新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その4~
(壬生寺・新選組隊士慰霊塔)
(新選組血風録概要)
(山崎が新選組に入ったのは、文久3年暮れであった。翌元治元年の正月、山崎は道場にあいさつに訪れた。すでに町人ではないつもりの山崎であったが、応対に出た師匠の娘の扱いは冷たいものであった。)
(道場の板の間に通され、寒さに凍える山崎。その頃、奥の座敷には、大高忠兵衛が居た。忠兵衛は年来、尊皇攘夷の志士として活躍していたが、8・18の政変以来、幕吏に追われる身となってしまっていた。心身共に疲れ果てた忠兵衛は、この道場に匿われていたのである。)
(忠兵衛は、山崎が自分を捜しに来たと思っていた。そこで山崎を斬ろうと考え、厠に入った山崎を待ち受ける。外のただならぬ気配に気付いた山崎は、あやうく忠兵衛の剣を交わす。何の遺恨かと叫ぶ山崎を犬と呼び、奥野将監の血筋は争えぬと謎の言葉を吐く忠兵衛。)
(訳の判らぬまま忠兵衛と争う山崎だったが、なぜか師匠の娘までが忠兵衛に加勢する。二人がかりの攻撃に、たまらず逃げ出す山崎。その背中に向かって、いぬ!と叫ぶ師匠の娘。)
・山崎は単身赴任だった?
「山崎の入隊時期は、あまりはっきりとはしません。8・18の政変の出動者には名前が見えず、翌年5月には古高探索に従事していた事から、文久3年の暮れから翌年にかけて入隊したものと思われます。つまり、小説の設定はほぼ史実に沿ったものと言えますね。」
「山崎には琴尾という妻が居たとされ、入隊時には既に一緒になっていたのかも知れません。当時山崎は30歳前後と考えられており、既婚者であったとしても不思議ではないですね。」
「一説に依れば、新選組の新入隊士に対しては、妻帯者は10里以上離れた場所に妻子を住まわせた上で、単身で入隊すべしという取り決めがあったと言います。山崎の場合は、大阪に父親と妻を残しての単身赴任だったのでしょうか。」
「その後、幹部に登用されると共に家族を壬生に呼び寄せたものらしく、林家(山崎の本姓は林)の過去帳は壬生寺にあります。おそらくは新選組の屯所近くに、山崎が家族と共に住んでいた家があったのでしょうね。」
「その後、山崎は鳥羽伏見の戦いで傷付き、江戸に向かう船中で亡くなったとされますが、家族を京都に残していたとすると、その心中はいかばかりのものだった事でしょう。瀕死の重傷の身で、故郷と家族を捨てざるを得なかったと考えると、同情の念に堪えないですね。」
以下、明日に続きます。
(参考文献)
子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、伊東成郎「閃光の新選組」
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