新選組血風録の風景 ~池田屋異聞~
(新選組血風録概要)
(大阪に居る頃、山崎蒸は鍼屋の又助と呼ばれていた。谷町にある平井徳次郎の神心明智流の道場に通い詰め、実家にはほとんど帰らなかった。)
(山崎は道場の中でも抜群に強かったが、突っころばしの又助と呼ばれ、倒れた相手にもなお打ち込むという残忍さがあった。このため、師匠は山崎の剣には品が無いとして中伝以上を与えようとはしなかった。)
(山崎の父親である五郎左衛門は、赤壁と呼ばれた林屋という屋号の鍼医だった。山崎はその次男であったが、曾祖父の代までは武士であったと言い聞かされて育った。それも並々ならぬ家系であるという。)
(山崎が目録を受けた時、父に隠し姓を聞いた。しかし、父は本当の姓は言えぬとし、祖先の地である山崎を名乗れと言った。それを聞いた師匠は、奥野とは言わなかったのかと確かめたが、父の意向なら仕方がないとそれ以上は言わなかった。)
・山崎は鍼医者だったか
「山崎と言えば、大阪の鍼医者の息子となっています。これは、子母澤寛の「新選組遺聞」に、「あれは大阪の林五郎左衛門という鍼医者の小せがれ」とあるからで、八木為三郎が語った言葉とされます。」
「山崎家の過去帳は意外な事に京都の壬生寺にあり、父親の五郎左衛門もまた壬生共同墓地に葬られています。山崎の本姓は林と言い、「新選組遺聞」の記述と一致しますね。」
「また、過去帳には五郎左衛門の妻が万延元年に大阪で亡くなったという記載もあり、元は大阪に居た事が確認できます。いつの頃からか、京都に出てきていたのですね。ただし、父が鍼医であったかどうかについては、ここからは確認できません。」
「次に、山崎が新選組に入った後、松本良順が山崎に救急法を伝授した事がありました。その時山崎は医家の子と自称し、「我は新選組の医師なり」と言って笑ったとされています。これらの事を総合すると、山崎は大阪の鍼医の息子であったという為三郎の言葉は、どうやら真実であったらしいと言えそうですね。」
・神心明智流とは
「作品中に、山崎の道場は神心明智流だったと出てきます。山崎は普通は棒術の使い手とされ、剣術の流儀については伝わっていません。一方、神心明智流という流派は、調べた限りでは実在しない様です。おそらくは神道無念流と鏡新明智流を合わせて創作した流儀の様ですね。」
「後で登場する大高忠兵衛もまたこの流儀とされていますが、彼の流派もまた伝わっていません。どうやら、二人の宿命の出会いの場所を作るために、作者が設定した虚構という事の様ですね。それにしても、いつもの事ながら、司馬氏の構成力の見事さには脱帽する思いがします。」
以下、明日に続きます。
(参考文献)
子母澤寛「新選組遺聞」、新人物往来社「新選組銘々伝」
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