寺

ここもまた近藤の首塚としての伝承を持つ墓です。それに依れば、勇の従兄弟である近藤金太郎という人物が板橋の刑場から首級を盗み出し、赤羽根近くの河原で焼き、残った骨を砕いて米沢に持ち帰り、自分の墓に葬ったとされています。

金太郎は、彼の母が勇の師匠であり義父でもある近藤周助の妹にあたる事から、勇の従兄弟であると言っていた様ですね。

ですが、周助は五人兄弟の末子であり、妹の存在は確認されていません。また、板橋で盗まれたのなら、京都に送られた首は別人であるという事になりますが、そんな事になっていたのなら誰かが気付いて大騒ぎになっていた事でしょう。この事から、ここもまた近藤の首塚としては疑問視されている様です。

以上見てきた中には、確実に近藤の首塚だと言えるものは無いようです。全く否定された訳ではありませんが、根拠としては薄い様ですね。

では、他に候補が無いのかと言えば、実は京都にあるかも知れないとされているのです。明日は、その京都の首塚について検証してみたいと思います。


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2007.03.12

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その16~

(新選組血風録概要)
(浪士達は、階段を転げ落ちてきては、屋外へと逃れようとする。山崎は抜刀のまま、階下で待ち構えていた。)

(最初に落ちてきたのは宮部鼎蔵で、脇差を山崎に向かって投げつけたかと思うと、太刀を抜いて腹に突き立て、そのまま絶命した。次に落ちてきたのは杉山松助で、彼は既に死体になっていた。その杉山と重なる様に落ちてきてのが、大高忠兵衛である。)

(山崎は忠兵衛に斬りかかった。今宵、腰抜け将監の曾孫が義士の子孫を討つと山崎が言えば、犬畜生の血筋が何を言うと忠兵衛がやりかえす。怒りに狂った山崎だったが、忠兵衛に背後を取られて危機に陥る。思わず逃げ足になった時、逃げるか畜類の子という声が背後から襲った。山崎は怒りに駆られて振り返り、夢中で忠兵衛の首筋を割り付ける。倒れた忠兵衛の身体に何度も切りつけながら、将監様、ご覧じろと叫ぶ山崎。)

・土方隊の到着と井上分隊の突入

「危機に陥った近藤達を救ったのは土方隊の到着です。新選組!における土方の名セリフ、「待たせたな!」ではありませんが、実際においても待ちに待った援軍の到着でした。」

「土方隊のうち屋内に突入したのは、井上が率いていた分隊でした。永倉新八の「七カ所手負場所顕ス」に、「井上源三郎同志拾名引き連れ池田屋に這い入る」とあり、この井上隊の突入により形勢は一気に逆転しました。永倉の手記には続いて「長州人8名を召し捕った」と記されており、援軍を得て余裕の出来た近藤が、「斬り捨て」から「捕縛」に方針を変えた事が窺えます。」

「浪士文久報国記事によれば、この後戦いの場は池田屋の外へと移っていきます。そして浪士との争いの中で会津藩兵、それに京都所司代の家臣達が浪士に斬られたとあり、この頃には幕府方の援軍も池田屋周辺に到着していた事が窺えます。」

・池田屋騒動の実像

「この日出動した幕府方の勢力には諸説がありますが、総合すると新選組と会津藩のほか、彦根藩、松山藩、淀藩、桑名藩、町奉行所の与力同心などが参加していた模様です。その人数にも様々な説があってはっきりしないのですが、最大の説を採ると5千名にも上ったと言われています。」

「会合が行われていた池田屋に直接踏み込んだのは確かに新選組ですが、実はその周辺においても、京都における公武合体派が総力を挙げた大捜査網が展開されていたのですね。池田屋に集まっていた浪士のみならず、町中に潜伏していた浪士達があぶり出され、至る所で大捕物が繰り広げられました。そして多くの者が捕らえられ、あるいは斬殺されたのです。翌朝の池田屋周辺においては、あちこちに死体が散乱していたという目撃談が残っており、当夜の手入れのすさまじさが彷彿とされます。」

・池田屋騒動の戦果と新選組の飛躍

「池田屋騒動の記録は参加した機関によってまちまちで、正確な捕縛者、犠牲者の数は今もって判然とはしていません。近藤の手紙に依れば、新選組が討ち取った者7名、手傷を負わせた者4名、召し捕った者23名とあるのですが、これはいささか過剰申告の気味がある様ですね。しかし、この日最も目覚ましい活躍をしたのが新選組であった事には間違いはなく、新選組と近藤の名を世に轟かせる事になりました。」

「この事変後、それまで傾きかけていた新選組が、一気に飛躍の時を迎えます。元治元年末から慶応2年にかけてが新選組の最盛期であり、人員が膨れあがった事のみならず、組織的にも整備が進み、後の世に新選組として知られる姿が形作られて行く事になります。」

・新選組の変質

「その一方で、当初の攘夷派集団としての性格は次第に薄れて行きます。池田屋騒動における印象があまりに強く、幕府もそして尊攘過激派も、共に新選組を幕府の主要な治安維持部隊とみなす様になりました。そして、近藤自身もまた単純な攘夷実行に対する疑問を抱きはじめ、新選組を幕府擁護のための機関として方向転換させて行く事になります。」

「この方向転換は隊内、特に試衛館以来の同志が不満を募らせる原因となり、永倉の反乱や山南の死、ひいては後の永倉・原田の離脱へと繋がって行きます。池田屋騒動は幕末史における重大な事件の一つですが、新選組にとっても大きな転換点をもたらした事件であったのです。」

(参考文献)
木村幸比古「新選組日記」、子母澤寛「新選組始末記」、伊東成郎「閃光の新選組」、大石学「新選組」、松浦玲「新選組」


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2007.03.11

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その15~

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(新選組血風録概要)
(雨戸越しの近藤の声に応えて、山崎は潜り戸の桟を外した。近藤は、浮浪の者20余人、いずれも階上にあるという山崎の報告を聞くと、池田屋の主人を呼んで「御用改めである。」と宣言した。そして、いきなり土間から階段を駆け上がりざま刀を抜いた。)

(二階では、北添佶磨が何気なく顔を出した。そこへ近藤の刀が殺到した。真っ向から斬られた北添が倒れる音を聞き、色めき立つ浪士達。その中で、壬生の者らしい、と落ち着いて鞘を捨てたのは吉田稔麿。彼は藤堂が突いてくる刀を払い、頭から切り下げた。しかし、藤堂は鉢金のおかげで、転がったまま生きている。)

(なおも藤堂を襲う吉田を永倉が狙った。その背後から宮部鼎蔵が撃ち込んだが、鎖のせいで肉まで斬れない。乱闘になった。)

・北添佶磨の階段落ち

「近藤が御用改めであると言って階段を駆け上がり、その声を聞いてふらりと出てきた北添を真っ二つに切り下げ、斬られた北添は階段を転がり落ちるという、池田屋騒動では有名なシーンです。しかし、これではただの人殺しに過ぎません。」

「くり返しになりますが、新選組を始めとする幕府方の治安維持勢力に与えられた斬り捨て御免の特権は、あくまで相手が抵抗し、どうしても手に余る時にだけ有効となる手段でした。いくらなんでも、出会い頭に問答無用で斬り捨てるなどという事は、許されるはずもありません。」

・浪士文久報国記事に見る池田屋騒動

「池田屋騒動における屋内の様子は、永倉新八の「浪士文久報国記事」に詳しく記されています。それに依ると、玄関から入った近藤は、まず池田屋の主人に「御用改めであるぞ。」と告げています。驚いた主人は奥の二階へと走って行きました。近藤と沖田がそれに続きます。彼等が2階に上がると、20人ほどの浪士達が抜刀して待っていました。ここで近藤は、「御用改めである。手向かいいたせば、容赦なく斬り捨てる。」と浪士達に向かって宣言しています。」

「これで明らかな様に、近藤は当時の治安部隊として踏むべき手順を、きちんと取っているのですね。この後、先に斬りかかって来たのは浪士側でした。相手は近藤達よりもずっと大人数ですから、手に余るのは当然です。これにより、相手を斬り捨てても良いという特権を行使する条件が整った事になりました。」

「最初に斬りかかってきた浪士を、沖田が一刀の下に切り捨てます。以後乱闘になり、浪士達の多くは階下へと逃れます。近藤はそれに応じて、階下へと指示を出しました。1階には八間の行灯(大型の行灯)があって廊下を照らしており、このおかげで近藤達は大いに助けられたと、永倉の手記にはあります。」

・沖田・藤堂の離脱と近藤・永倉の苦戦

「ここで、沖田が持病によって倒れてしまいます。沖田の病については「沖田総司の恋」で触れますので詳細を省きますが、沖田は屋外へと逃れ、中に残ったのは3人となりました。3人は瞬時にフォーメーションを整え、奥の間は近藤、台所から出口にかけては永倉が、そして庭は藤堂がそれぞれ固めます。」

「3人はそれぞれ奮戦していたのですが、藤堂が垣根際に隠れていた浪士に頭を斬られ、血が目に入って戦えなくなってしまいます。この時、藤堂はあまりの暑さに鉢金を脱いで汗をぬぐおうとしていたと言い、油断していたところを不意打ちに遭ったのでした。藤堂も屋外へと逃れ、これで新選組側は近藤と永倉の二人だけになってしまいます。」

「大勢の敵に囲まれて、さしもの近藤も、永倉の見ている前で三度も斬られそうになったと言います。しかし、永倉自身も敵と渡り合うのに手一杯で、とても助太刀に行ける状況ではありませんでした。この時、裏口では3人の隊士が倒され、屋内においても近藤・永倉の二人が大苦戦に陥り、新選組側が敗北寸前にまで追い詰められるという事態が現出していたのです。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
木村幸比古「新選組日記」、子母澤寛「新選組始末記」


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京都・洛北 長徳寺 おかめ桜 @桜花ぶろぐ

Okamesakura0703112

京都・出町柳にある長徳寺。その門前にあるおかめ桜が満開を迎えていました。

Okamesakura0703111

ここは出町柳の駅からほど近く、また道路沿いにあるのでよく目立ちます。この写真を撮っている間も、次々とカメラ片手の人が訪れていました。

Okamesakura0703113

この桜は早咲きで、昨年は3月20日頃に満開を迎えていましたが、暖冬の今年はやはり開花がさらに早くなったのですね。

この写真では写っていませんが、ミツバチがブンブンと飛び交っていました。暖かいとはいえ、まだまだ花の少ないこの時期にこれだけの花が咲いている木はそうは無く、蜜蜂にとってもありがたい存在なのでしょうね。

(平成19年3月10日撮影)

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2007.03.10

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その14~

Ikedayaura0606251
(池田屋裏手)

(新選組血風録概要)
(池田屋の軒下に到着した近藤は、討ち入る者を一人一人あごで示した。沖田、永倉、藤堂、それに倅周平である。出口は原田、谷三十郎らに固めさせた。)

・討ち入りのメンバーについて

「池田屋に討ち入ったメンバーは、作品では5人とされており、これは近藤自身が記した書簡に基づいています。この5人の内、沖田、永倉、藤堂は、いずれも近藤の四天王と呼ばれた剣客で、最も信頼が置かれていた試衛館以来の同志でした。」

「その中で、一人だけ異質な存在が含まれています。それが近藤周平で、事件の直前に近藤が養子として迎え入れた若者でした。周平については、「槍は宝蔵院流」で触れる事になりますのでここでは詳細は省きますが、実際には池田屋突入部隊には含まれていなかったと考えられています。報奨金の額が一番低いクラスに属しているからで、後から駆けつけた土方隊に属し、周辺の固めに従事していたものと思われます。」

「近藤がなぜ書簡の中で周平を突入メンバーに加えたかについては、天然理心流を支える故郷の有力者達には無断で養子に迎えており、それを憚っての事ではないかと考えられています。すなわち、周平は勇敢な武士の子であり、養子とするに相応しい相手であると強調するために、あえて筆を曲げたのではないかとされています。」

・池田屋の外を固めた隊士達

「近藤隊10名のうち、突入したのは4名、そして、表と裏の出口を固めた者がそれぞれ3名づつでした。表は武田観柳斎、浅野藤太郎、谷万太郎、裏は安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門という配置であったと思われます。作品中にある原田と谷三十郎は井上隊に属しており、近藤隊の中には含まれて居ませんでした。」

「討ち入った4人の内、体調を崩していた沖田が早期に離脱し、次いで藤堂もまた深手を負って退きます。しばらくの間、屋内で闘っていたのは近藤と永倉だけという状況でした。相手はおよそ20名の浪士達。いかに手練れの二人とはいえ、大苦戦に陥ります。浪士達の内、近藤達に手向かったのは約半数、残りの半数は池田屋からの脱出を図りました。」

・近藤の誤算と3人の隊士の死

「この日、池田屋から脱出に成功したのは10人とされています。中にはずっと風呂桶の中に隠れていて、翌朝に隙を見て脱出したという大沢逸平の様な人物も居ますが、多くは戦闘の初期に脱出を図ったものと思われます。そして、彼等が目指したのは長州藩邸であり、その方向にある裏口へと殺到しました。」

「裏口を守っていた3人のうち安藤が副長助勤であり、この場の指揮官であったと思われます。彼等は殺到してきた浪士達を相手に果敢に戦ったのでしょうけれども、多勢に無勢で、奥沢はその場で即死、安藤と新田も重傷を負い、その傷が元で後日に亡くなっています。そして、彼等を倒した浪士達は、長州藩邸へとたどり着く事が出来たのでした。」

「3人の隊士を失い、10人の浪士を逃した事は、どう見ても近藤の失策です。新選組の戦法は、常に多人数で少数の相手を攻撃するという形を取るのが定跡であり、これを卑怯とみなす向きもあります。しかし、彼等がしていたのは市中取り締まりであり、剣術の果たし合いでは無いのですから、これは当然の行動でした。ところが池田屋では少人数で多人数を相手にするという、原則に外れた行動に出てしまったのです。」

「こうなってしまったのは、まさか相手がこれほどの大人数だとは思っていなかった事に依るものでしょうか。池田屋に踏み込んだ時浪士達も驚いたでしょうけど、近藤はもっと驚いた事でしょうね。たった4人で5倍の人数の相手をしなければならなかったのですから。しかし、そこで踏みとどまって戦い抜いた事が、近藤の名を後世に残す事に繋がります。」

・出遅れた会津藩

「近藤にとっての最大の誤算は、すぐに現れると思っていた会津藩の援軍が、なかなか現れない事でした。この日、会津藩では出発の準備に手間取り、予定の刻限を大幅に遅れて出陣したのです。会津藩の中には、この期に及んで長州藩との軋轢を危惧する向きがあり、その議論に時間を費やしてしまったのでした。彼等の出遅れが、3人の新選組隊士の死と引き替えになってしまいます。」

「近藤が故郷に送った手紙の中には、新選組は藤堂と永倉が傷を負った他は無傷であったと記しており、3人の隊士の死去と負傷については触れられていません。やはり自らの見込み違いで隊士を死なせてしまった事に、忸怩たる思いがあったのでしょうか。あるいは、新選組始まって以来の快挙と言える戦果の報告に、傷を付けたくは無かったのかも知れません。」

「いずれにしても3人の隊士の死は事実であり、池田屋騒動は必ずしも新選組の一方的な勝利であったとは言い切れないと思われます。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
伊東成郎「閃光の新選組」、子母澤寛「新選組始末記」、大石学「新選組」、松浦令「新選組」


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2007.03.09

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その13~

Yoiyoiyama0703082
(祇園祭 南観音山)

(新選組血風録概要)
(浪士達が池田屋に集まった頃、近藤は池田屋周辺の町会所に隊士達を詰めさせ、会津藩兵の到着を待ちかねていた。しかし、祇園囃子が止む刻限になってもなかなか来ない。この日の新選組の兵力は、隊内に病人が多かったことから、出動しているのはわずか30人に過ぎなかった。)

(しかもその30人を2隊に分けており、近藤の手中にあるのはわずか10人に過ぎなかった。10人のうち外の固めに5人は要る。近藤は5人で討ち入れるものかと沖田に聞いてみた。すると沖田は、赤穂浪士の討ち入りは46人で目指す敵はたった一人だった、それからすると5人ではどんなものでしょう、と人を喰った様に答えた。不快そうに黙る近藤。)

・3つの分隊

「この日出動した隊士は30名ではなく34名、そして新選組が集結したのは池田屋周辺ではなく祇園会所です。祇園会所は現在の弥栄中学校や祇園石段下交番が建つあたりにあったと思われ、夕刻、三々五々と屯所を後にした隊士達は、ここを目標に続々と集まって来ました。」

「祇園会所を拠点としたのは、浪士達の会合が祇園から木屋町、そして三条にかけてのどこかで行われると予測されたためでした。怪しい場所はあらかじめ把握されていたのですが、それでも全部で20カ所にも及んだと言います。このため、近藤は会津藩からのドバイスに従い、隊を3つに分けて捜索にあたりました。(池田屋騒動に関する近藤の書簡はいくつか写しが現存しており、その中の一つに記されているそうです。)」

「3つに分けたというのは、まず近藤自身が率いる10名の本隊、そして土方が率いる24名の中に井上を長とする11名の分隊が存在し、随時土方隊と別れては捜索に当たったと考えられています。」

・そして池田屋へ

「新選組が捜索を開始したのは午後7時頃からでした。町はまだ宵の口で、周辺は祭りの熱気に包まれていた事でしょうね。近藤隊は鴨川の西、木屋町一帯を担当し、土方・井上隊は祇園を受け持ちました。共に四条から北上し、三条あたりで合流する予定だった様です。一方、会津藩もまた兵を出しており、こちらは二条から下り、やはり三条あたりで新選組と合流する手筈になっていました。」

「ところが、単独で当たりくじを引いてしまったのが近藤隊でした。近藤が浪士が集う池田屋に突入したのは偶然だったとも、捜索途中で情報が入ったのだとも言います。あるいは、浪士集結の時間と池田屋突入の時間が近接している事から、浪士達が池田屋に入るところを直に目撃したのかもしれないとも考えられています。」

「いずれにしても、会津藩はおろか土方隊の到着すら待てずに戦いになってしまったのは、近藤にとっては大きな誤算でした。なぜなら、少人数で多人数と闘う嵌めになり、多くの敵を逃してしまうと同時に、自らも大苦戦に陥ってしまったからです。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
伊東成郎「閃光の新選組」、子母澤寛「新選組始末記」、大石学「新選組」、松浦令「新選組」

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2007.03.08

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その12~

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(祇園祭宵々山)

(新選組血風録概要)
(宵山の雑踏に紛れて、諸藩の脱藩浪士達らしい風体の武士達が、続々と池田屋に集まり始めた。その数、20余名。いずれも錚々たる面々である。最後に大高忠兵衛が現れ、宿の亭主に向かって、戸締まりと短く命じた。浪士達は全員2階に集まっている。)

・志士達の人数は?

「この日、池田屋に集結した浪士達の数については諸説があり、確定したものはありません。島田魁日記の様に80から90人とする向きもありますが、いくら何でも過大に過ぎます。せいぜい20名前後だったか、あるいはもう少し少数だったのかも知れません。」

「実は、池田屋騒動で死亡した者、捕縛された者、それに脱出したとされる者の人数を足し合わすと40数名に上ります。ではこれが池田屋に居た実数だったのかと言うと、そうでもありません。当日は池田屋だけではなくその周辺においても取り締まりが行われており、その網に掛かった総計が40数名という人数だったのです。」

・事件直前の情景

「池田屋騒動直前の様子を伝えるものに、池田屋の主人惣兵衛の息子が残した一文があります。それによると、当日の夜四つ頃、吉田稔麿がやってきて酒肴を出す様に頼んできた。そして、書簡を数通送りたいという事だったので、使いの者を手配して差し上げた。ほどなく、13、4人の者がやってきた、とあります。」

「池田屋での会合をセットしたのは、吉田稔麿だったのですね。そしてその場から手紙を送って同志を集めたのであり、まったく臨時かつ緊急の集まりだった事が判ります。予め、会合の時間と場所を設定していた訳ではなかった様ですね。」

「また、集合した人数についても13、4人とあり、それほどの大人数ではなかった事が窺われます。そして何より、吉田が現れた4つ頃という時間が問題になります。近藤が池田屋に討ち入ったのがまさに4つ頃であり、志士達が池田屋に集まった直後に、新選組もまた池田屋にたどり着いたのでした。どちらかが時間的にずれていれば池田屋騒動は起きていなかったかも知れず、全く凄い偶然だったと言うより無いですね。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
伊東成郎「閃光の新選組」、子母澤寛「新選組始末記」、大石学「新選組」、松浦令「新選組」


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2007.03.07

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その11~

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(祇園会所跡)

(新選組血風録概要)
(近藤は、桝屋を突き止めるという手柄を上げた山崎に、なおも池田屋に止まり、討ち入りまでの間、宿を見張っている様に命じた。山崎は薬箱の中に大小、鎖の着込みなどを忍ばせて池田屋に戻った。彼は本隊の突入と同時に、自分も切り込むつもりである。山崎を支えているのは、忠兵衛を斬るという一念であった。)

(皮肉な事に、山崎の立場は赤穂浪士における大高源五とそっくりであった。源五は八方手を尽くして、その日はかならず上野介が在宅するという茶会の日を突き止めたのである。)

(元治元年6月5日、この日は祇園祭の宵山で、日の暮れから町には湧く様に祇園囃子が奏でられていた。)

・屯所の留守部隊

池田屋異聞その8でも少し触れた様に、山崎はこの日の襲撃には加わっていませんでした。この事は、事件後に支給された報奨金リストに入っていない事から明らかであり、恐らくは屯所の警備に従事していたものと思われます。」

「新選組!では、留守部隊に報奨金が配布されなかった事が一因となって、永倉が近藤を弾劾する建白書を書くというストーリーになっていましたが、確かに不自然と言えば不自然なのですよね。志士達が古高を奪還に来るかも知れない屯所を守っていたのですから、それなりの働きは認めても良かったとは思うのですが...。」

「この日、屯所に残って居たと思われる隊士は、山南敬助、山崎蒸、尾関雅次郎、山野八十八、尾形俊太郎の五人です。他にも居たかも知れないのですが、どなたか御存知の方は居られますか。」

・山崎を奥野将監の子孫とした理由

「なぜ、作者が山崎を奥野将監の曾孫という設定にしたのかとずっと疑問に思っていたのですが、ここにその答えが書いてありました。池田屋における山崎の働きを、吉良邸討ち入りにおける大高源五の役割と重ね合わせていたのですね。武士の鑑と賞賛された源五の子孫と、臆病者と蔑まれた将監の子孫を対決させ、先祖の雪辱を果たさせるという発想は、ここから出ていたのです。」

・おわびと訂正 宵々山は当時から賑やかでした

長州の間者その10において、6月5日は宵山ではなく宵々山である事、そして幕末当時の祇園祭には宵山だけで、その前日の賑わいはなかったと書いてしまったのですが、その後間違いである事が判りました。実は当時から宵々山もかなりの賑わいを見せていた様なのです。」

「西遊草という幕末(安政2年)に書かれた紀行文があるのですが、その中で6月5日の京都の様子が描かれていました。四条通では祇園祭の鉾が数十の蝋燭の光に照らされて見事に輝き、祭礼の夜らしく遅くまで人出で賑わっていたとあります。元治元年はその9年後ですが、やはり同じ様な賑やかな祭の夜だった事でしょう。ここに、お詫びして訂正いたします。」

「ただ一点違うと思われるのは、この頃には市中の木戸の取り締まりが強化されており、あまり通行の自由は無かったであろうという事です。安政2年の時点においても、木戸に阻まれて家に帰れなくなった町人が居たと記されており、治安の維持のやっきになっていた元治元年には、もっと厳しい事態になっていたと想像されます。」

・西遊草について

「ちなみにこの西遊草の作者は、あの浪士組の発案者である清河八郎です。清河はこの年、母を連れて東北から四国、中国に至るまでの大旅行を行っており、その母の記念として残すために書いた紀行文が西遊草でした。後年策士として知られる様になる清河も、この頃まではただの親孝行な金持ちの息子だったのですね。」

「それにしても、西遊草の文章は簡潔にして明瞭の一言であり、一読すると各地の風物が目に浮かぶ思いがします。清河が如何に頭脳明晰な人物であったかを如実に表していると言えますね。幕末の京都の風景の描写が見事で、幕末や京都のファンには、なかなかお勧めの一冊ですよ。岩波文庫に収録されています。」

(参考文献)
別冊歴史読本「新選組の謎」、清河八郎「西遊草」、子母澤寛「新選組始末記」

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2007.03.06

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その10~

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(旧前川邸 東の蔵)

(新選組血風録概要)
(古高は拷問の末、恐るべき計画を白状した。来る6月20日前後、烈風の日を選んで御所の四囲に放火し、参内する会津候を斬って軍神の血祭りとし、天子を奪って長州に動座する、という内容だった。そして、その下相談を5日の夜に池田屋で行うという。)

・古高の供述

「古高達が企んでいた計画とは、浪士文久報国記事に依れば、6月22日頃、強風の日を選んで御所に火を放ち、孝明天皇を奪って山口城に連れ去るという内容でした。小説の元となっている新選組始末記の記述もほぼ同様で、会津候を討つという点だけが抜け落ちていますね。」

「この計画の内容は事件後に幕府関係者から広く流布されたものらしいのですが、しかし、実際に古高が供述した内容は少し違っていた様です。」

「まず、不審の元になったのは、桝屋から押収された書簡の中に、「機会を逃さず」という一文を記したものが見つかった事でした。この書簡と桝屋で押収した武器類を突きつけ、古高を激しく責め立てて得られた供述は、8・18の政変の原動力となった中川宮を討つべく、木砲を用意したというものでした。」

「中川宮邸は御所の下立売御門の北側に位置し、当然ながら御所の九門の内側にありました。そこに向かって発砲すると言うのですから、御所に火を掛けると同義であると新選組はみなしたのです。」

「もっとも、それが何時行われるのか、どれだけの人数が参加するかなど、計画の詳細までは掴んで居なかった様です。恐らくは以前からあった「志士達が御所に火を放ち、その混乱に乗じて要人を殺害する企みがある」という噂と照らし合わせ、この計画こそそれを裏付けるものだと判断したものと思われます。」

「ただ、天皇を動座するという話は古高の供述にも、また書簡の中にも出てきませんので、後から付け加えたものなのかも知れません。あるいは、そういう噂もやはりあったのでしょうか。」

・池田屋の会合

「古高捕縛を知った浪士達は、直ちに長州藩邸に集まって前後策を講じた様です。今から壬生を襲い、古高を奪還しようという息巻く声が多い中、長州藩留守居役の乃美織江は軽挙をいましめ、宮部鼎蔵、吉田稔麿らに判断を仰いで、一旦会合を解散させました。そして場所と時間を改め、志士達の中の主立った者を集めて、再度協議を行おうとなったのです。それが池田屋の会合でした。」

「志士達が恐れたのは御所焼き討ちの計画が潰え去るという事よりも、自分たちのキーパーソンである古高が捕まった事により、京都における活動の全貌が明らかになってしまうという事だったと思われます。彼等の活動の眼目は長州藩の京都復権にあり、中川宮の襲撃はその計画の一部に過ぎなかったのですからね。彼等の会合の主題は古高奪還にあり、小説にあるように御所襲撃の下相談というものではありませんでした。ただし、話の流れとして、壬生屯所の襲撃は議題に上った事でしょうね。」

・小説の舞台の紹介

「上の写真は、古高の尋問が行われたという旧前川邸の東の蔵です。土方はこの蔵の二階の梁に古高を逆さづりにし、拷問を加えたと言われます。それは足の甲から裏にかけて五寸釘を打ち抜き、そこに百目蝋燭を立てて火を付け、流れ落ちる蝋が傷口に入る様にしたという酷いものでした。」

「さしもの古高もこれにはひとたまりも無かったといいますが、実はこれには異説があります。実際に足の裏に蝋燭を立ててみても蝋燭は斜めにしか立たず、蝋は床に落ちるばかりだと言うのです。これを検証してみようなどとは思いませんが、この拷問の場面については講談調に過ぎ、創作めいているという気はしますね。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
伊東成郎「閃光の新選組」、子母澤寛「新選組始末記」、別冊歴史読本「新選組を歩く」、大石学「新選組」

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2007.03.05

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その9~

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(新選組血風録概要)

(6月のある日、開けはなしにしてある山崎の部屋の前を大高忠兵衛が通った。その時、怒りとも不快ともつかない感情が山崎を戦慄させた。)

(その日、忠兵衛のあとをつけた山崎は、桝屋という古道具屋に入った事を確かめた。怪しいと睨んだ山崎は、さっそく周辺を洗ってみた。すると、桝屋では去年家の者が死に絶えたのだが、今年になって身内という者が入り込んだ。そして、その者と毘沙門堂門跡家来古高俊太郎が同じ顔だという。)

(6月4日の夕刻、近藤自ら隊士を率い、桝屋を急襲した。そして古高を捕らえ、夥しい武器弾薬と尊攘派志士達の往復書簡を手に入れた。)

・忠兵衛が主役に抜擢された理由

以前にも書いた様に、忠兵衛の義兄(又は養父)である大高又次郎は古高と親交があり、池田屋騒動の直前まで桝屋の隣に住んでいました。恐らくは忠兵衛もまた、古高の下を訪れていた事でしょうね。」

「ところで「池田屋異聞その3」において、なぜ作者は大高源五の子孫と名乗る又次郎ではなく、養子の忠兵衛の方を主人公にしたのか不思議だと書いたのですが、もう一度新選組始末記を読み直して、やっとその原因が判りました。」

「新選組始末記では、池田屋において又次郎が斬られたという史実とは異なり、忠兵衛の方が討ち死にした事になっているのですね。この話の元を辿ればやはり新撰組始末記に至り、西村兼文の事実誤認がこの小説にまで影響を及ぼしていたのです。」

「しかし、独身の忠兵衛ではなく妻子持ちの又次郎を主人公に選んでいたとしたら、この小説もまたひと味違ったものになっていた事でしょう。明治のルポライターの誤謬がひとつの名作を生んだとも言え、巡る因果とはなかなか面白いものがありますね。」

・桝屋から押収された物件

「通常、桝屋からは夥しい武器弾薬が出てきたと表現されますが、実際に押収された物件は次のとおりでした。」

「木砲 4、5挺
小石、鉛玉を取り混ぜて樽に詰めた分
竹に詰めた火薬が大小数本
具足が十領
会津の印のある提灯が数個」

「このうち、木砲とは文字通り木製の大砲で、粘土の砲弾を撃ち出すものでした。大きな音はするでしょうけど、大して威力は無いと思われる武器です。京都の霊山歴史館に現物が展示されているのを見た事があるのですが、どちらかといえば花火筒と言った方がぴったり来ますね。」

「また、押収された具足については、大高又次郎が家業として制作した物を預かっていただけという説もあります。」

「実際に役に立ちそうな物と言えば数本の火薬くらいのものでしょうか。会津の印が入った提灯も、目くらましには使えそうですね。よく判らないのが樽に入った小石と鉛玉なのですが、木砲の砲弾代わりに使う予定だったのかも知れません。」

「それにしても、夥しい武器弾薬とは大げさに過ぎると思います。これだけで京都を火の海にするのはいくら何でも無理ですね。過剰反応というほかは無いのでしょうけれども、以前からあったテロの噂が実態より大きく見せたのでしょう。」

「それより重大なのは、志士達の往復書簡でした。そこには想像以上に密度の高い志士達の交流が記録されており、幕府の心胆を寒からしめるには十分な内容でした。そして、古高はその志士達を結びつけるキーパーソンだったのですね。新選組は捕縛してから初めて相手が予想以上の大物だった事に気付き、志士達はとんでもない人物が捕まってしまったと泡を喰ったのです。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
伊東成郎「閃光の新選組」、子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組資料集」、別冊歴史読本「新選組を歩く」、大石学「新選組」


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2007.03.04

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その8~

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(新選組血風録概要)

(探索方の隊士は、全て市中にまかれた。山崎は薬屋に変装して池田屋に潜入した。池田屋を選んだのは、最近この旅館に浪士風の男達の出入りが激しいという調べが上がっていたからである。)

(山崎の潜入の仕方は実に手が込んでいた。一旦大阪に下り、大量に薬を仕入れて天満橋の船宿に泊まり込んだ。そして、そこの亭主と親しくなって、池田屋への紹介状を書かせたのである。池田屋ではすっかり山崎を信用し、一室を用意した。)

(山崎は毎日薬の行商に出たから、宿の者も、そして宿泊している尊攘派の志士達もすっかり気を許し、山崎と親しく口をきく様になった。そこは山崎も如才なく、商人らしい応対をしてみせる。)

(山崎は毎日、池田屋に出入りする浪士達の人数や言動、それに生国などを紙に書いて、窓の下に落とした。そこには乞食に化けた同心が寝ており、彼はその紙を拾っては三条大橋へ行く。そこで女乞食に化けている新選組の川崎勝司がその紙を受け取り、夜陰屯所へ運ぶという仕組みであった。)

・「新撰組始末記」作者・西村兼文について

「山崎に依る池田屋への潜入は、長く史実と思われてきました。この作品の下りは、そのまま子母澤寛の「新選組始末記」にあるとおりで、さらに遡れば西村兼文の「新撰組始末記」がその典拠となっています。」

「新撰組始末記には山崎が取った巧妙な手口が具体的に記されており、事実に基づく記述と思われたのも当然と言えるでしょう。しかし、これが全くの創作であった事は広く知られている通りです。」

「山崎のこの活躍が無かったとする根拠は、同時代資料には全く登場しない事、事件後に報奨金を支給された隊士の中に山崎が含まれていない事が揚げられます。さらには、志士達の池田屋への参集は当日の夜に急に決まった事であり、事前に知る事が出来るはずも無かった事もその傍証となるでしょうね。」

「それにしても西村兼文の記述は見事の一言です。西村は一時期新選組の屯所があった西本願寺の寺侍で、隊士との間に様々な交流があった人物でした。新撰組始末記の他にもいくつかの著作を残しており、今で言うならフリーのルポライターというところでしょうか。」

「この西村は西本願寺の人間らしく勤王派で、慶応元年の初め頃には西国に行き、当地の志士達と交流していたようですね。そして、閏5月に京都に戻ってきた時には、新選組が西本願寺に入り込んでいたのでした。彼の記述が新選組に辛いのは、西本願寺を困らせた新選組に対する敵対意識が強かったからなのでしょう。」

「その後は、新選組の中でも思想的に近い伊東甲子太郎とその一派を中心に、隊士達と接触があった様です。ですから、彼が著した新撰組始末記については、慶応元年閏5月以降の伊東派がらみの記述については信用できるものが多いのですが、それ以外の事についてはあやしげな伝聞や憶測が多く混じっている様です。」

「それからすると、池田屋事件については直接隊士から知り得た事柄ではなく、間接的に仕入れた情報を元に書いている事が判ります。山崎が古高捕縛に関して活躍していた事は島田魁日記によって明らかになっていますが、西村はそうした情報を元に話を面白おかしく脹らませていったのではないでしょうか。あるいは、戯作本などに元ネタがあるのかも知れませんが...。」

・新選組探索方

「島田魁日記に依れば、島田魁、浅野藤太郎、川島勝司、それに山崎が古高探索に従事し、手柄があった事が判ります。このうち、川島については、作品中に川崎勝司として登場していますね。」

「川島は池田屋事件に出動し、さらに蛤御門の変においても活躍しているのですが、後に臆病であるとして除隊処分になっています。新選組に除隊制度があった事が判る希有な例なのですが、その後隊の名前を騙って金策をしていた事が判明し、富山弥兵衛の手によって斬首に処せられました。これも新撰組始末記に記されている事なのですが、伊東派の富山がらみの出来事ですので、概ね信用しても良いのでしょうか。」

「新撰組始末記に依れば、さらにもう一人、浅野藤太郎(薫)もまた川島と同じく臆病の廉で除隊になったとされています。そして、やはり隊の名を騙って金策していた事が判明したため、沖田によって斬られたとあります。実に池田屋事件で活躍した探索方の内二人までが、同じ運命を辿っているのですね。ただ、彼に関しては異説もあり、「胡沙笛を吹く武士」の中で触れる事になると思います。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
伊東成郎「閃光の新選組」、子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組日記」、新人物往来社「新選組資料集」、別冊歴史読本「新選組の謎」、宮地正人「歴史の中の新選組」

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2007.03.03

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その7~

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・将軍東下と新選組の解散要求

「文久4年1月8日、将軍家茂は海路大阪に到着します。新選組はこれを出迎えるために大阪に出張し、天保山を警備しました。この頃の近藤は、いよいよ将軍に率いられて攘夷を実行する時が来たのだと、意気込んでいた様です。」

「近藤は、8・18の政変により幕府の足を引っ張っていた勢力が一掃され、将軍自らがその意思を朝廷に示す事が出来る様になったのだから、今度こそ攘夷を決行するに違いないと期待したのです。近藤にとっては、新選組はあくまで攘夷実行のための集団であり、市中の取り締まりはその時までの仮の任務に過ぎなかったのですからね。」

「ところが、せっかく上洛した将軍でしたが、わずかに横浜鎖港を確認しただけで後はほとんど何もせず、5月には江戸へ帰る事になってしまいます。これを知った近藤は、怒りと絶望のあまりに、新選組の解散を言い出しました。このまま攘夷が行われないのであれば、自分たちが京に居る理由が無い。新選組に解散を命じるか、個々に故郷に帰させるかどちらかにして欲しいと、会津藩を通して老中に訴え出たのです。」

「しかし老中は、幕府は攘夷を止めた訳ではなく、将軍が江戸に帰るのは長州への対応を図る為だなどと言い訳をして、近藤の慰留に努めました。さらには、近藤を引き留めるためでしょう、彼を与力上席に取り立てるという案まで出した様です。」

「近藤は与力上席に惹かれた訳では無いでしょうけれども、不本意ながら新選組を維持する道を選びます。その理由の一つには、長州藩の勢力が京都に潜入し、治安が極端に不安定になっているという事もあったのでしょうね。攘夷集団である事を留保しつつ、幕府の危機を救う為に京都の治安維持に全力を注ぐ事にしたのです。」

・相次ぐ脱走者

「ところが、攘夷を熱望して入隊した多くの新選組隊士達にとっては、幕府の優柔不断と近藤の方針転換は許し難いものだった様です。文久3年の秋には70数名を数えていた隊士が激減し、この頃には50名を切るところにまで来ていました。そして、池田屋騒動の直前にも隊士が脱走し、事件当日にはわずかに40名余りが残っていたに過ぎなかったのです。」

「池田屋騒動に出動した隊士は34名で、近藤は故郷に送った手紙の中で隊内には病人が多く、これだけしか出動出来なかったと書いているのですが、実態としては新選組に在籍していた隊士のほとんどだったのです。山南など数名の隊士は、本当に病気だったのか、あるいは屯所の警備の為に残さざるを得なかったのでした。」

「そして、隊内の風紀も相当に乱れていたようですね。近藤が故郷に送った手紙の中に、隊内で男色が流行しているとあり、新選組はまさに内憂外患の事態にあったのです。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
伊東成郎「閃光の新選組」、松浦令「新選組」、木村幸比古「新選組日記」、大石学「新選組」

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2007.03.02

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その6~

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(元治元年4月22日に、不審な浪士が捕らえられた松原橋)

(新選組血風録概要)

(山崎はひたすらに人を斬った。殺人が新選組の隊務である。山崎は隊務を精勤にこなし、浮浪の士を斬るばかりでなく、隊内の非違もびしびしと取り締まった。)

(中でもすさまじい働きを示したのは池田屋の変である。この事件の以前から不穏の噂があり、長州は天子を奪って山口に行在所を設け、一気に国論を尊皇攘夷に持っていこうとしているという。その為に、長州人や長州系の志士達が、密かに京都に潜入しているらしかった。)

(松平容保候は、近藤と土方を呼んで、厳しく詮議する様に命じた。これは新選組にとっても、またとない功名の機会であった。)

・新選組の隊務とは?

「この作品中に、どうしても気になる箇所があります。それは、殺人が新選組の隊務であるという一節。確かに池田屋騒動を初めとして、芹沢鴨の暗殺、三条制札事件、油小路事件など、新選組史を飾る著名な事件は、どれも血生臭いものばかりです。」

「しかし、これらの事件はどれも例外的なものばかりで、新選組の隊務はあくまで市中取り締まりにありました。浪士と見れば誰彼構わず斬っていたというイメージがありますが、実際には捕縛して生け捕りにした事の方がずっと多いのです。このあたりは、少し詳しい年表を見るとよく判ります。」

「新選組に対しては、相手が抵抗して手に余れば斬り捨てても良いという特権が与えられていましたが、実際に刃を振るったのは、大勢の相手が刃向かってきた時に限られていた様です。あと、内部粛正の時もありますが...。」

「少なくとも、人殺しが隊務というのはあまりにも言い過ぎで、京の治安を預かる警察機構として、ちゃんと法に従って任務を遂行していたのです。」

・浪士の潜伏について

「8・18の政変で京を追われた長州藩でしたが、密かに舞い戻って市中に潜伏して居ました。幕府方もこれに気付き、文久3年12月に町触れを出し、宿屋の人別改めを徹底する事、刀を帯びた者は一泊しか認めてはいけない、など取り締まりの強化を図っていました。」

「長州系の浪士の潜伏が明らかになったのは、元治元年4月22日の事でした。新選組の見回り区域内にある木屋町において火事があったのですが、この時松原橋のたもとで市民の往来を妨害する不審な二人の人物が居ました。新選組ではこの二人を捕らえて尋問したのですが、なんと250名の同志が市中に潜伏しているという自白を得たのです。」

「この頃、浪士達が京に火を放ち、混乱に乗じて要人を殺害する計画があるという噂がありました。そこに250名もの不穏分子が潜伏している事が明らかになった訳ですから、幕府にとっては極めて憂慮すべき事態となったのです。」

「京都町奉行所はこの報告を受けて、「日暮れて後は辻々の木戸の取り締まりを厳重にする事」、「見回りを怠りなくし、不審な人物を見つければ必ず尋問をする事」、「万一相手が抵抗して手に負えない時は、打ち殺しても構わない」という内容の町触れを出しています。抵抗した相手を殺しても構わないという特権は、何も新選組に限った事ではなかったのですね。」

「新選組もまた、不審な人物が見つけたら、屯所に知らせる様にという触れを出しています。作品中でもまたとない功名の機会とありますが、実はこの頃、新選組もまた憂慮すべき事態にあったのです。」

以下、明日に続きます。


(参考文献)

伊東成郎「閃光の新選組」、松浦令「新選組」、新人物往来社「新選組を歩く」、木村幸比古「新選組日記」


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2007.03.01

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その5~

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(京都・円山公園 「夢」の石碑)

(新選組血風録概要)

(山崎は、新選組入隊後、数ヶ月で助勤格に上げられ、諸士取締役兼監察を命じられるという異数の立身をした。その理由の一つに、大阪の商家に顔が利いた事が上げられるという。隊で金が入り用になった時には、山崎の案内で幹部が大阪に下った。中には、山崎が立身したのは、ただこの金持ちの案内をした為だと言う者すらあった。)

(大阪育ちのくせにどこか土臭い山崎は近藤から愛され、山崎もその期待に応えるべく何度も大阪へ下った。実家の患者には富者の身内が多く、そのつてを頼って商家に出入りしていたのである。)

(実家では父が亡くなり、兄が赤壁を継いでいた。ある時、その兄に、奥野将監とは赤壁の患者の一軒かと聞いてみた。すると兄は顔色を変え、どこで聞いたと問い返した。山崎が忠兵衛の一件を話すと遂に観念し、真実を話してくれた。)

(奥野将監とは、赤穂断絶の折り、大石、大野に次ぐ重臣だった。大野が早くから脱落したのに対し、奥野は大石を良く助け、仲間からも一目を置かれていた。ところが、いざ敵討ちとなった時に仲間から脱落し、行方知れずとなってしまった。)

(その後、名を変えて大阪にまで流れ着き、医者を開業したのが赤壁の始まりであるという。四十七士以外の赤穂藩士の末路は悲惨なもので、義挙に加わらなかった犬畜生と世間から指弾され、米、味噌までも売って貰えない事すらあった。赤壁でも実の子にも言わず、ひたすら隠し通してきた。父は死の間際になって初めて、兄にその素性を明かしたのである。)

(しかし、世間では存外赤壁の素性に気付いていた。山崎の師匠などは特に良く知っているという。師匠の娘が山崎にことさら冷たかったのは、その事に原因があるらしい。)

(兄は、忠兵衛が義士の子孫であるというだけで尊崇を受ける世の中であり、奥野の子孫である事が知れたらどんな侮りを受けるか判らない、決して漏らすなと言った。それを聞いた山崎は、誰よりも新選組の掟を守り、勇猛になろうと誓った。それだけが世間の冷たい目に対する復讐だと思った。)

・山崎と大阪商人

「山崎が大阪商人に顔が利いたという話は、新選組始末記に八木為三郎の話として出てきます。この小説でもその下りが引用されており、「また大阪に一稼ぎに行ってくる」と言っていた山崎の姿が紹介されています。」

「新選組の資金源の一つが大阪の商家にあった事は周知の事実で、文久3年4月に平野屋五兵衛から100両を借りたのを皮切りに、鴻池、加島屋などの豪商から次々と資金を借り上げています。中でも元治元年12月には、鴻池ほか21の商家から、7万1千両という大金を引き出しました。」

「この資金調達の方法は芹沢鴨が先鞭を付け、以後近藤達がそれに倣ったとされています。ただし、新選組!に描かれた芹沢の様に、金を出さなければ暴れるという様な事はせず、貸して呉れるまでひたすら日参を続けるといった具合だった様ですね。」

「山崎がこの資金繰りに直接係わったという証拠は無い様ですが、あるいは商家への橋渡し位は勤めていたのかも知れません。監察としての情報網も役に立った事でしょうね。」

・奥野将監と山崎の関わりについて

「奥野将監とは、赤穂浅野藩において、一千石の禄高を有していた組頭です。浅野家断絶の折りには大石内蔵助を良く助け、赤穂開城に尽力しました。義盟にも最初から加わっており、大石の右腕として内匠頭舎弟の大学の取り立て運動に力を尽くしています。」

「しかし、浅野大学が広島本家への永のお預けとなり、「円山会議」において上野介への敵討ちが決められると、俄に同士から脱落してしまいます。残った同士からは「不義の泥水にまみれた裏切り者」と呼ばれ、不忠者の極みとされました。」

「将監の脱盟は、実は大石の討ち入りが失敗に終わった場合に備えての二番手となるためだった、あるいは内匠頭の隠し子を育てるためだったなどという説もあります。世間では敵役の一人とされてきましたが、実は謂われのない濡れ衣だったのかも知れません。」

「肝心の山崎との関係ですが、将監の子孫は赤穂に帰って新田の開発に従事したとされており、鍼医になったという話は伝わっていない様ですね。山崎の側にもそういった伝承は無く、どうやら作者に依る創作の様です。」

「池田屋騒動の現場に大高源五の子孫と自称する志士が居た事に着目し、事件で最も活躍したとされる山崎をその敵役の子孫とする事で、ストーリーを脹らませたものなのでしょう。しかし、一部では事実と受け取られているらしく、この作品のリアルさが判るというものですね。」

・「夢」の石碑について

「写真の石碑は、大石内蔵助が開いた「円山会議」の舞台である円山公園にあります。寺井玄渓という赤穂の御殿医を勤めていた人が建てたもので、世の無常を表したものと言われます。」

「玄渓は常に大石内蔵助と行動を共にしていた人で、吉良邸討ち入りにも参加しようとしました。しかし、高齢である事、そして人を救うべき医者である事を理由に認められませんでした。その後、大石達の切腹を聞き、人生の無常を感じた玄渓は、家の近くにあったこの石に「夢」という字を刻んだと伝えられます。」

「このあたりは新選組の巡察区域だった時期もあり、あるいは山崎がこの石碑を見た事があったかも知れませんね。その時、山崎は何を思ったでしょうか。まさか自分が赤穂浪士の関係者として描かれるとは、夢にも思わなかった事だけは確かでしょうね。」

「円山会議があったのは安養寺六阿弥の一つ「重阿弥」だったとされており、この石碑から少し東寄りにあったものと思われます。付近には六阿弥の一つである左阿弥という料亭が現存しており、当時の面影を偲ぶ事が出来ます。」

以下、明日に続きます。

子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、大石学「新選組」

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