新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その9~
「8・18の政変にあたっては、会津藩より壬生浪士組へも出動命令が下りました。壬生浪士組は、将軍から攘夷の命令が下るまでは将軍の身辺にあってその警護をしたいと申し出て京都に止まった組織でした。にも係わらず、石清水八幡宮行幸の際に沿道の警備を命じられた事、そして将軍の警護のために一度大阪に下った事以外には、これといった任務は与えられていません。そうした中で、御所の警護に就けという命令は、壬生浪士組にとっては初めてとも言って良い大役だったのです。」
「壬生浪士組が御所に至ったのは18日の午後の事とされます。この頃には既に御所の九門は諸藩の兵で固められ、堺町御門では長州藩兵と薩摩、会津藩の兵がにらみ合っているという状況にありました。」
「これは推測ですが、この時点になってようやく出動したという事は、壬生浪士組は戦力としてはほとんど期待されていなかったという事なのでしょうね。恐らくは事変の勃発時には何も連絡が無く、戦局が切羽詰まって少しでも人数が必要となった時に、はじめて出動要請が下ったものと思われます。その任務も前線で闘うための戦力ではなく、後方警備といった役割でした。まともな軍事調練を受けていない烏合の衆ですから、当然と言えば当然の事だったのでしょうけどね。」
「この時、出動した隊士は52名(一説に80名)とされています。「浅黄麻へ袖口の所ばかり白く山形を染め抜き候羽織」という後世有名になった隊服を着用し、合い印として「上へ長く山形を付け、誠忠の二字を打ち抜きに黒く書き置」いた騎馬提灯を腰に差しての行軍でした。そして、芹沢と近藤の二人は、小具足で身を固め、烏帽子を被っていたと伝えられます。」
「隊列の中で特に目立っていたのが松原忠司で、坊主頭に鉄入りの白鉢巻きをし、大長刀を持っていたので、あたかも今弁慶を見る様であったと言われています。そして「方今の形勢累卵の如し、天下の有志之を知るや否や」と節を付け、声高々に都大路を歩いて行ったのでした。」
「意気揚々と蛤御門(新在家御門)に着いた壬生浪士組でしたが、この門を守っていた会津藩兵に行く手を塞がれてしまいます。壬生浪士組が出動して来るという連絡が、前線の警備兵にまで届いていなかったのですね。怪しい者共と判断した兵士達は、抜き身の槍を突きつけて、彼等の前に立ち塞がってしまいます。当日の現場がいかに混乱し、また情勢が緊張の極にあった事が判ると同時に、壬生浪士組がまだ無名の存在でしかなかった事が窺えるエピソードです。」
「この時、会津兵の剣幕に、さしもの近藤もたじろぐばかりでした。ところが、芹沢鴨は大胆不敵な態度を見せます。眼前に突き出された抜き身の槍の穂先を見てもひるむ事無く、腰の扇を広げて笑いながらこれを扇ぎ立てたのでした。そして、会津兵に対して悪口雑言を投げかけたと言います。あわや一触即発となった時、会津藩の公用掛が駆けつけて、ようやくその場は収まりました。」
「壬生浪士組は無事に御所内に入る事を許され、御花畑の警備に就きました。御花畑とは上の写真の右前方にあった空き地の事で、文字通り花が植えられていたものと思われます。」
「現在の京都御苑は当時は公家屋敷街であり、今とはまるで違った光景が広がっていました。例えば、写真右手前には清水谷家の屋敷があり、正面に見える樹齢300年と言われる椋の木は「清水谷家の椋」と呼ばれています。ちなみにここは、後の蛤御門の変の時に、長州の来島又兵衛が討ち死にした場所としても知られています。」
「御花畑とは言っても、御所の正門である建礼門(南門)の前であり、後方警備としては重要な場所でした。長州藩が陣取る堺町御門はここから真っ直ぐ南に行ったところにあり、万が一門が破られた場合には戦場となる可能性が高かったのです。恐らく会津藩は、開戦した後になってからこの場所を守る兵力が手薄と気付き、急遽壬生浪士組を充てたのではないでしょうか。彼等は期待に応え、命をも要らぬという覚悟で任務を全うしています。」
「壬生浪士組はこの時の働きが見事であると認められ、市中取り締まりのお役目を正式に言い渡されました。浪士文久報国記事に依れば、8月21日に朝廷より市中取り締まりを命じられ、もし手に余った場合は斬り捨てても良いという許しを得たとあります。」
「ここで言う朝廷とは武家伝奏の事でしょうか。そして島田魁の日記には、伝奏より新選組の名を下されたとあり、隊名と共に役割を命じられたのかも知れません。無論、実際に命じたのは京都守護職だったと思われ、武家伝奏を通して朝廷に伝え、そこから下命されるという手順を踏んだものと推定されます。」
「この時をもって、幕府の特別警察たる新選組は発足したと言えるでしょう。もっとも、近藤達は攘夷のための思想集団である事を止めた訳ではなく、これはあくまで攘夷実行までの間の仮の任務のつもりでした。しかし、時代の流れは近藤の意思とは関係なく、彼等をして市中の安寧を守る為の組織としてその名を刻みつける事になります。」
「新選組が市中取り締まりを命じられたのは、その働きが認められた事もあるでしょうけれども、8・18の政変により幕府が政局の主導権を握った事が、大きく作用していると思われます。それまでは尊攘過激派を取り締まると言っても直接には長州藩への遠慮があり、さらにはその背後に控える朝廷にも配慮しなければなりませんでした。そうそう大っぴらに取り締まる事は出来なかったのですね。ところが、この政変によって幕府が遠慮すべき相手は居なくなり、大手を振って治安を乱す輩を力で取り締まる事が可能になったのです。」
「8・18の政変と新選組の関係において、もう一つ忘れてはならないのが芹沢鴨の位置づけです。芹沢は、くり返しになりますが、水戸天狗党の流れを汲む志士として壬生浪士組の創設に係わった人物でした。良くも悪くも彼が壬生浪士組の隊長であり、近藤はその二番手、三番手に過ぎませんでした。」
「会津藩が壬生浪士組の隊長として芹沢を認めたのは、一つは当時は尊攘過激派が政局の主導権を握っており、彼等と繋がりのある芹沢は無視出来ない存在だったからだと思われます。それゆえ、芹沢が横暴の限りを尽くしたとしても、何も手出しをする事が出来なかったのでしょう。うかつに彼を処罰すれば、その背後に居る尊攘過激派が何をするか判ったものではないですからね。」
「ところが、8・18の政変により長州藩は京都から追われ、長州藩を拠り所としていた尊攘過激派の勢力も一掃されてしまいます。そうなると、会津藩は芹沢に対して遠慮する必要が無くなりました。むしろ、尊攘過激派の残存勢力として、邪魔な存在になったとも言えます。この事変からわずか一ヶ月後に起こる芹沢鴨の暗殺は、京都における政局の変化と密接に絡み合っていたものと思われます。」
「ただ、こうして考えてみると、不思議なのは芹沢の行動です。彼の思想からすれば、近藤よりも尊攘過激派の方が親しい存在でり、力の淵源でもありました。ところが彼は自ら先頭に立って、仲間であるはずの尊攘過激派の追い出しに一役買ってしまったのです。その挙げ句に自らも粛正されてしまった訳で、このあたりがどうにも理解出来ないところです。」
「これは全くの想像なのですが、もしかしたら芹沢は8・18の政変の意味を理解しないままに、壬生浪士組を率いていたのではないでしょうか。この政変は完全な秘密裏に実行されたものであり、壬生浪士組には何も知らされていなかったものと思われます。そこに突然の出動命令が下された訳で、しかも御所の警備という尊皇派にとってはこれ以上無いと言って良い魅力的な任務でした。だからこそ芹沢は意気揚々として出動し、近藤をもしのぐ貫禄で手柄を立てて見せたのです。しかし、彼は後になってから事の真相を知り、愕然としたのではないでしょうか。」
「あるいは、幕府をないがしろにする長州藩のやり方に反発し、自ら率先して壬生浪士組を率いたのかも知れません。水戸藩は攘夷の総本山であり、攘夷の為には井伊大老の暗殺を実行するなど、実力で幕政の改革を迫まった事もあるという過激な側面を持っていました。しかし所詮は御三家の一つであり、決して藩論が倒幕にまで至る事はなく、今度の長州藩のやり方には反発を感じていたのかも知れません。新選組!の芹沢は、この路線でしたよね。このあたり、芹沢の心理を分析した解説書はなく、私自身整理が付いていないというのが実情です。」
「結果として、ここでも芹沢は墓穴を掘った事になります。尊攘派の仲間からは裏切り者と指弾され、会津藩からは厄介者とみなされる様になったのです。粛正されるまでのひと月間、芹沢は針の筵に座らされた様なもので、酒に溺れるより仕方がなかったのではないでしょうか。」
以下、明日に続きます。
考文献
子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組資料集」、木村幸比古「新選組と沖田総司」「新選組日記」、別冊歴史読本「新選組を歩く」、学研「幕末京都」、光文社文庫「新選組読本」、松浦玲「新選組」
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