新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その12~
(新選組血風録概要)
(近藤と土方から意を受けた沖田は、それとなく芹沢の部屋に出入りして、部屋の様子を検分した。すっかり調べを終えて、その日が来るのを待ちわびる様子の沖田。そのくせ、芹沢が可愛そうだと言い、そのすぐ後から一ノ太刀は自分が付けるとも言う沖田に、かなわないと思う土方。もしお梅が居たらどうするのかという沖田の問いに、我々を目撃する唯一の人物になり、その時は斬るしかないと土方は答える。それを聞き、また可愛そうだなと涙を浮かべる沖田。)
(当日の夜。この日は夕刻から雨が降っていた。島原の角屋で酒宴に興じる新選組の幹部達。戌の刻(午後8時)の拍子木が鳴る頃には、どの男もしたたかに酔っていた。宴がはねる頃、芹沢もすっかり酔いつぶれていた。帰り道を案じる近藤に、「お梅が待っている。」と答える芹沢。平山、平間の二人に芹沢を任せ、角屋を後にする近藤と土方。外は傘の柄がしなうほど雨が吹きすさんでいた。新見の時もこんな夜だったとつぶやく近藤。)
(芹沢・近藤と並んで局長を務めていた新見は、既にこの世に居なかった。この9月の初め、祇園・山の尾にて遊興中に近藤と土方が乗り込み、数々の隊規違反を上げて詰め腹を切らせていた。芹沢の右腕とも言うべき新見は既に無く、残すは平山、平間、野口の3人だけとなっていた。)
「芹沢に先立ち新見が粛正されたのは、文久3年9月13日の事とされます。この新見錦という人物は芹沢鴨以上に謎の多い人物で、水戸脱藩という以外には、その出自を含めてほとんど何も判っていません。」
「生年は浪士組の名簿に記された28歳という年齢から1835年(天保6年)と推定されており、芹沢より8歳年下だった事になります。子母澤寛の「新選組遺聞」に依れば、神道無念流の岡田助右衛門の門人で、免許皆伝の腕前でした。」
「新見の前歴を知るわずかな手掛かりは草野剛三が残した証言で、「芹沢と新見は東禅寺事件で打ち首になるところを助かった」とあり、芹沢と共に玉造党に属し、東禅寺事件に連座して獄にあった事が窺えます。この前歴が重く見られたのでしょう、浪士組では三番組の組長を務め、壬生浪士組においても芹沢と共に局長の一人に推されています。」
「局長の一人として重きをなしていたはずの新見なのですが、壬生浪士組から新選組にかけての事績はあまり残っていません。京都残留についての会津候への嘆願書や壬生浪士組が板倉候に提出した建白書にその名がある事、大阪の平野屋五兵衛に対する借用書に署名している事などが知られる程度です。」
「8・18の政変においては、永倉新八が語り残した「新撰組顛末記」においては芹沢・近藤と共に隊士を率いた事になっているのですが、同じ永倉が書き残した「浪士文久報国記事」や会津藩士の残した日記にはその名が見えません。また、芹沢が起こした相撲取りとの喧嘩や大和屋焼き討ち事件などにも、絡んでいた様子が窺えません。」
「なんとも影の様であやふやな存在の新見錦なのですが、その最後は切腹して果てたと伝えられています。」
「新選組始末記では、文久3年9月5日の事として、祇園の貸座敷「山の緒」にて、近藤一味により旧悪をあばかれ、詰め腹を切らされたとあります。遊蕩に耽って隊務を怠り、しばしば民家を襲っては隊費と称して黄金を奪っていた事が発覚したのでした。」
「一方、浪士文久報国記事では、新見は隊規を破ることが甚だしく、また乱暴が酷ったため、近藤、芹沢が説諭してこれを収めようとしたのですが、新見は聞き入れようとしませんでした。やむを得ず、一同の結論として新見を切腹させることに決まったのですが、その矢先、新見は四条木屋町に旅宿していた同藩の水戸浪士吉成常郎方で乱暴を働き、遂に水戸浪士の梅津某の介錯によって切腹して果てたとあります。」
「この吉成常郎とは、吉成恒次郎の事でしょうか。もし彼であったすれば、玉造党の前身である長岡勢において新見と一緒に居た筈で、旧知の間柄だったと思われます。ここで言う乱暴と言うのは何だったのでしょう、もしかすると、8・18の政変で新選組が長州藩を追い出した事と関係があったのかも知れません。吉成にすれば新見は裏切り者と映り、二人で言い争いになったのではないでしょうか。」
「この新見錦については、田中伊織と同一人物とする説があります。死亡時期が近い事、新見錦と記録の上で重複しない事から有力視されており、壬生寺に残る墓碑から、死亡日時は9月13日だったと推定されています。この田中伊織については、西村兼文の新撰組始末記に、近藤の意に逆らう事が多かった事が憎まれ暗殺されたと記されています。」
「また、新見錦の前身について、玉造党に居た新家粂太郎と同一人物ではないかとする説が出ています。新家は玉造党において芹沢と共に行動していた事が知られており、「新」の字が共通する事から新見の本名ではないかと推測されています。」
「もし、新見錦が新家粂太郎だったとすれば、壬生浪士組から新選組にかけてほとんど事績を残していない理由が説明出来ると言われています。すなわち、新見は4月に平野屋から資金を調達した後、5月に行われた長州藩に依る下関の外国船砲撃の応援に出かけていて、京都を留守にしていたと言うのです。新家の日記に長州へ行っていた事が記されているそうで、確かに魅力的な説ではありますね。」
「これを補強する材料として、霊山護国神社に祭神として祀られている事が揚げられます。同社の祭神を記した京都養正社の「御神神録」に新選組関係者として唯一人その名があり、もしかすると長州藩と何らかの関わりがあったのではないかと推測されています。」
「ただ、新見錦=新家粂太郎説は面白い説ではありますが、全くの推測に過ぎず確証はありません。これから先、新たな資料が見つかるなどして証明される事を期待したいところですね。」
「確かに言えるのは、新見は芹沢の粛正に先立って死んだという事です。新見の死もまた8・18の政変とは無関係とは思えず、尊攘過激派が京都から一掃された事によって、新選組における居場所を失ったのではないでしょうか。彼が局長として推されたのは、その尊皇活動の前歴が重く見られての事だったのですからね。政変以後は、会津藩にとっては芹沢と共に目障りな存在と見られていたと思われます。」
「それにしても、芹沢と新見を一緒には始末せず、一人づつかたづけていくところに、近藤・土方の周到さを感じます。組織の運営に関しては、近藤・土方は、芹沢・新見よりも一枚上手だったのでしょうね。」
「新選組!においては、土方と山南が連携して新見を追い込んでいくシーンが見事でした。そして、山南に呪いの言葉を投げかけて死んでいく新見もまた迫力がありましたね。現在再放送されている新選組!において、新見切腹の回が来るのを楽しみにしているところです。」
「上の写真は、山の緒があったと推定されている場所です。ただし「新選組を歩く」に場所が記されているだけですので、どこまで根拠があるのかは判りません。当時はもっと道幅が狭く、軒を接する様にお茶屋が建ち並んでいた事でしょう。華やかに管弦さざめく中で新見の惨劇があったかと思うと、ちょっと切なくもなりますね。」
以下、明日に続きます。
考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組を歩く」、「新選組の謎」、子母澤寛「新選組始末記」、「新選組遺聞」、永倉新八「新撰組顛末記」、木村幸比古「新選組日記」
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コメント
初めまして。新見錦=新家粂太郎で間違いないと思われます。ですがその死に関しては、通説と大きく違うと思われるので、電子書籍という形式で出版してみました。基本的に商業出版界は新見錦に関心がないようですので、こういうかたちでの公表が最適でしょう。
電子書籍を閲覧できる環境にいらっしゃるならば、是非。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00DZTCUXI/
投稿: T・U | 2013.07.19 12:07
T・Uさん、はじめまして。
新見錦は気になる人物ですよね。
その正体はやはり新家粂太郎でしょうか。
電子書籍は見た事がないのですが、
一度拝見させて頂きたいと思います。
投稿: なおくん | 2013.07.19 20:26