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2007.02.26

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その2~

Masuya0702261
(大高又次郎寓居跡)

(新選組血風録概要)

(山崎が大高忠兵衛と初めて出会ったのは、目録を取って間もない頃の事だった。)

(ある暑い日の夜、山崎は一人で船を雇い、土佐堀川に浮かんだ。蜂須賀屋敷の裏まで来た時、賑やかに管弦を奏でる船があった。武士が5人に芸妓が5人。武士達は言葉のなまりから、どうやら長州藩士の様だった。)

(その中の正客らしき男は、色白太り肉で大黒顔に微笑をたたえた、落ち着いた様子の人物だった。しかし、山崎にとっては、ぞっとするほど嫌味な相手に思えた。)

(山崎が船頭に船を帰せと命じた時、山崎の船の舳先が武士達の船の横っ腹に当たった。船の真ん中で踊っていた武士はよろめき、腹立ち紛れに山崎に向かってここに来て謝れと居丈高に迫った。)

(山崎はそれを無視したが、武士達の船の船頭が面白がって、山崎の船の横に付けてきた。調子に乗って山崎の船を揺さぶる武士。正客の男は相手は町人だからと制止するが、山崎はかえって止め男の方を疎ましく思う。)

(山崎が後ろ向きに焼けた炭を投げると、それが武士の顔に当たった。あっと驚いて手を離す武士。船が岸に着くや山崎は船から飛び下り、喧嘩なら買ってやろうと武士を挑発する。)

(武士が山崎に続いて岸に飛び移ろうとした時、山崎は持っていた棒で相手の鼻柱を殴りつけ、川の中に落としてしまう。そして、そのまま棒を巧みに操り、相手を水の中で気絶させた。死んだと皆が騒いでいる隙に、姿をくらます山崎。)

(その翌日、驚いた事に、昨夜の喧嘩の止め男が山崎の道場にやって来た。露見したかと恐れる山崎だったが、実はそうではなく、男は師匠の客として来ているのだった。)

(師匠は門弟を集めて男を紹介した。男は播州の大高忠兵衛という高名な具足師で、大阪城代の招きで来阪していた。諸藩の藩邸にも出入りし、非常な尊崇を受けているらしい。剣は同門の達人であり、道場においては師範代格として遇された。)

(他の門人には教えを請えと言う師匠だが、なぜか山崎にだけは竹刀を交えるなと命じた。理由を聞いても、判っているだろうと言うだけで、それ以上は答えようとしない。)

(ある日、道場の横の犬道で、師匠の娘と話している大高と出会った。師匠の娘とは、山崎が密かに想いを寄せている相手である。嫉妬混じりに足早に近づくと、さすがに娘は狼狽して去ったが、大高は落ち着いた微笑を向けた。)

(山崎は黙礼したまま通り過ぎようとした。すると、大高は山崎に並び掛け、あの男は死んだとささやいた。山崎はあっと驚き、無腰であったため相手の脇差しを取ろうと手を掛けた。大高はその手を押さえ、立ち会いなら道場でやろうと落ち着いて言う。)

(大高の目には、ありありと軽蔑の色が浮かんでいた。その目を見て、いつか殺してやると思う山崎。)

(しかし、その後長州藩からは何も言って来なかった。大高が黙っているのか、あるいは武士が町人相手に溺死させられた事を恥じて、事故死として処理してしまったのか。程なく大高は大阪での用が済み、京都へと去った。)

・山崎の棒術について

「山崎については、監察としての活躍は伝えられますが、剣客として働いたという記録は残っていません。通常言われるのは香取流の棒術の心得があったという事で、この小説の下りでも出てきますね。」

「香取流とは香取神道流の事でしょうか。香取神道流は千葉県香取に伝わる流派で、戦国時代に成立したとされ、戦場での格闘を想定した実践的な技を重んじます。剣術のほか、長刀術、槍術などを網羅した総合武術で、棒術もこの中に含まれます。」

「ただ、調べた限りでは棒術の使い手とする根拠は無く、新選組始末記には長巻をよく使ったとあります。長巻きとは長刀に良く似た武器ですが、鉾から発達した長刀に対し、大太刀から発達したのが長巻で、長刀よりもずっと重いそうですね。その分威力も大きく、戦場においては具足の上からでも相手の骨を折る事が出来るという、有効な武器でした。(この項「ウィキペディア」より)」

「山崎は比較的大柄な人物だったと伝えられますから、重くて長い長巻を使うには向いていたのかも知れませんね。新選組始末記には、斉藤一が良く立ち会っていたと記されています。」

・大高忠兵衛について

「大高忠兵衛は実在の人物で、播磨林田藩の郷士です。1823年(文政6年)の生まれで、池田屋で倒れた大高又次郎(小説では従兄弟)の養子とも、義兄弟とも伝えられます。忠兵衛は甲冑職の大高家に入った事で、自身も具足師となりました。」

「忠兵衛は又次郎と共に梅田雲浜と交流があり、彼の勧めに応じて京都に上ります。以後、尊皇攘夷の志士となり、具足師である事を生かして諸藩の家に出入りし、情報の収集に努めていたと言われます。」

「一方の又次郎は軍学や砲術に通じていたとされ、忠兵衛と共に志士として活動しました。古高俊太郎とも親交があり、池田屋騒動の直前には、桝屋の西隣の家を借り、家族と共に住んでいました。」

「古高が捕縛された際に桝屋から具足類が発見されるのですが、これは騒擾計画の為に集めたものではなく、又次郎が誂えたものを預かっていただけという説もあるようですね。」

「上の写真はその又次郎が住んでいたとされるあたりの現状です。「しる幸」が桝屋跡とされますから、その手前辺りに家があったのでしょうか。ここは非常に道幅が狭い界隈ですが、当時は左側には家は無く、高瀬川から続く舟入でした。そう思うと、当時は今よりずっと開放感がある景色だった事でしょうね。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」

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