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2007.02.10

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その16~

Watigaiya3
(糸里を抱えていたとされる輪違屋)

(新選組血風録概要)
(お梅は、誰が手を下したのか、声も立てずに殺されていた。平山は原田に一太刀で首を刎ねられ、絶命していた。平山と一緒に寝ていたはずの小栄、そして別室に居たはずの平間と糸里はいつの間にか居なくなっていた。平間はこの日以後、世間にその名を出す事はなかった。)

(翌朝、3人の死体を改めた近藤は、守護職には病没と届け出た。)

(事件の翌々日、葬儀は壬生屯所にて大々的に執り行われた。守護職関係や諸藩の留守居役、芹沢の実兄などが参列する中で、近藤は堂々と弔辞を読み上げた。その声は涙で途切れた。それは悲しみの涙ではなく、新選組が自分のものになるという感動を押さえかねた涙であった。)

(参列者の中に菱屋太兵衛の姿があった。それを見て、あの男は商売の為に来ているのだと土方に告げる沖田。菱屋は新選組の御用達になりたいがために、この葬儀の場に来ているのであった。それを聞き、何とも得体の知れぬ人間だと思う土方。しかし、その一方で、沖田も、近藤も、そして土方自身も、得体の知れなさでは同じだとも思うのだった。)

「襲撃者の中で芹沢に最初に斬りつけたのは沖田とされています。これは西村兼文の「新撰組始末記」に「沖田が最初に忍び入り、声も掛けずに斬りつけた」とあるからで、この時芹沢はすぐに脇差しで応戦し、沖田の鼻の下に傷を付けたと記されています。ただ、西村も伝聞を記録しただけであり、当事者が沈黙したまま死んでしまった今となっては、誰が誰を斬ったのかは永遠の謎と言うしか無いでしょう。為三郎の母にしても芹沢殺害の瞬間を見た訳では無いのですからね。」

「新選組始末記によれば、斬りつけられた芹沢は飛び上がり、ずたずたに斬られながらも廊下に逃げ、為三郎達が寝ていた隣の部屋に逃げ込みました。そして、そこに置いてあった子供の文机に躓いて為三郎達の上に倒れた所を止めを刺されたとも、その時には既に死んでいたともあります。八木家に行けば、この時芹沢が躓いたとされる机と、刺客が鴨居に付けたとされる刀傷を見る事が出来ます。」

「この時為三郎の母は子供達の床に駆けつけようとしていたのですが、その前に芹沢が部屋に倒れ込んできてしまったのでした。そして、刺客が寝ている子供達の上から芹沢に斬りつけるのを見て、半狂乱になって叫んでいたそうです。後になって、この時の騒ぎで勇之助が足に怪我を負っていた事が判り、それを知った沖田が気の毒がったという話が残っています。」

「刺客はすぐに去って行きましたが、よくこの母を捨てておいたものだという気がします。なぜなら、絶対に秘密にして置かなければならないのに、自分達の姿を見られてしまったのですからね。世話になっている八木家の人を傷つけたくはなかったのでしょうけど、もし後で自分たちの名前を出されたらどうするつもりだったのでしょうか。このあたりも芹沢暗殺に絡む謎の一つだと思います。」

「平山は一太刀で首を刎ねられ、お梅もまた首を切られて、皮一枚で胴と繋がっているような状態でした。小栄についてはたまたま厠へ行っていて助かったとも、そこに居た近藤に逃がしてもらった(新撰組始末記)とも言います。平間と糸里は別室で寝ていたせいか無傷のままで、目を覚ました為三郎は、下帯姿の平間が刀を手に、どこに行った、どこに行ったと叫びながら、家の中を走り歩いていたのを見たそうです。」

「この平間については、この後屯所から姿をくらましており、行方知れずとなっていました。逃亡後の彼については盛岡で養蚕教師をしていたなど様々な憶測が流れていましたが、その後の調査で故郷の芹沢村に帰っていた事が判っています。郷里で彼の死亡記録が見つかったからで、この事件があってから11年後の明治7年8月22日に亡くなっていたのでした。当夜の事については、「厠に行った時に刀が光るのが見え、恐ろしくなって雨の中を逃げ出したが、旦那(芹沢鴨)は死んでしまった」と語ったという口伝が芹沢家に残っているそうです。」

「芹沢と平山の葬儀は前川邸にて、神式で行われました。水戸学の徒であり、そして前身は神職であったという芹沢に合わせての事だったのでしょう。ですから、この二人については戒名は存在していません。」

「葬儀には新選組隊士のほか会津藩関係者、壬生郷の人々など大勢の人が参列し、棺の前で近藤が立派に弔辞を読んだというのは小説にあるとおりです。葬儀には水戸藩から芹沢の二人の兄も訪れていたと伝わります。」

「芹沢と平山は壬生寺の墓地に埋葬されました。距離が近いこともありましたが、葬列の先頭が壬生寺に着いても最後尾はまだ前川邸の中に居たと言いますから、かなりの人数が参列していた事が窺えます。」

「なお現在は、この二人を含めて新選組関係者の墓は境内の入り口近くの場所に移されています。阿弥陀堂の奥にある壬生塚がそれで、やはり新選組を偲んで墓を訪れる人が多かったため、一般の人の墓と一緒にしておくのは何かと差し障りがあったからだと思われます。」

「可愛そうだったのがお梅で、菱屋ではすでに暇を出した女だからと言って引き取りを拒みます。それでは芹沢と一緒に埋めてやろうという案が出たのですが、大名公卿の娘を妻とすべき身分の新選組局長と、氏素性の知れぬ女とを一緒に葬る事は出来ぬと、近藤がこれを拒否してしまいました。当時の新選組にそれほど大した権威があったとは思えないのですが、近藤にはそれだけの矜持があったという事なのでしょうか。あるいは、お梅に含むところがあったのか...。」

「困り果てた八木家では、金を付けて西陣の里方にやっと引き取って貰ったという事です。お梅の墓の所在は知られて居らず、もしかすると無縁仏になってしまったのでしょうか。せめて芹沢の隣に埋めてやれば良かったのにと思わずにはいられません。」

「芹沢と平山の死は公式には病死とされ、暗殺に係わった土方達は一切を口外しませんでした。為三郎の母もまた危険を感じて黙して語らず、ずっと後になってから為三郎に語って聞かせたのでした。」

「芹沢の死によって唯一の水戸系の生き残りとなった野口健司も、その年の12月28日に切腹して果てています。新選組を騙る水戸者が、近江国七里村において起こした事件に連座して腹を切らされたと言われますが、確かな事は判っていません。おそらくは芹沢一派粛正の総仕上げとして、無理矢理事件と関連づけて詰め腹を切らせたものと思われます。」

「芹沢亡き後の新選組は、完全に試衛館グループの支配下に置かれました。主導権を握った近藤は、依然として新選組を尊皇攘夷の思想集団であると位置づけては居ましたが、別の見方をすれば会津藩の意向に従順な下部組織に変質してしまったとも言えます。皮肉な事に新選組は、芹沢を始末した事によって、近藤が本来望んでいた尊皇攘夷の魁としての方向性を失ってしまったのかも知れません。」

考文献
子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組日記」、新人物往来社「新選組資料集」、「新選組銘々伝」、歴史読本2004年12月号「特集 新選組をめぐる女たち」


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