新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その8~
「小説では触れられていませんが、幕末史に大きな転機をもたらした事件が8・18の政変(禁門の政変)です。この政変は新選組に対しても重大な変化を与えた事件であり、血風録からは少し離れますが、ここであえて触れておく事にします。」
「8・18の政変とは、それまで朝廷内において主導権を握っていた長州藩に対して、薩摩藩と会津藩が連合して仕掛けたクーデターです。」
「文久3年8月13日、主として長州藩の工作により、大和行幸の詔が下りました。大和行幸とは、天皇が大和にある神武天皇陵などに行幸し、その霊前にて攘夷親征の軍議を行い、その結果を伊勢神宮に参拝して報告するという計画です。いつまで経っても攘夷を実行しない幕府に代わって天皇自らが兵を率いて攘夷を行うと神前に誓う訳で、もし実現すれば幕府に委任している兵馬の権を否定したも同然の結果となり、幕府と朝廷の間に重大な緊張関係をもたらすものでした。」
「薩摩藩は、大和行幸は長州藩が徳川家に代わって天下を獲ろうとする野望の現れであると断定しました。しかし、以前は長州藩と共に朝廷内に勢力を持っていた薩摩藩でしたが、文久3年5月20日に発生した猿が辻の変によって朝廷からの後退を余儀なくされていました。そこで長州藩の独走を阻止するために、本来は政敵であるはずの会津藩と手を組む事にしたのです。」
「薩会連合は中川宮を抱き込み、朝廷工作を開始します。長州系の公卿を除いて密かに朝議を開き、天皇の名の下に彼等と長州藩を一気に朝廷から追い出そうと謀ったのです。薩会連合にとって幸いな事に、孝明天皇自身は攘夷親征には反対でした。孝明天皇は攘夷には賛成でしたが、あくまで幕府を信頼しており、これを否定する事は考えていなかったのです。」
「8月18日深夜、御所の諸門が薩摩と会津を主力とする諸藩の兵力で封鎖されます。その一方で中川宮ら公武合体派の公卿が参内し、朝議が開かれました。そして孝明天皇の裁可を仰ぎ、大和行幸の延期、長州系公卿の禁足、長州藩の堺町御門守備の任を解く、という内容の勅状を発します。」
「すべての準備が整った後、合図の大砲が放たれました。これを聞いた長州藩は堺町御門に駆けつけますが、御門は会津藩と薩摩藩の兵によって封鎖された後でした。一方、三条実美ら長州系公卿は、事態を把握するために鷹司関白邸に集まったのですが、これは禁足を命じた勅定に違反した事になり、全ての役職を解かれた上で京都からの追放を言い渡されてしまいます。」
「この時、長州藩は2700の兵力を有していたと言い、堺町御門の前で薩会連合の兵と対峙していました。しかし、御所に向かって発砲する事は朝敵となる事を意味し、最悪の事態を避けるために三条実美以下の七卿を伴って西国へと撤退したのです。」
「この政変によって、京都から尊攘激派の勢力は一掃され、公武合体派が政局を主導して行く事になります。一方、京都から追放された長州藩がおとなしく収まるはずもなく、様々な巻き返し工作を図ります。これが後の池田屋事件、さらには禁門の変へと繋がっていく事になります。」
「以上が8・18の政変の概要ですが、長くなったので新選組との関わりについては明日アップする事にします。なお、写真は御所の建礼門で別名南門、新選組が守ったのはこのあたりでした。御花畑と呼ばれた区域は、概ね写真の左右の植え込みを囲んだ範囲にあたります。」
考文献
子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組と沖田総司」、別冊歴史読本「新選組を歩く」、学研「幕末京都」、光文社文庫「新選組読本」
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