新選組血風録の風景 ~長州の間者その7~
(新選組血風録概要)
(12月3日、千本釈迦堂の境内にある梅松院という寺に、浪士が密会しているとの情報が入った。十番隊に出動命令が下り、新作も原田に従って屯所を出た。その時、何を思ったか、沖田も現場まで同行した。)
(寺に踏み込んだ時、浪士の一人が、さっきのは嘘ではなかったのかと口走った。それを聞き、もう一人の間者が知らせたのだと気付く新作。沖田は新作の背後にあって、その動きを注視している様だった。そして沖田から指図されるままに、新作は浪士の一人を斬ってしまう。)
・新選組の巡察区域について
「新選組というと、京都市中を隈無く巡察していたような印象がありれますが、実際には見廻組や京都所司代、京都守護職といった他の警察組織と地域を分担して、市中の取り締まりに当たっていました。」
「担当区域は時期によって変遷があり、現在判っている一番古い記録は元治元年4月現在のもので、
北 蛸薬師通
南 松原通
東 鴨川辺
西 御土居際
となっていました。」
「このうち、御土居とは、豊臣秀吉が京都を城郭化すべく築いた土累の事で、幕末当時には6割ほどが残っていたそうです。現在でも数カ所で見る事が出来、洛北の玄琢には、かなり原型を止めた姿で残っています。」
「これからすれば、千本釈迦堂は担当区域から外れていた事になりますね。ところが良く調べてみると、元治元年2月26日に、新選組が上七軒において、不逞浪士を捕縛したという記録があるのです。とすると、前出の担当区域になった2ヶ月前には、洛北も新選組の巡視区域に入っていたという事になるのでしょうか。それとも、特に新選組に命が下ったものなのか...。いずれにしても、この小説の設定は、荒唐無稽ではなかった様ですね。」
・小説の舞台について(梅松院)
「この作品において、不逞浪士が出入りしていたという千本釈迦堂境内の梅松院は、現存しない寺です。もしかしたら塔頭の一つだったのかも知れないと思って調べてみたのですが、どうやら松梅院という実在の寺をもじって付けた名前の様ですね。」
「松梅院は千本釈迦堂の西、北野天満宮の東に隣接してあった寺です。千本釈迦堂とは特に関係は無く、北野天満宮の神宮寺だった様ですね。神宮寺とは江戸時代以前に行われていた神仏習合に基づき、神社に併設して建てられた寺の事です。松梅院は、現在の北野天満宮に匹敵するほどの広さを持った大寺でした。」
「北野天満宮の場合、社家の一つに松梅院があり、代々この寺の住職を勤めていた様ですね。安土桃山時代には出雲の阿国とも関係があった様で、この寺の境内で阿国かぶきの勧進興行が行われています。そして幕末には、因幡藩の宿舎となった事もありました。」
「各地にあった神宮寺は、明治の初めに出された神仏分離令によって神社から独立したのですが、多くは檀家を持たなかったために、ほとんどは廃寺となってしまった様です。松梅院も同様の運命を辿ったのか、跡地には何も残されていません。わずかに、天満宮の参道に、松梅院と記した道標が残っている程度です。(ただし、これも社家の名前としての松梅院かも知れませんね。)」
以下、明日に続きます。
伊東成郎「閃光の新選組」、新人物往来社「新選組を歩く」、新創社編「京都時代MAP 幕末・維新編」
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