新選組血風録の風景 ~長州の間者その8~
(新選組血風録概要)
(梅松院への出動があった直後、編成替えにより新作は沖田の一番隊に配属された。そして、直属する伍長は、人斬りと呼ばれた松永主膳となった。松永は人を斬るのが何よりの楽しみという男で、近藤や土方でさえ顰蹙するような風狂人だった。)
(新作は、松永が竹生島で寺小姓をしていた事を知り、これも弁財天女のもたらした縁かと不思議に思う。今熊野の姉の家に帰った時、社寺の事情の詳しい義兄に松永の事を聞いてみた。義兄に依れば、神仏混淆の竹生島には僧と神官が居て、都久夫須麻神社の神官には荒木田姓が多く、松永は宝厳寺に居たのだろうとの事。)
(新作が荒木田なら左馬亮という人物が隊にも居ると言うと、近江なまりがあるなら竹生島だと断言する義兄。しかし、松永と荒木田の間には交流はなく、同郷にしては不自然だと不審を抱く新作。)
(つかの間のおそのとの逢瀬。しかし、小間物屋の件でまたしても諍いになり、気まずくなってしまう。京女は好いても惚れぬと言う新作に、壬生浪の子は産みたくないと返すおその。弁財天女の利福とはこんなものかと思ってしまう二人。)
・松永主膳について
「松永主膳のモデルとなった隊士は実在していて、松永主善という一字違いの人物です。壬生浪士組結成当時のメンバーには入っていませんが、8・18の政変の際には出動したとされ、おそらくは文久3年6月頃に入隊したと考えられています。とすると、実は新作と入隊時期はそう変わらないという事になりますね。」
「永倉新八の同士連名記には京都浪士とあり、小説の様に竹生島出身という事実はありません。新選組における松永の事績はこれといって残っておらず、人斬りと呼ばれた事も無い様ですね。ただ、長州の間者ではないかと、ずっと疑われていた人物ではあった様です。」
「松永に関する唯一の記録が、脱走時の出来事です。文久3年9月25日に、長州の間者として御倉伊勢武らが粛正されます。この時、この騒ぎに驚いて逃げ出したのが松永でした。井上源三郎がその背後から襲い掛かって一刀を浴びせたのですが、松永の逃げ足は早く、薄手を負っただけで逃げおおせてしまいました。これ以後の松永の消息は何も判っていません。」
「この小説の様に創作性の高い作品を書くに当たっては、松永の様に実在はしたものの、その事績はほとんど判っていないという人物は、何かと便利な存在なのでしょうね。リアリティーを確保しつつ、設定の自由も同時に得られる訳で、司馬氏の小説技法の巧みさを感じます。」
・小説の舞台について
「新作の姉の家があるとされる今熊野とは、智積院の南から泉涌寺にかけての東山沿いの地域を指します。地名の起こりは新熊野神社(いまくまのじんじゃ)にあります。この神社は、1160年(永暦元年)に後白河法皇によって熊野から勧進され、創建されました。源平が争った平治の乱の翌年の事ですね。」
「この頃は熊野信仰が盛んで、新熊野神社の造営にあたっては、わざわざ紀州から土砂材木等を運び、熊野をそのまま再現したと伝えられます。上の写真にも一部写っていますが、社頭の大樟もまたその時に熊野から運び、上皇自らがお手植された木だと伝わっています。遠くからでもそれと判るほどの雄大な木で、樹齢は900年を数え、熊野の神降臨の霊樹とされています。」
「なお、「新」と付くのは、既に熊野神社があったためで、現在でもその神社は東山丸太町の交差点に神域を留めています。」
「現在の今熊野は家屋が密集する地域になっていますが、当時は京都の町はずれで、ほとんど人家は無かった様ですね。泉涌寺の家来であったという義兄の家がどこにあったのかは見当が付きませんが、泉涌寺の門前近くだったのでしょうか。」
「今熊野は東大路通沿いに商店街が並ぶ賑やかな場所だったのですが、現在では商売を止めた店舗が多くなり、いわゆるシャッター通り商店街となりつつあるようです。しかし、まだまだ活気は感じられる場所なので、このまま終わってしまうことなく、かつての賑わいを取り戻してほしいところですね。」
以下、明日に続きます。
考文献
新人物往来社「新選組資料集」、別冊歴史読本「新選組の謎」、子母澤寛「新選組始末記」、永倉新八「新撰組顛末記」
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