新選組血風録の風景 ~長州の間者その6~
(桂小五郎像)
(新選組血風録概要)
(文久3年8月18日、政変により長州藩の勢力は京から追われた。祖国から連絡を絶たれた新作は、新選組を脱走して長州藩に走ろうかと思ったが、小膳に止められた。今こそ、間者が必要とされる時だと言うのである。)
(本国で欲しがっている情報は、有力公卿の動向と幕府側の情報だが、幕府側の情報は新選組内で流れる噂が案外精度が高いらしい。何でも良いから言って欲しいと小膳を通じて伝えてきたのは桂小五郎だった。大物に名を知られていると判り、俄然やる気になる新作。)
・8・18の政変後の桂小五郎の動向
「8・18の政変で長州藩は京から追われ、京都の政局は公武合体派が主導権を握りました。長州藩士は3人の留守居役以外は在京を禁じられてしまったのですが、桂小五郎・久坂玄瑞らはしばらくの間京都に潜伏しています。しかし、島田魁日記に依れば、8月21日に三条木屋町に居た桂小五郎を捕縛に向かったとあり、桂の潜伏はすぐに幕府方に探知されていた様です。」
「桂はその後も危険を顧みずに京都に止まり、長州藩復権のために長州藩に同情的な藩や公卿の間を周旋していたのですが、幕府方の追求は厳しく、9月の末には一度長州藩に戻っています。」
「その後長州藩では、自らの立場の正統性を朝廷に訴えようと、しきりに嘆願上洛の機会を窺っていたのですが、公武合体派の反対により果たせずにいました。そうこうしている内に長州藩内では、真木和泉や来島又兵衛らの急進派が力を増し、七卿を伴っての率兵上洛の機運が高まってきます。これを危ぶんだ桂や久坂は、躍起になって急進派を押さえようとしました。」
「桂は文久4年1月に再び京都に向かい、対馬藩士と偽って対馬藩邸に潜伏します。そして長州藩主が蒙った罪の許しを請うべく、諸藩の間を周旋して廻りました。その甲斐あって、因幡藩等長州藩に友好的な諸藩に依る会合が開かれるなど、一定の成果を見ています。そして、元治元年5月に桂は京都留守居役に任命され、ようやく大手を振って都大路を歩ける様になりました。」
「しかし、長州藩の国元ではいよいよ急進派の勢いが増し、もはや上洛団の進発が避けられない情勢へと傾いて行きます。もし暴発すれば、幕府に長州藩を討つ口実を与えてしまう事になり、せっかくの周旋も水の泡となるという事態に桂は追い込まれてしまいました。この様な状況の中で、池田屋騒動を迎えるのです。」
「こういう危ない橋を渡っていた桂にとって、間者のもたらす情報は命綱の様なものだった事でしょうね。特に新選組内の情報は取り締まり当局の動きを知る事に繋がり、潜伏活動には不可欠のものだったと思われます。この小説でも後の方で出てきますが、この時期には多くの間者が新選組内に居たとされており、彼等の諜報活動はきっと桂の逃亡を助けていた事でしょう。」
・桂小五郎像について
「上の写真の桂小五郎像は、河原町御池の京都ホテルオークラの西側にあるものです。このホテルの敷地は幕末の長州藩邸跡に重なり、その縁で建てられたものなのですね。建立は平成7年で、景観問題で揺れたこのホテルの開業1年後の事でした。」
考文献
木村幸比古「新選組日記」、学研「幕末京都」
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