新選組血風録の風景 ~長州の間者その11~
(新選組血風録概要)
(往来を見張りながら、新作は沖田に、ここを通り掛かるのは一体誰なのかと聞いた。沖田はとぼけているのか、君は知らなかったのかねと聞き返し、長州の間者だとすらりと言った。うなずきながらも、自分でも顔から血の気が引いて行くのが判る新作。)
(沖田は、間者の中にも上には上があり、この小路の奥に居る桝屋喜右衛門は長州の間者の大元締めだと言う。無論、桝屋は世を忍ぶ仮の家業で、本名を古高俊太郎と言い、浪士の間でも名の通った男だった。)
(新作は古高の名も知らなかった。そして不都合な事に、隊内に居るもう一人の間者は古高に直結しているのである。疎外されたと感じた新作は、だんだんと怒りがこみ上げてきた。そんな新作の横顔をじっと見つめる沖田。)
・古高俊太郎と桝屋について
「古高俊太郎は、1829年(文政12年)に、近江国栗太郡古高村(現・守山市)の郷士の子として生まれました。長じてのち、草創期の尊皇攘夷の志士として知られる梅田雲濱の塾に学び、筋金入りの尊攘志士となったとされます。」
「古高は、父の後を継いで山科毘沙門堂門跡の家来となり、そこから伝手を辿って朝廷内に人脈を築いて行きます。特に有栖川宮との繋がりを持った事が大きかった様ですね。」
「古高はまた、長州藩の毛利家とは遠縁にあたっていた様ですね。縁と言っても非常に希薄なものですが、一応書いておきます。古高の叔父(母の腹違いの兄弟)の母は、長州藩の支藩である徳山藩の藩主に仕え、堅田駿河守を産みました。この駿河守の兄弟である毛利元徳が萩藩主毛利敬親の世子となっているのです。」
「まあ、今から見ればあるのか無いのか判らない様な縁ですが、「家」というものが大きな意味を持っていた当時としては、これでも十分意味のある繋がりだった様です。形式的には叔父の「義理の兄弟」が藩主の世子ですから、古高はその「義理の甥」と言えなくもない訳ですね。こうした経緯から古高は、長州藩と有栖川宮を繋ぐ媒介となって行きます。」
「媒介としての古高の活動内容は、多岐に渡っていました。長州藩士による有栖川家への潜伏、長州藩から朝廷への嘆願を行うための橋渡し、有栖川家の人間の長州藩邸への潜伏などを仲介しています。さらに、勤王諸藩の志士達の間の連絡も取り次いでおり、北添佶麿、宮部悌蔵、中岡慎太郎、西郷隆盛など、多彩な人物と接触があった様です。まさに、長州藩の間者の大元締めと呼ばれるにふさわしい内容ですね。」
「古高が桝屋に入ったのは、あまりにその活動が目立ちすぎたため、世を眩ます事が目的だった様です。古高は、湯浅五郎兵衛という梅田雲濱の同士だった人物から、自分の親戚である桝屋の跡継ぎが絶えてしまったため、養子に入って店を存続させて欲しいと頼まれた様ですね。渡りに船とばかりに古高家は弟に譲り、自分は湯浅喜右衛門と名乗りを変えて桝屋の主人となったのです。」
「桝屋は薪炭商とも言い、馬具商とも言いますが、手広く商いを行っていた店だった様です。また、桝屋は黒田藩の御用達であったのですが、この縁は古高が武家や宮家を訪れる際の口実にもなったでしょうし、また侍姿の志士達が古高を訪ねて来るにも都合が良かった事でしょうね。」
「桝屋はまた、志士達の宿泊場所、あるいは集会所としても使われました。さらに、志士達に資金を提供した事もあった様ですね。桝屋はまさに、勤王派の一大拠点だったのです。」
以下、明日に続きます。
参考文献
新人物往来社「新選組を歩く」
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