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2007.02.01

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その7~

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(葭屋町一条下がる 大和屋跡付近)

(新選組血風録の概略)
(結党後、5ヶ月経った8月13日、芹沢は会津藩から預かっている大砲を小屋から引き出した。この大筒は攘夷実行の時に用いるべく与えられているもので、使う時には3局長合議の上、会津候の許可が必要だった。何も聞いていない近藤は驚いたが、芹沢には何も言う事が出来ないまま、土方に相談する。)

(沖田が調べてきた所によると、芹沢は葭屋町一条下ガル大和屋庄兵衛を威しに出かけるところであった。これより数日前、尊攘過激派の天誅組が仏光寺高倉の油商八幡屋卯兵衛方を襲い、蔵から金銀を奪ったのみならず、卯兵衛の首を刎ねて三条橋詰に晒すという事件があった。そして、現場にあった捨て札に、大和屋庄兵衛ほか3名の巨商も同罪であり、近く梟首すると書かれていた。驚いた大和屋は守護職を通して新選組に保護を求めてきていた。ところが、その一方で天誅組とも通じ、多額の献金をしたらしいという事が判った。)

(芹沢はこの事実を掴み、天誅組に献金したのならこちらにも寄こせと大砲で威すつもりであった。土方は、芹沢を斬るなら今だと近藤に水を向けた。無断で大砲を使っている事、勝手な金策を許さないという法度に違反している事から、芹沢を斬る名目としては十分であった。しかし、近藤は処刑に怪我人を出す事はないと言って、土方の提案を斥ける。)

(現場に着いた芹沢は大砲の準備を命じ、射撃の準備が整うと大和屋へと乗り込んだ。そして、店先で震えている番頭達に向かって、賊に金を出したというのならこちらにも寄こせ。即刻1万両用意しろと命じた。番頭達が主人は旅に出て不在だと答えると、嘘を付かれるのが何よりも嫌いな芹沢の顔色が変わった。)

(店から出た芹沢は、向かいの家の大屋根に登って座り込み、往来を見下ろした。そして、付近の群衆が十分に沸き立って来た頃を見計らい、鉄扇を開いて射撃を命じた。大砲は、その大音の割には威力が無く、数発打ち込んでも頑丈な土蔵はなかなか壊れなかった。しかし、焼き玉が板葺きの小屋に落ちるとたちまち火を噴き、大和屋を炎で包み始めた。)

(半鐘が鳴り響き、町中の火消しが集まってきたが、新選組の隊士がこれをはばみ、現場に寄せ付けなかった。芹沢は数時間射撃を続け、大和屋を粉々に破壊しつくすと、意気揚々と屯所へ引き上げて来た。屯所はこの話題で持ちきりとなったが、近藤と土方だけは苦り切って終日部屋に閉じこもったままだった。)

「この大和屋焼き討ちは実際にあった事件で、文久3年8月13日に起こりました。事の発端となったのが、八幡屋卯兵衛への天誅であった事は小説にあるとおりです。」

「八幡屋卯兵衛は仏光寺高倉西入るにあった油商で、開国以来、国内の諸物産を買い集めては長崎、横浜で売りさばき、巨利を得ていました。こうした商人は八幡屋一軒に止まらず、京都市中には数多くあったとされます。その一方で生糸の価格は暴騰し、西陣の受けた打撃は少なからずのものがありました。そのため多くの職人達が職を失い、その恨みは外国貿易で潤う商人達に向けられていました。」

「過激派志士達はこうした風潮に目を付け、文久3年7月15日、三条寺町の誓願寺に天誅を予告した貼り紙を掲示します。それにいわく、攘夷の命令が出ているにも係わらず、夷敵と交易して儲けている輩が居る。言語に絶し、不届きの至りであるから、子孫に至るまで攘夷血祭りの天誅を加え、夷艦を焼き払う先陣として彼等の家蔵諸道具を焼き払うであろうし、洛中に31軒、洛外に8軒余、許すところにあらずと記されていました。」

「その一週間後の7月23日、八幡屋卯兵衛の首が三条大橋西詰めに晒されます。まさに予告どおりに天誅が実行されたのですね。そして、その首には捨て札が添えられていました。そこには、丁字屋吟次郎、布屋市治郎、彦太郎親子、大和屋庄兵衛の4名の名を挙げ、彼等は私利のために絹糸、蝋、油などを買い占めている悪人であるから天誅を加えるとあり、さらに彼等から借金をしている者は一切返却には及ばず、もしも奉行所を通して催告して来る様な事があったら、その役人の名を三条、四条の橋に貼り紙をして知らせるようにとも記されていました。」

「驚いたのは名指しで天誅を予告された商人達です。布屋では、「全ての財産を投げ出しますから、お許し下さい」と書いた貼り紙をあちこちに出して助命を乞い、丁字屋もまた全財産を差し出すので許して欲しいと申し出ました。」

「一方、大和屋は、知り合いの板倉筑前介という人物が勤王の志士と繋がりが多い事を頼りとし、彼を通じて助命を嘆願しました。噂に依れば朝廷に一万両を献じ、さらに藤本鉄石の天誅組にも多額の献金をしたと言われます。」

「これを聞きつけたのが芹沢鴨でした。彼は隊士を引き連れて大和屋を訪れ、軍資金を調達しようとしたのです。尊皇を掲げる天誅組に資金を出したのなら、同じ尊皇の志士である自分たちにも出せるだろうという理屈ですね。ところが、大和屋では主人が不在であると言って何度も断りました。この頃はまだ壬生浪士組の時代であり、大和屋は芹沢をただの食い詰め浪士と軽く見ていたのかも知れません。」

「しかし、大和屋は芹沢鴨という人物を見誤っていました。彼は水戸時代から豪商相手に何度も金を巻き上げてきた常習犯であり、今では壬生浪士組と会津藩という背景まで持っていたのです。芹沢にしてみれば過激派志士達の様に陰に隠れて天誅を行う必要はなく、堂々と奸商討伐が出来たのでした。」

「8月13日の午前2時頃、大和屋を訪れた芹沢は、部下に命じて火を放ちます。たちまちの内に大和屋は炎に包まれ、所司代から火消しが駆けつけてきました。しかし、芹沢は部下に銃を構えさせ、誰も近づけさせません。芹沢は「大和屋は庶民の困難を余所に外国と交易して儲けた奸商であり、大罪人の財産を焼き払うのは天命というものである」と書いた立て札を掲げ、自らの所業を正義であると位置づけました。」

「周囲は騒然となり、集まった群衆の中には西陣の職人達も少なからず居ました。大和屋は糸商で財を成した家であり、職人達は大和屋の阿漕な商売のせいで仕事を失ったとかねて恨みを抱いていました。彼等は騒ぎに乗じて大和屋の店内に入り込み、商品や家財を路上に引きずり出し、家屋を次々と破壊して行きます。芹沢は彼等の所業を止めることなく、自らは隣家の屋根に登り、この様子を笑いながら見下ろしていました。また集まった市民達もこの挙を快とし、賞賛の声を浴びせたとされます。」

「小説には大砲を撃ったとあるのですが、この根拠を遡れば「新撰組始末記」に行き着く様です。しかし、同時代資料である「皇国形勢聞書」にはただ放火したとだけあるらしく、大砲まで持ち出したというのは行き過ぎの様ですね。また、京都守護職を通じて壬生浪士組に保護を願い出たという事実も無い様です。」

「この芹沢の蛮行には、様々な解釈が加えられています。その一つは、近藤達が行っていた相撲興行に対する嫌がらせという説です。」

「この日、壬生寺で相撲興行が行われており、その肝煎りとなっていたのが近藤でした。芹沢は、相撲興行の仕切などは武士のする事ではないと不満を抱いており、これを妨害するために大和屋焼討を行ったと言われます。事実、この騒ぎで2日の予定の相撲興行は1日で終わっており、妨害に成功したと言えば言えるでしょうね。」

「しかし、「新撰組顛末記」には、相撲興行が成功裏に終わった事に気を良くした芹沢が、力士達をもてなすために寺の池の魚をさらい上げて振る舞ったという話が記されており、必ずしも相撲興業を目の敵にしていたとは思えません。」

「また、別の説では、近日中に迫っていた大和行幸に対する芹沢流の祝砲ではないかとされます。大和行幸とは長州藩が中心となって進めていた計画で、天皇自らが祖先の地である大和に赴き、祖霊の前で攘夷を祈願するというものでした。そしてその裏では、そのまま一気に大和で倒幕の兵を挙げるという陰謀があったとされます。失敗に終わりはしましたが、天誅組の変はまさにその魁となるはずの計画でした。」

「この説では、芹沢はあくまで天狗党の一員で、京都に来たのは西国の過激派志士と連携を取るためだったという解釈が前提になりますね。そして、尊攘派が掲げた天誅の予告状にあったとおり、奸商を血祭りに上げてみせたという訳です。それも公衆の面前で誰臆することなく派手に行い、尊攘派を激励すると共に幕威を傷つける事も目論んでいたという事になるでしょう。」

「ただ、祝砲と言うにはあまりにも過激であり、不用意に過ぎるという気がします。下手をすれば騒ぎが大きくなりすぎ、大和行幸自体にも影響が及びかねなかったのですからね。」

「もし仮にこれが芹沢流の祝砲であったとすれば、それを巧みに逆手に取ったのは会津藩でした。会津藩では常時一千の兵を京都に駐留させていたのですが、この数日前に交代の兵士が国元から到着したばかりでした。会津藩では、この芹沢の騒ぎに乗じて国元へ帰る途中の兵士を呼び戻しており、一時的に兵力が通常の2倍の2千に膨れあがっています。これが数日後に起こる8.18の政変において貴重な戦力となるのですが、長州藩では大和屋焼き討ちの騒ぎに対応するための処置と捉え、会津藩の真意に気付いていなかった様です。」

「はっきりしているのは、御所の近くで火事騒ぎを起こした芹沢に、幕府は何も手出しを出来なかったという事です。会津藩御預かりの芹沢が正義を唱えて実行した行為であり、そこには奸商に恨みを持つ市民の応援があったという事もあって、公には成敗出来なかったのでしょう。さらに、当時は尊攘過激派が京都の政局を制しており、彼等と繋がりのある芹沢にはうかつに手を出せないという背景もあったとのかもしれません。この時点では、幕威は地に落ちていたと言えるのでしょうね。穿った見方をすれば、兵力を増強するための隠れ蓑とするためには千載一遇の好機であり、あえて芹沢を見逃したのだとも取れるかも知れませんが...。」

「この事件を起こした芹沢には、明らかに奢りが感じられます。攘夷派との繋がり、そして京都守護職との繋がりが、芹沢をしてこの蛮行に走らせた要因だったのではないでしょうか。つまり、自分を罰せられる者は誰も居ないという思い上がりからこの挙に至り、結局は自らの墓穴を掘る事になったという気がしています。なぜなら、この事件によって会津候の芹沢に対する恨みは骨髄に達し、密かに近藤を呼んで抹殺を命じたと言われているですから。」

以下、明日に続きます。

考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」、子母澤寛「新選組始末記」、永倉新八「新撰組顛末記」、木村幸比古「新選組と沖田総司」、別冊歴史読本「新選組を歩く」、学研「幕末京都」

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