新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その3~
(新選組血風録概要)
(文久3年の晩秋、新選組に入る事になった山崎は、久しぶりに高麗橋の実家に帰った。その時父が何を思ったのか、道場に高名な具足師が居るのかと尋ねて来た。山崎が忠兵衛の事を伝えると、父は見る見る不快な表情になり、その男は赤穂四十七士の一人、大高源五の子孫の者だと言った。)
(元禄15年の暮、赤穂の四十七士が吉良邸に討ち入った。彼等の子は罪人の縁者として遠島などに処されたが、6年後に許されると諸家が争って彼等を召し抱えた。赤穂義士の人気は親類縁者にまで及び、大高氏では播州の同族の郷士から一人を選んで源五の死後養子とし、その家系を存続させた。)
(忠兵衛の家系がこれであり、彼もまた自らを大高源五の曾孫と言っていた事から、諸藩の武士から尊崇され、賓客として招かれていた。あいつの尊大さはそんなところから来ているのかと、山崎はますます忠兵衛を憎く思った。)
・大高忠兵衛と赤穂義士
「この作品においては、大高忠兵衛が赤穂義士の子孫であるという事が、重要なコンセプトの一つになっています。ではこれが事実かというと、微妙なところの様ですね。」
「実は大高源五の子孫と称していたのは、大高又次郎の方だった様です。又次郎は忠兵衛の義父とも義兄弟とも言われている人物ですが、長州に行った時に吉田松陰と会い、自らを源五の子孫と名乗ったのだそうです。」
「これが単なる自称だったのか、あるいは本当にそういう家系だったのかは判りません。しかし、そういう伝承があるというだけでも、志士の間で重く見られたであろう事は想像が付きます。」
「今でも赤穂義士は人気がありますが、当時の人気は遙かに凄く、歌舞伎が不入りな時でも忠臣蔵を上演すれば、たちまち大入りになるとされていました。すなわち、庶民における人気者だった訳ですが、武士階級にとっては倫理観を象徴する人物群でもありました。」
「他ならぬ新選組のだんだら模様の羽織は、歌舞伎における義士達の衣装を真似て作られたものとされていますし、長州藩の吉田稔麿もまた、忠義をあり方を示すものとして義士を称えています。尊皇・佐幕を問わずに義士は尊崇されていた訳で、又次郎の家系伝説は、志士として活動する為には大いに役立った事でしょうね。」
「ところで、肝心の忠兵衛ですが、大高家の養子という意味からすれば、子孫と言えなくも無いのでしょうね。しかし、元来は別の家系の出であり、曾孫と自称するには少し無理があると思われます。なぜ作者が又次郎ではなく忠兵衛を主役に選んだのかは判りませんが、もしかしたら名前の中にある「忠」の字に惹かれたのかも知れませんね。」
以下、明日に続きます。
参考サイト「忠臣蔵寺子屋」
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